枯木

文 / 丸山玄太

 山間の集落の外れにある火葬場の煙突から黒煙が上がっている。緩やかにくねりながら低く垂れ込み山頂を覆った薄い雲に吸い込まれていく。その様子を老境の二人の男が眺めていた。
「やっと定年だ、これで解放されると言ってたんだがなぁ、あいつ」
男が煙突の先を見ながら呟いた。隣の男は無言で応じる。指先で燻らせていた煙草はそのまま一度も口に運ばれることなく消えた。黒煙を吸い込んで、雲は更に低く垂れ込める。
「こりゃあまた雪だな」
隣をちらと見てから煙草を放り、男は建物の中へと入っていった。無言の男はその背に一度視線を投げたが、黒煙の揺らぎを身に宿したように、ゆっくりと再び視線を煙突に戻した。

 観測史上最も遅い夏日だと言っていたその半月後に、集落は雪に包まれた。住民は慌てて冬支度に入ったが、老人ばかりであったから緩慢なものだった。雪に燥ぎ駆けまわる子らは、いない。予定通りであろうと唐突であろうと、雪が訪れただけであり、それに慣れ過ぎている者たちだけだった。訪れる前から受け入れられており、拒否も理解も既に去っていた。
 崖下の古い家に住む男が、書斎の棚から猟銃を取り出す。銃は分解されていたが、畳の上に広げた新聞紙の上に置き、更に細かく分ける。雪は音もなく降り続いており、金属がぶつかり擦れる音だけが響く。部品ひとつひとつを手に取り点検し、ウェスとオイルで拭く。それが終わると、銃身を覗いてロットを差し込み何度か往復させた。猟銃を再び組み上げ棚に戻し、替わりに引き出しから大小4本のナイフを取り出して、新聞紙の上に置く。盥に水を汲み、砥石を濡らす。ナイフが石の上を滑る。その動作はあまりに規則的で、早くも遅くもなりはしなかった。ただ一定の拍子を刻み続ける。研ぎ終えると、再度刃を確認して、掛けてあったベルトに差し込む。隣に掛けてあったロープは、解いて肩幅ほどの長さで握り、引っ張って強度を確認していく。男がすべてを終えたのは、暗くなってからだった。雪は止んでいた。男は一日、何も口にしなかった。
 翌朝、まだ日も昇らぬうちに、男は猟銃を肩に掛け家を出る。地面は雪に隠されており、夜気で凍った表面を厚い靴底が鳴らす。三日月が東の空に出ていたが、崖を迂回し坂を登って林に入る頃には既に薄くなっていた。林の底に積もった雪は足首程しかなく、難なく男は歩いていく。狐のものだろうと思われる獣の足あとが幾つかついていた。時折、枝に積もった雪が落ちて地面で砕ける音が林に谺する。暫くすると、崖下の方から林に入った足あとが現れ、男はそのあとを追う。追う、というよりも、男にはそれがどこに続いているのかが分かっているような足取りだった。
 冬に耐えている樹々の中に、既に朽ちてしまっている木があった。その前に、男が一人佇んでいた。猟銃を肩に掛けた男が近づくと、お前か、とゆっくりと振り向きながら言った。その男は、寝間着に白いダウンジャケットを着ているだけだった。向き合ったまま、無言の時間が過ぎる。樹々の軋む音が二人の頭上を渡り、またどこかで雪塊が落ちる。
「知っていたのか」
寝間着の男が口を開く。規則的に白い息を吐いていた猟銃の男は、一度深く吸い込み、すべてを吐き出してから、
「あの時、見ていた」
と、だけ言った。陽の光が林の底にも届きはじめ、白い雪面に樹々の長い影が落ちる。
「俺の血はきっとあんな鮮やかじゃないだろうな。若しかしたら赤でもないかもしれない。それを考え始めてしまうと、いつの間にかここへ来てしまう」
遠くから銃声が響き、ゆっくりと消えていく。寝間着の男の前にナイフが放られる。
「確かめれば良い」
そう言うと猟銃の男は、林の奥へと入っていった。暫くしてまた銃声が響いた。幾つかの雪塊が、枝から落ちる。

 葬列が火葬場から集落へと戻る頃には、牡丹雪が落ちていた。その様子を斜面から狐が見つめていた。

丸山玄太 1982年長野市生まれ 東京在住 クリエイター
undergarden主催