文・写真 / 服部洋介
レッドカードを宣告された本田圭佑 2013
先日、長野市のARTSPACE FLATFILEにおいて、『Nagano Art File 2013 10×10』が開催された。長野にゆかりのある人たちのグループ展ということで、オーナーのモリヤコージさんの「強制参加でお願いします」という一言で、私も3作品を出品した。新聞報道によると、プロ・アマ問わず、大人から子どもまで、500点の作品が集まり、大変な盛況ぶりだという(1)。
ところで、出品した作品はどうなったのか? 私は河原温と同じで、行事には顔を出さない人間なので、町田さんという身のまわりのことは何でも発信しなければ気が済まない奇特な人がいて、私の3作品を1人で購入したというさらに奇特な(というか見識の立派な、笑)人がいた事実をFacebook(2)に投稿しなかったならば、そのまま知らずに終わっていたことだろう。そんな経緯もあって、ともあれ一度、会場に足を運んでみることにした。
さて、会場に着くと、壁一面、びっしりと作品で埋まっており、中にはずいぶんとユニークな作品もあっておどろかされた。ところで、私の作品はどこ? モリヤさんに尋ねると、「いや、R指定なのでこちらに置いてあります」。見ると、ご丁寧に椅子の下に、それも裏返しにして絶対に見つからないように展示してある(笑) これはすごい。1917年のNYアンデパンダンテン展におけるデュシャン便器事件に匹敵する破格の待遇だ。
ところで、オープン参加の今展については、「一歩間違えれば学芸会になるのでは?」と危惧する声もあった。そうしたわけで、私は間違っても学芸会では展示されないであろう作品を出品して、今展が「学芸会」的か否かの試金石とした。結果はご覧の通りである。なお、今展には贅沢にも各賞が設けられており、その中の一つに「池田満寿夫美術館賞」がある。実は、池田においても長野北高校(現在の長野高校)在学中に、同様の事件が出来した。当時、石膏デッサン主体だった北高美術班は、学校側の勧めもあって、藝大の教官を講師とする講習会に参加した。そこで満寿夫は初めてヌードデッサンを体験、事後の講評会でも講師から作品を激賞されたのであるが、恒例となっていた美術班の校内展示でヌードを発表しようとしたところ、美術教師から差し止めをくらい、立腹した彼は校長に直談判に行くも、うまく言いくるめられて断念した(3)。確かに、文化祭や校内展示でヌード三昧をやられたら学校も困るだろう。ちなみに、そんな満寿夫の後輩にあたる私は、高校時代、班活の一環と称して学校の輪転機を使ってヌード画集を印刷、担任や友人に配って歩いていた。印刷するところを世界史教諭の白鳥さん(生徒会顧問)に見つかり、言い訳に苦慮したが、先方も校内の風紀には無関心で「おっ、なかなかうまいなこれ。誰が描いたんだ」で終わった。ちなみに、私は帰宅班(笑)
さて、この「学芸会」問題、アート批評の世界にも前例がある。例えば、川俣正が総合ディレクターを務めた『横浜トリエンナーレ2005』については、高く評価する声も多かった一方、「学園祭のよう」と批判する意見も少なくなかった。同展で、川俣は反スター・アーティスト人選の立場から、若手や無名の作家、あるいは、ふだん美術の文脈で紹介されない作り手を意識的に起用、市民や学生グループも参加し、人と場に関わりながら、作家と観客の距離を無化しようと試みた。結果、複数の多くの作品が同じスペースに同居することになり、難波祐子は「突出した一つの作品の印象よりも、全体のお祭り気分を楽しむことが優先された感があることは否めな」いと苦言を呈している。このことは、同展において、観客が個々の作品に向き合い、思索を深めるというような鑑賞の仕方を必要とする「ニュートラルな「ホワイト・キューブ」の中でこそ成立する作品」が苦戦を強いられたことと無関係ではない。その上で、難波は、展覧会を企画することは、意図の有無に関わらず政治的な行為であるとし、そこに生成される美術的言説の不在こそが、同展が「学園祭」と揶揄された大きな要因であると指摘する(4)。ともあれ、90年代に制作の現場を圧倒するに至ったポスト・コロニアリズムやマルチカルチュラリズムといったポストモダン的言説の肥大化を反省しながらも、刺激的で創造的な展覧会を創出するために、企画者はキュレートリアルな言説を拒絶してはならないというのが難波の結論だ。
とはいったものの、こうした評論は論理的に言えば無意味である。命題「キュレートリアルな言説を生成する(P)ならば、刺激的で創造的な展覧会が創出される(Q)」の真理値は、1/0/1/1である。したがって、前件が偽、つまり「言説を生成する」の否定であっても、「刺激的で創造的な展覧会が創出される」可能性は残されている。これを双条件法で「Pに限ってQ」と拘束しない限り、彼女の言明は普遍的なものとはならないが、部分情報しか知り得ないところでそのように断言するのは、直感的と言わざるを得ない。よって、このような暗に仮定的構造を含む命題において、キュレートリアルな言説がなされない形で開催される「学芸会」的な展覧会における刺激と創造性の成就とを真理値表から排除するのは、Pが真/Qが真であるとする言説の特権化に他ならない。もし、仮に「刺激的で創造的な展覧会が開催されたならば、それがキュレートリアルな言説に基づくものである」と言明するならば、それは後件肯定の誤謬ということになろう。その前に、命題における事実の成立/不成立を確かめる上で、「刺激」はともかくも、「創造的」という語の定義も必要であろうし、よりラディカルにいえば、アートを論ずるならば、アートとは何かを範例的に明らかにしなくてはならない。もっとも、これはほとんど全ての美術評論について言えることで、本稿も例外ではない。このような状況において、かつてデュシャンが、ジョン・ゴールディングに対して語った言葉「アンチ・アートという言葉にはいささか悩まされる。というのは、あなたは反対(アンチ)か賛成(フォア)かという時、それは同じものの二つの面であるからだ」(5)が問題となる。
デリダは「物」「作品」「芸術作品」の境界設定が可能ならば、あらかじめ芸術の本質に対する何らかの把握(前了解)が必要であると指摘する(6)。中村八束博士はそれを芸術における「公理」と位置づける(7)。しかも、その公理、すなわち芸術における普遍的な「定義」自体、存在するかどうかもわからないという。「歴史に残ったものが真の芸術」というような、村上隆流(基本的にはデュシャンによる定義の部分的踏襲)の時間不変性を欠いた芸術の「定義」は、ここでは「公理」としての資格を欠く。それは結局、アートという制度をめぐる政治的な、そして運の問題に過ぎないからだ。それが出現した時点で「芸術か否か」を即座に判断できなければ、公理ではないし、それは過去の作品にも未来の作品にも適用できるものでなくてはならない。だとすると、そうした公理を欠いた美術評論とは何なのか?
評論というものは、本稿のように活字となり、多かれ少なかれ、目に見える形となって世間に流布されるものであるから、そこで取り上げられている作家や作品が何か特別なものであるという印象を人々に与えるであろう。アート界で最も力をもつ美術記事の一つとして『ニューヨーク・タイムズ』のアート・レビューがある。信濃毎日新聞の「金曜アート」同様に毎週金曜日に掲載され、人々の注目を集めている。京都大学大学院でメディア史を教える佐藤卓巳准教授は、講義に先立って「メディアという言葉をすべて一度は広告媒体というふうに置き換えて考える習慣」(8)をつけよと教える。メディアのもつ特権化された影響力自体が、ここでは問題とされるのである。批評も展覧会も、目に見える形で現前しなければ、力をもつことはないだろう。逆にいえば、自説を人々に対し現前化させるプロセスこそが、この事態の黒幕なのだ。「天才」が「アフリカの真ん中」で傑作を描いていても誰もその絵を見ないとすれば、そんな天才はいないということになる。「とすれば、何十万という天才たち、つまり、認められ、尊敬され、栄光をものにするための術を知らなかったが故に自殺し、死んでしまい、消えていく天才たちの存在を考えてみることもできるでしょう」「観客の介入によって、彼は認められる。そうして、彼は後世にも名を残すことになるのです。この事実を無視することはできません。私は作品を見る者にも、作品をつくる者と同じだけの重要性を与えるのです」(デュシャン)(9)。その上で、デュシャンは流通過程に収まることでアートが現前化するという村上流の解釈に不快感を表明しているのである。
何をアートとして取り上げるのか? 展覧会や美術をめぐるあらゆる言説は、このような状況の中で自己の解釈を特権化させるべく躍起になっている。『ガーディアン』紙のエイドリアン・サールは「アート批評家というのは、自分が思ったことを口にする鑑賞者にすぎない」と語っている(10)。このこと自体は格別に非難さるべきことではない。しかし、メディアの影響力を考えると、その結果は深刻だ。「あるメディア制度が大規模な市場現象を作動させる度に、それは同じく大規模な没収と検閲を行います。(…)その才能のあれこれについてひとがどう思おうと、あるただ一人の判定者に何らかの場所で評価・選別・新人発掘の独占が委ねられると、この人物が文化のスーパーマーケットにおける売り上げを左右することになります。そのとき作品は、この巨大な手鏡に映るための諸条件を満たしていない場合には、(…)ほとんど私的な仲間内の闇夜に追いやられてしまいます」「いわゆる「難解な」探求、イメージ通りのステレオタイプに逆らうような、こうした形でその「平均」において表象された文化の諸規範に従順でないような探求は舞台から排除されます」(デリダ)(11)。
リーディング・コレクター、トップ・ギャラリスト、キュレーター、アドバイザー、批評家――これらの人々が、メディア、そしてマネーを介して情報のゲート・キーパーとしての権力を握り、デリダのいう「検閲」を行なう。これはメディアの性質上、避けがたい事態といえるだろう。ただ、これが個人のする噂話と異なるのは、現前化への求心力の違いである。アーティストのキャリア形成に絶大な影響力をもつ『アートフォーラム』の筆頭オーナー、トニー・コーナーは、アーティスト、市場、トレンドのいずれとも距離を置く良心的な批評精神のもちぬしではあるが、コーナー自身「何を載せないかが、大きな意志表示となる」(12)と述べているように、われわれは、知識人による一方的な検閲の結果を拝受しているにすぎない。発行人の一人であるチャールズ・グアリーノ自身、最善を尽くしたとしても、美術記事の「客観」性という言い回しには矛盾があると認めている(13)。メディアが客観的ではないとしたら、もはや客観性という言葉はメディアの正当性を保証するものとはなりえない。その根源において、メディアはメディアであるがために力をもち、信頼するに足りると見なさされているのである。
われわれ大衆は、こうした特権的な人々の要請するコードに同一化すべきなのだろうか? 「アートとは何か」を、一部の人々の言説に委ねておいてよいのだろうか? ダ・ヴィンチの頃はまだ芸術は素朴な機能と結びついていた。何が芸術で、何がただのモノかの区別は総じて容易であったろうが(それも気持ちの悪い話だが)、「便器はアートか否か」になると話は別だ。ブランドバッグと同じく、それは現実の機能から大きく乖離した超モノである。デュシャンの『泉』のオリジナルは紛失したが、そのレプリカの価値はフランスの裁判所によって4億円と算定されている。便器を美術的言説の俎上に乗せること、それも「アフリカの真ん中」ではなく、アートの檜舞台で――そのためには、個々人の自由で対等な関係よりは、決められたルートを辿り、先行する構造の中で戦うこと、つまり「商業的な文化産業とのあいだに、(…)誠実で、しかも一分の隙もない関係を築いている」(14)と評される村上隆のスタイルに答えを見いだそうとする人も少なくはないだろう。
村上は、社会の求める同一化の要求を一旦受け入れる。その結果、見る者の目には、「(彼の運営する有限会社カイカイキキが)この国の悪名高い企業文化、つまり、人を酷使する文化の典型である以上、こと日本的労働倫理に関しては、村上は完全に保守的な人間なのだろう」(サラ・サーントン)(15)と映る。村上の唱える労働観は、企業が労働者に対し同一化を要請する理想的労働観と大きく相違することはないだろう。そこに「自由という名の野良犬」は必要ない。しかし、国際規格ISO26000「社会的責任の手引き」の発行以降、国内でも個々の労働者の個性に見合った職場づくりの必要が説かれるようになり、企業側の一方的な労働観を従業員に押しつけることは、社会的にもマズイ状況となった。だが、生産優先から人権優先を明確化したISO26000を受け容れることは、「日本の今の企業の実態を考えあわせると(…)しんどい」(16)。このような企業と労働者、組織と個人の対立に目をつむり、なかったことにするのは現実的ではない。ワーカホリズムに関する近年の研究では、正規雇用の男性回答者のうち、自発的に仕事に取り組む衝動が強く、かつ仕事を楽しむ仕事享楽者の割合は31.8%にとどまり、仕事は楽しむが内的衝動は低い群(19.0%)、ワーカホリック(21.2%)、やる気なし(27.9%)という結果に終わった(17)。こうなってくると、仕事をするのは「世のため人のため」と言われても、世とは誰の世で、人とは誰を指すのかということになる。われわれは誰のために働き、誰のためにこの同一化の要請に応えようとしているのか?
労働もまた超モノ化を遂げている。供給が需要を上回る「豊かな社会」では、われわれは、もはや、何のために、何の必要があって眼前の労働に取り組んでいるのか、どうしてこれ以上、人々の需要を喚起しなくてはならないのか、説明困難な不条理に陥っている。しかし、特に世間に必要がないからといって労働しないわけにはいかない。われわれはマネーを受け取り、(できれば金融機関に)貯蓄しなくてはならない。「現在のお金のシステムは、近代工業時代の世界観から無意識のうちに私たちが引き継いでいるもの」であり、「時代の支配的な感情と価値観とを設計し推進する最高実力者としてふるま」い、「また、この通貨は、使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計され」ており、「工業社会の旗印である「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジン」にして、「このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている」(ベルナルド・リエター)(18)からである。アートも必然的にマネー社会の中に位置づけられており、その中で目に見える形で現前化を遂げた者だけが、芸術家の名乗りを許される。この分析が正しいとすれば、協調的というよりは競争的な、リスクを恐れない闘争心や自己顕示欲に富む者ほど、現代アーティストとして成功する見込みがあるということになろう。進化心理学の視点からすると、これらの傾向は繁殖開始期のオスの性淘汰的な本性をあらわしている。ところが、戦後成長とポストモダン状況の進展の中で、日本は世界でも類のない男性殺人率(性淘汰的な顕示行動の最たるもの)のおどろくべき低下を実現した。残念ながら中高年男性の殺人率は大して下がらなかったが、若者は殺人率の低下と並行してリスク回避を強め、今度は内向き傾向に転じた。「若者のひけらかし行動は、どんな時代においても芸術や文化における創造性の源泉であり、社会革新の担い手である」と長谷川寿一は指摘する(19)。しかし、自己顕示欲に取り憑かれた一部のエリートが主導する「一将功成りて万骨枯る」型の階級構造は、もはや永続困難な状況を迎えようとしている。クリントン政権に参画したロスコフ元アメリカ商務省国際貿易担当副次官が、グローバル・エリートたちに「もっとも恩恵を必要としていない者に恩恵をもたらし、権力者にさらなる力をあたえ、もっとも弱い者たちのもっとも差し迫った要求さえ無視」(20)していると、その責を問うている現代世界の窮状が、性淘汰的な攻撃性と独占欲の発露によるものだとすれば、そうしたものに経済・文化・芸術といった人間的装いをこらしただけのシロモノに刺激や創造性を求めるといった発想は考え物だ。そうなると、学芸会とハイアートのどちらが世界の平和に貢献しているのか、ちょっと微妙な問題になってくるだろう。
前出『アートフォーラム』のシニア・エディターのスコット・ロスコフ(美術史家)は村上とウォーホルを比較して、前者に比べると後者は「子どものアルバイトか、学芸会のようなもの」「大物実業家というよりも、自由人」(20)と論じる。ソーントンは、アート界の平等主義や民主性を否定し、その優越性と排他性を指摘する(22)。そうした社会が学芸会的であることは、今のところちょっと考えにくいだろう。また、単なる学芸会が、アートにおけるインスティテューショナル・クリティックに影響するとか、いわゆる社会における革新的な意義を生み出すということも考えにくい。そうした言説を放棄するからこそ学芸会なのであるから。
したがって、アートとして成立する学芸会は単なる学芸会ではないという意味では、論理空間内における「学芸会にしてアートなるもの」の現前は、不可能である。だが、デリダのいうように現実のアートは「歩を進めるたびに、事例が示されるたびに、理論的、法的、政治的、その他もろもろの巨大な発話儀礼がなくとも、境界は「芸術作品」の「ある」と「ない」との間で、「物」と「作品」の間で、「作品」一般と一つの「芸術作品」との間で揺れ動く」のである。よって、今後アート/学芸会がますます学芸会/アートじみていく余地はいくらでも広がっている。いや、学芸会/アートですらない、無境界の地平へと向かって、アート/学芸会自体が全方位的に解消される未来を、むしろ私は待望している。その名づけがたい全体へと、全ての作品が回収される未来を。
(*1)信濃毎日新聞2013年7月25日付朝刊記事
(*2)https://www.facebook.com/photo.php?fbid=404747979642950&set=a.404747912976290.1073741873.100003232549471&type=1&theater,木村仁Facebook,2013年7月21日投稿記事
(*3)『長野高校八十年史』長野高校八十年史刊行会〔編〕,長野高等学校同窓会,1980,p.823-829
(*4)『ビエンナーレの現在 美術をめぐるコミュニティの可能性』所収「キュレートリアルな言説の不在と生成」(難波祐子),株式会社青弓社,2008,p.111-149
(*5) アート・イン・コンテクスト8『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』J.Golding〔著〕,東野芳明〔訳〕,株式会社みすず書房,1981,p.59
(*6)近日webで放送予定のHFN TV『中村八束 天才の思考に学べ』参照。
(*7) 叢書ウニベルシタス590『絵画における真理 上』Jacques Derrida〔著〕,高橋允昭・阿倍宏慈〔訳〕,法政大学出版局,1997,p.47-51
(*8) 『放送メディア研究 9』日本放送協会放送文化研究所〔編〕,丸善出版株式会社,2012,p.241-242
(*9)『デュシャンの世界』Marcel Duchamp,Pierre Cabanne,岩佐鉄男・小林康夫,朝日出版社,1978,p.147
(*10)(*12)(*13)(*14)(*15)(*21)(*22)『現代アートの舞台裏』Sarah Thornton〔著〕,鈴木康雄〔訳〕,株式会社ランダムハウス講談社,2009,p.210/p.212/p.209/p.291/p.275/p.290/p.349
(*11) 『他の岬』Jacques Derrida〔著〕,高橋哲哉・鵜飼哲〔訳〕株式会社みすず書房,1993,p.98-99
(*16)『企業人権同和教育ながの』第84号所収「企業と人権~企業に求められる人権の視点~」田中明紘,2011,p.1
(*17)(*19)『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収「男性の職場 ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」(金井篤子)p.217,/「殺人動向から考える男性心理」(長谷川寿一)p.48-50,株式会社有斐閣,2008,
(*18) 『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』Bernard A. Lietaer,小林一紀,福元初男〔訳〕,株式会社日本経済評論社,2000,p.11
(*20) 『超・階級 グローバル・パワー・エリートの実態』David Rothkopf〔著〕,河野純治〔訳〕,株式会社光文
服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14
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