文・画像(フライヤー)/ 徳武安紀子
人はよく「わかった、わかった」と言いますが、本当に「わかる」ことはめったにありません。
私は今までに3回ありました。いずれも20代でした。今日はそのうちのひとつを書いてみます。
20代の半ばに、私は小さな人形劇団に一年間いました。
何事にも無駄に正義感の強かった私は劇団の上層部に何かにつけて腹を立てていました。今思えば不思議です。
あるとき、都内の幼稚園、保育園に公園のちらしを配るように言われました。渡されたリストは1千ヶ所分
一日に1,2ヶ所まわって、後は、お茶にサボっている先輩たちに腹を立てて、「よーし!一日でまわってやろうじゃないの!」
自転車に山ほどのチラシを積んでいざ出発!! 当然、目は血走り、運転はまるで暴走バイセコー。
…はたして!とある新聞店の店先の駐車場で、ガリガリガリーッと派でな音とともに、大転倒してしまったのです。すり傷ひとつなかったのは、丈夫なジーンズのおかげとしても、ふと振り返ればア”-!!何と自駐車場のコンクリートにタイヤの跡がきれいなカーブを描いているではありませんか!
「どーしよー!!とにかく、急ぐし、謝らなきゃっ!」
と、店のガラス戸を開けて「ごめん下さーい!」と声をかけました。
すると、広い板の間の真ん中、奥に向かって真っすぐ伸びた廊下の右側奥のドアから若い奥さんが「ハーイとエプロン姿で出てきました。
「すみません!今お店の前で転んで、自転車でガガガーとやっちゃって、コンクリートえぐれちゃったんです!すみません!」
と言って、ペコリと頭を下げました。恐る恐る頭を上げると、ポカンとした奥さんの顔。しばし見つめ合う二人。
するとその時、まっすぐの廊下の右側奥のドアが、パッと開いて「どうした?」と一人の男性が。この奥さんのだんあさんらしい。『わかった!』「そうだ、この人に言わなきゃダメだったんだ」と思った私は再び「すみません!今お店の前で転んで、自転車でガガガーっとやっちゃってコンクリートえぐれちゃったんです!すみません!」といって思い切りペコリと頭を下げました。
さっきより長めに下げた頭をおそるおそるあげると、目に映ったのはやはりポカンとしただんなさんの顔、と、奥さんの再びポカン顔。
と、と、と、その時、廊下のつきあたりのすりガラスの引き戸がガラガラと開いたではありませんか!
そして、そのむこうから出てきたのはみごとな体格の見えるからに貫録のある、おかみさん。眼光鋭くまっすぐに、私を見据えています。
『わかった!』「この人こそが、この店のご主人だ、この人に言わなきゃだめなんだ!」
そこで、私は再び「すみません!今、お店の前で転んで自転車でガガガーってやっちゃって、コンクリートえぐれ」
まで行ったとき、そうです、まさに、この瞬間!ほんの一瞬で!本当に!心の底から!『わかった!』んです。
しっかり固まったコンクリートが自転車のタイヤや華奢なスタンドごときで粘土のようにえぐれるわけはない!ということが!
そうです『わかる』ことに時間はかからないのです。
言葉と言葉のミクロのような隙間で十分なのです。
私は先の台詞(もはや3回目となった同じ謝罪のセリフ)「……コンクリート、えぐれ」に続けて、少しもとどこおることなく、こう続けたのです。「……るわけないですよねェ」
胸を張って、そう言い放つ私の目に映ったのは、更にぽかんとした3人の顔と、やがてゆっくりとうなづく旦那さんの顔。
先を急ぐ私は、詳しい説明をすることもなく
「どーもおさわがせしました」と晴れ晴れとお辞儀をして、お店を後にしました。
既にお分かりかとは思いますが、一回目と二回目の『わぁった!』は私の思い込み以外の何物でもありませんが、3回目の『わかった!』は正真正銘人生3度目の『わかる』なのでした。そして申し上げるまでもなく、この奇跡の一瞬でわかったことは
「固まったコンクリートは、そう簡単にえぐれない」
ということだったのです。そうです。
私は人生の中でそう何度も経験できないこの大事なチャンスをコンクリートの固さを知ることに使ってしまったのでした。
徳武安紀子 Akiko Tokutake 1955生まれ
明治学院大学卒業劇団民衆舞台所属30才で飯綱町に転居
料理店アリコルージュ開店現在にいたる。
欧風家庭料理アリコ・ルージュ restaurant haricot rouge
電話026-253-7551
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