アートと思考⑦ 絵を描くことはイキまくること(Painting is My Ecstasy)

文・画像 / 服部洋介

『Painting is My Ecstasy:No.001(Japanese Schoolgirl)』 2013

『Painting is My Ecstasy:No.001(Japanese Schoolgirl)』 2013

 北野カルチュラルセンターで開催された越ちひろさんの個展『強く儚き優しい絵~Painting is My Love』から1 年になる。これとよく比較されるのが、その直前に開かれた、元電通マン・高橋紀成氏のプロデュースによる『小松美羽展 信州からの覚醒と神秘~原点~』だ。会場に著名人が出入りしていたから、うっかり会っちゃった人も多いでしょう。小松さんはPRIXCANSON2013 日本代表としてノミネートされ、しょこたんとマニア番組で狛犬について語ったりと活躍中。マスコミ対応から文化外交まで、さすがメディアのプロがついているたけのことはある。
 一方の越さんは、そっちが不得手で、YBAや村上隆のようなことはできそうにない。例えば、村上はデビュー時にわざわざ椹木野衣に論評を依頼するなど、美術界への目配りや、アメリカの動向などをリサーチする80年代のゴールドスミス・カレッジ流のマネジメントを身に着けていた。マイケル・グレイグ=マーティンの教えにならい、YBAは常に商業的成功を宿命づけられていたわけだが、彼女は、そういうタイプのアーティストではないわけだね。一時はこうも言っていた。「絵だけを描いていたいと、この一年は思う。バイトでも何でもして、好きな絵だけを――」「そんなに苦しいならやめてしまってもいい、と思う時がある。食べるだけなら、バイトでも何でもして、好きな絵を描きたい」「絵=金というのが嫌になってきた。(恩師の)教授は、絵一本で食べているのを褒めてくれる。何としてもそうしろ、と。でも、自分の中では、絵一本で描いてみないとわからないことだった。絵だけでガッポガッポ稼いでいたら違っていたかもしれないけれど。でも、自分は極端に変化するタイプではないので、結局は描き続けるのだと思う。『描かないと君は生きられない』という考え方をやめる。いつでもやめていいんだという中で、やっぱり描き続けてゆく」(1)。
 この発言は、北野で個展を開くちょうど5 か月前のもの。楽しげに酔いどれて、愛想よく微笑み、饒舌に語る彼女に、ふと絵に対する時と同じ真剣なまなざしが蘇り、こわばった表情に緊張がみなぎる時、憂いを帯びた〈沈黙〉が彼女のもとを訪う。個展開催にあたっては、スポンサーはじめ関係者との間に、根本的に通約不可能な溝、方向性の違いがあったという。デリダ風に言えば、それは〈言語〉の問題だ。言語は普遍的に疎通しなくては言語ではない。だが、その前提こそが権力的なものだ。デリダ曰く「特異性を普遍性に移し替え〔=翻訳し〕なければなりません。(…)そしてもちろん、この翻訳の法を植民地的コンテクストと呼ぶものに移し替える〔=翻訳する〕ならば、そのとき私たちは何ができるでしょうか」(2)。デリダの例に例えるなら、彼女は、フランスの法廷に呼び出されたアルジェリア移民である。彼女はフランス語がよくわからないにも関わらず、フランスの法(フランスの歴史、記憶、言語)に従わなくてはならない。フランスの判事も、彼女の特異性を考慮しながら、かつ、自身の言語(公理、価値、規範などの集合体)に従わなくてはならない。他者に対して正しくあろうとすればだね。実際には、そのへんをどう解釈するかという権限は、この例では、裁判所が握っているわけなんでしょうが、アーティストとスポンサーの関係も、まさに自身の〈言語〉をめぐる闘争の様相を呈していた。絹谷幸二なんかは「画商さんと付き合っているけれど、師の鳥海青児先生に言われたんだ。「画商とは戦いだよ」と。ぼくはそれを胆に命じてきた」「要するに画商の言いなりになっていったら作品が荒ぶということ。だから作家の意地を通せ、と。ぼくはこれからゴヤの「黒い絵」みたいな絵でも描こうかな、と思ってる」(3)と言っている。双方が自己の〈言語〉に他者を同化させようとする争いは、その発話の真偽や適切さをめぐる争いに等しい。まして絵が「良い」とか「悪い」とかいうことになると、完全に形而上学、〈沈黙〉の領域だ。
 じゃあ、そのへんのアートをめぐる齟齬というのは何なのか。前回、「不要な労働によって生み出された余剰を、不要な浪費(蕩尽)によって捨てる」ポトラッチの話をした。贈与経済において、余剰蓄積による格差を防ぐ目的があったと仮定されている。バタイユの『呪われた部分』に見る蕩尽の本旨は、端的にいえば「共同体においてエクスタシーを得るために行われる自己破滅的で非生産的な贈与」だ。その中心には「神」がいて、神に対する何の儲けにもならん贈与、つまり、供儀や祝祭、ドンチャン騒ぎをすることで、皆が恍惚の中で結束を強め、共同体を危険にさらす「余剰」を何らかの形で使い切ることが、蕩尽の目的だった。ところが、プロテスタンティズムでは、神への蕩尽は無意味として禁じられ、人は〈神の財貨の管理人〉として、富は富のために生産的に消費されることになり、今に見るような資本主義が確立された、と昔の人は言っているわけだ。このように、蕩尽目的の「捨てる-無駄に作る」という行為によって生み出されるシミュラクル(実用性のないニセモノ)は、基本的に他者の利権を侵害しないようにできている。オリジナルと同じ価値、意味、機能を果たそうとする偽札とか偽皇族(「オリジナルのオリジナル」)ではなく、あくまでも「オリジナルのニセモノ」であることに重点が置かれるわけです。前稿で書いた通り、無駄な公共事業のような「仕事のニセモノ」の創出は、既存の「必要な仕事」の奪い合いではない。ニセモノゆえ、実用性が放棄され、断片化し、そこに別の文脈や無関連性が浮かび上がる。しかし、公共事業で国庫が空になると、増税せんといかん。ポトラッチの目的からすると、余剰のあるところから資金を吐き出させないと意味がないのに、庶民に課税してどうするんだという話になる。それはともかく、コロッケによる美川憲一のモノマネだとか、ジャスコのCMソングの替え歌だのは、ニセモノであるところにレゾンデートルがある。それに対して、贋作のように「これは本物ですよ」的なオリジナル性を主張するものには、オリジナルの価値に取って代わろうとする性質があるわけだ。もっとも、92 年から98 年までもめたスナック「シャネル」事件は微妙な結末で、当該スナックは看板を一部「シャレル」に変更して抵抗したが、結局、オートクチュール・ブランドのほうの「シャネル」グループに提訴され、最高裁小法廷で不正競争防止法抵触のかどで店名変更を命じられた(4)。原審では「そこらのスナックとブランドのシャネルを混同するはずないだろ」と、お見逃しいただいていたんですが、まあ、おっかない話だ。
 長期的に見れば、ニセモノは、なんであれオリジナルに取って代わる可能性がある。「ジャスコで~」の元歌は歌えないが、替え歌の方はみんな覚えてるでしょう。長野市南部では、「蕎麦屋で×××、三輪車で逃走、捕まった」と伝承されているわけですが(不謹慎な部分は伏字とさせていただきました)、諏訪地方では、なんと「カネジョウで×××、明日は丸光、がんばろう」とご当地デパートが二つも登場、さらに丸光に至っては、今や現存せず、貴重な口碑となっているのである。なお、カネジョウの歌にも替え歌があった。諏訪人のバイタリティには呆れるばかりである。テカ、ジャスコ自体、もう中国や東南アジアにしかないんだっけ。オリジナルが失われると、オリジナルはニセモノを参照して復元される。また、もともと真正のオリジナルが存在しない場合(それが形而上学である場合など)は、ニセモノ自体が「現実」として振る舞うことになる。ハイパー・リアルとはそうした事態で、主としてメディアを介して生み出されてきた。参照できないはずの「全体」を簒奪し、価値や意味をも模倣する(どこから?)。こうなると、もうシミュラクル違反である。いやまあ、「全体」は形而上学であり、論理命題的には無意味というか〈沈黙〉の領域なので、それをどう模倣しようとオリジナルとは無関係なのですが、ポトラッチ的に言えば、それは生産的な価値、つまり「意味」と結びついてはならない。それはオリジナルの利益を侵害する。それをボードリヤールは「無を価値に売り渡すこと」と言った。逆説的だが、「無なる形而上学」を「無」をとして模倣することはできない。その瞬間、無意味は意味になってしまう。無意味なものを「これは無意味ですよ」と可視的に提示することはできない。虚無そのものを記号システムの中心に出現させることこそが、芸術にとって根源的な出来事だと彼は言っているわけだ。さもなくば、「アーティストたちは、無内容を商業的な戦略にしているだけであり、(…)無内容であることに宣伝用の形態をあたえること」(5)にすぎない。ユダヤのカバリストたちは、「無なる神」(AYIN, AYIN SOF)におけるこの事態を察知していた。神の意にかなう義人は決して現前しない。タルムード時代から伝承される36 人の「隠れたる義人」(ニスタール)がそれだ。世界の存立を担うとされる彼らだが、自分自身すらその存在に気づいていないという。ショーレムに言わせれば、もはや宗教史とさえかかわりのない聖人たちなのだ(6)。
 無価値・無意味・不可視なるもの、すなわち蕩尽の中心には形而上学的な、わけのわからん無、神が鎮座する。それを可視的な価値とひきかえようとすれば、それは有償の贈与(相手に負債を負わせること)、商品化である。他国への支援なども生産性度外視の蕩尽、「呪われた」非生産的消費の一つに挙げられるが、かつての日本の莫大なODAだとかは、結局、現地で日本企業の工事費に使われちゃってたんで、蕩尽といっても、実際には、成就不能な理念であって、何を蕩尽したところで、別の審級から見れば、腐らない富である貨幣としてどこかに貯蓄されてしまう。結局、余剰の使われ方がいかに無意味で、いかに人々の心を高揚させるかがポイントなんだろうね。かつて信濃一国の「貢税永代ノ課役」(7)をもって蕩尽しまくった諏訪社の祭礼は典型的だが、観光目的になると、芸術を町おこしに使うのと同じで、どういうわけか当事者から「なんか趣旨が違うんだよな」という声があがる。長野市内のある祭礼に奉仕している人の話を聞くと、祭事の奉納というのは無名的な行為であり、そこから誰かが利益を得るようなものではないらしい。もっと没我的なもので、バタイユがいうように、独創性と個人的思考様式とは無縁なもののようだ。何の得にもならない作者不詳のジャスコの替え歌を歌っている時の、あの奇妙な一体感と同じエクスタシーなんだろうね。
 さて、余剰をどう蕩尽するかだが、衣食住が満たされ、家電類も飽和すると、ポトラッチ的な装いの再分配は、再び文化・芸術へと向けられる。バブルの頃のメセナだ。貿易黒字が累積し、金あまり対策で作られた芸術文化振興基金によるばらまきで、「神」の代替物たる芸術は、「地上の」生産的規範の内部へと回収され、ついでに生産と貯蓄の倫理、いわゆる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(プロ倫)にそぐわない反社会的で変に左翼的なアングラは排除。次に、御柱のように富を無意味に宗教へとつぎこむことで体験される聖性は否定され、ひたすら富が富を生む生産的消費のサイクルに入るわけなんだが、かつて宗教や宗教によって歴史的に正当化されていた階級の蕩尽におつきあいしていた芸術家たちも、生産に貢献しないことには、生存不可能になってしまった。あまりに胡散臭いからね。これだと蕩尽ではなく、コマーシャルとしてペイしなくてはイカンのも当たり前なので、その「祝福された」体系から外れた探求を試みる「呪われた」アーティストとは齟齬を生じる。「何を描くかじゃないんですよね、絵って。絵の中にどれだけのエネルギーとか、魂とか、心の中のぎゅっとつかむような、そういう絵を、コンセプトや何か、その、モチーフを使って……そういう絵を描けるかなんですよね。きれいとか汚いとかの前に、その強いエネルギーをすごく感じるとか――何が描かれているとか、そういうのの前に」と、越さんは言っているが、エネルギーの蕩尽性が強すぎると、プロ倫に反するので、スポンサーからは嫌がられる。「(スポンサーとの方向性の違いを)一番感じるのは、利益を得るためにしてることなのか、人の心を動かすためにしてることなのかっていう、(…)同じ方向を向いていないことがたくさんあったかなあと、だからそれが、別にそれが悪いことじゃないですけど、黒字になることは、すごい大事なことなんですけど、やっぱ、今まで自分が、お金を得るためにというのを最終目的としてやってなかったんで、その差っていうのをやっぱり、いろんなところで人とその差を感じますね。同じ時もあれば、違う時もある」「(スポンサーにとってのメリットは)やっぱCMみたいなもんじゃないですか。いい印象をもつことができるぐらいじゃないですかね、たぶん。黒字にはどうしたってならないし、それは、チケット500 円で、あそこぐらいの会場を借りて――で、いろんなイベントをやって、広告やったりすれば、なかなか500 円では黒字にならないことだってあると思うので、(…)広告ですかね。(スポンサーには)理解されたと思います」(8)。かつて彼女は「やりたいことがあれば、やれない理由を探すのではなく、金がないなら借金してでもやる」と言っていた。個人のエクスタシー追求の試みは、共同体からは「変ね、やーね」と奇異の目で見られる。集団で柱に乗ったり、だんじり引き回して他人の家を破壊する集団的蕩尽は許されるのに、だ。蕩尽は危険性が高く、特権的な行為なので、個人には許されていない。それをやったイエス・キリストは、案の定、供儀にされた。
 したがって、アートは公的な蕩尽を装わなければならない。しばしば芸術家は、人々にポトラッチを勧める宣教師として振る舞うことで、共感を獲得する。芸術家は、社会的公平の実現やチャリティ(9)、あるいは精神の解放のために立ち上がり、共同体の余剰を集積して、蕩尽を呼びかける。募金自体にアートは必要ないが(そこにかかる経費を募金に回せって話になる)、労務やサービスなしで人から金をとるのは忍びないので、無駄な商品として、形式的に作品が要請されるのだ。また、ポトラッチは目に見えて派手なほうが宣伝効果が高く、交感によってエクスタシーが得られなくては、人は生産的倫理に閉じこもってしまうだろう。最終的に、ポトラッチに参加して蕩尽する人が増加するか、アート自体が生産に転じて商品化することによって、作家のもとに資金が集積される次第だが、もはや、言ってることの意味は同じなんじゃなかろうかって話になる。展覧会後、越さんは言っている。「(以前は、商業的な部分に)納得せずに描いていたんでしょうね。自分の中でそれがアートなのか、それとも、商業ベースに乗っかった、ただのお金を稼ぐ手段なのかっていうところに、納得しなかったんでしょうね。今は、ぜんぶ納得できてます」(10)。
 金融システムの偉大なる発明者であるユダヤ人でさえ、かつてはポトラッチ民だった。ユダヤ法では、各人が収入に応じ、貧しい人へ寄付することは義務で、怠ると押収を受けた(11)。これが苦難にあったユダヤ共同体を結束させ、存続させてきた。一方、マネー・システムの原理はこうだ。貸した金、つまり、現に手元にはない金を債券化し、それをもとにさらに金を貸し付けることで、人に借金させるほどに見えない金が倍々に増えていくというわけだ。「誰かに貸している金がある」という言説を紙に書き起こしたものが紙幣だ。しまいには、返せない人に貸した金まで債券にしたのがサブプライムローンで、ほとんど存在していない金まで金として扱っているから、あんなことになった。この金のシミュラクル、つまりハイパー・マネーは、負債によって支えられ、過剰化する。逆にみんなが預金して銀行に金を貸すばかりになったら、恐ろしいことになる。金を貸せなくなったら、銀行の富は消滅し、今度は利子を延々と預金者に払い続けることになるからだ。所詮はまあ、他人の金だからね。バブルの時には、地価があがるだろうという予測のもとに金を貸したら、担保に取った土地の価格が下落して損を出しちゃったわけですが、今世紀のアート・バブルでは、アートが利殖に使われた。これは蕩尽ではなく、あくまで有用性の範囲内での投資と見なされている。まあ、土地の時みたいに行為遂行的に不適切な発話にならないことを祈るばかりですが。発話の適切性を問われなくなったら、それこそバブル崩壊という蕩尽(強制ポトラッチ)になるわけです。
 こうして、共同体内部にあって、そのエネルギーで共同体を破壊しかねない余剰は、神への蕩尽ではなく、なんと生産のために振り向けられることとなった。今や、浪費すら生産推進のための原動力として奨励される。借金は、うまいこと回収されてハイパー・マネーに組み込まれる。これが生産内部で循環する蕩尽のスタイルだ。とにかく限られた生存財だけじゃ仕事にならないんで、無駄なモンを作りまくらないかん。勤労するために需要が求められるのだ。マネーのシステム上、負債の減少とともにマネーは減るので、マネーを極めた1%の富裕層のもとにハイパーな余剰が蓄積されとるというのは、どこかに巨大な負債があるということだ。みんなのローンだね。どうもそれで困ってるのは大衆らしいぞって話になり、余剰が大衆に蕩尽されずに格差が拡大してるぞってことになると、芸術家としては、そういうのって嫌な感じなわけだ。だって、嫌ってるでしょ、そういうの?
 かといって、蕩尽は共同性と不可分であり、共同体の同一性護持のためにナントカと言われても、やな人からすると、それもやなんですね。バタイユも言うように、この手の同質性は、ファシズムに結びつきやすいから。一方で、資本主義をハイパーなまでに追求したグローバル・エリートは、もはや共同体や国民国家の敵とまで言われている。こういう中で、アートというエクスタシーの追求も、蕩尽か貯蓄かのメタな選択を迫られる。要するに、余剰的なるものが浪費に向けられるのか、マネー的な拡大再生産に向けられるのかの違いである。だが、資本主義においては、消費と生産は同義であり、アートによる蕩尽的エクスタシーが、その巨大な文化エネルギーのゆえに、大衆を眩惑し、格差構造や社会的抑圧を糊塗したり、いいように使われちゃうこともあるわけだ。なので、蕩尽てのは、集団心理に陥らないように、刹那的かつ無意味にやらないといけない。オリンピックもね。
 越ちひろ曰く、「もっと意味がないもの。モチーフに対して感情移入しなくなったところはある。形の面白さ、視覚的なもの――そのもの本来の意味は必要とせず、形の面白さだけを追う」(12)。そもそも意味のないところに翻訳可能な意味(価値)はない。それが、蕩尽の対象として求められる形而上学なのだ。

(*1)2012年9月3日。筆者との対話。創作グリル「SENJYU」にて。
(*2)『デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録』Jacques Derrida〔著〕,Paula Patton,Tenney Smith〔編〕,谷徹,亀井大輔〔訳〕,株式会社岩波書店,2005,p.108
(*3)『アート・トップ』221号,芸術新聞社,2008
(*4)平成7(オ)637 不正競争 民事訴訟「スナックシャネル事件」1998年 09月10日 最高裁判所第一小法廷
(*5)『芸術と陰謀 消費社会とアート』Jean Baudrillard〔著〕,塚原史〔訳〕,2011,p.12-13
(*6)叢書・ウニベルシタス169『カバラとその象徴的表現』Gershom Gerhard Scholem〔著〕,小岸明/岡部仁〔訳〕,法政大学出版局,1985,p.7-8
(*7)権祝本『諏方大明神畫詞』諏訪円忠〔著〕,1356
(*8)(*10)2013 年3 月21 日。筆者との対話。創作グリル「SENJYU」にて。
(*9)越ちひろ主催のチャリティ展覧会『IMAGINE ART FOR THE CHILDREN』(2010)で集まった寄付金の総額は269,563 円。偉いね。
(*11)『ユダヤ人の歴史(上巻)』Paul Johnson〔著〕,石田友雄〔監修〕,阿川尚之+池田潤+山田恵子〔訳〕,株式会社徳間書店,1999,p.340
(*12)2012年12月4日。筆者との対話。モスバーガー長野SBC前店にて。

服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14