ドレミの歌

文 / 中尾美穂

長いこと忘れていたが、子供のころ「ドレミの歌」が苦手だった。それを思い出したのは青柳いづみこのエッセイ『音楽と文学の対位法』の「ドビュッシーの手、ランボーの手」に、音楽家カバネルの「七つの数のソネ」が引用されていたからである。”ラはOUで朱、シはEUで橙……”と続くドレミのソネットだ。ロマンチックな詩だと思ってはいるが、実はどれもピンとこない。橙色ならミだろう、「ドレミの歌」もそうだからと歌詞をネットで見てショックを受けた。”みんなのミ”で”みかんのミ”じゃなかった。いや、自分の記憶違いに驚いたのではなく、ミの音に”みんな”のイメージだなんて。

というわけで、「ドレミの歌」への違和感は根強い。そもそも単純な音名を覚えさせるのにそれより長い単語を並べなくてもいいような……。そもそもドーナツのド、レモンのレ、と食物で始まったのに、食物の名前がないからといって”ファイトのファ”と抽象的概念を持ち出さなくてもいいような……。”幸せのシ”となるところが”シは幸せよ”に変わるし字余りだし…。旋律とイントネーションが合わないのも気になったりして。皆どうなのだろう。

などと聞くと、共感覚や絶対音感について話したいのかと勘違いされそうだが、気にしているのは脳のメカニズムでなく、感受性についての一抹の不安である。私たちは刺激の多い環境で生きている。音楽には映像、映像には文字、テレビの音声には色つき文字までついてくる。情報過多で感覚過多、その大半が受動的だ。ということはいつの間にか感覚が麻痺しても不思議はないし、逆に感受性が強くなりすぎているかもしれない。もしかして自分は歌詞アレルギーか? 聴覚が音で一杯一杯なのかも。そういえば本当にそんなことが分かるのかどうか、骨伝導が良すぎるらしいし。他に似た方がいるかもしれず、だとしたら展示室で押しつけがましくBGMの音楽を聴かせるなんてご法度。

そこで当館の展示室は無音である。当たり前といわれそうだが、以前は音つきだったのである。ようやく小林秀雄のように絵を観ながら内なる音楽を聴くこともできると、今はほっとしている。ただし音楽が聴こえるほど感性が豊かでないのが残念だ。

中尾美穂 長野市生まれ 池田満寿夫美術館学芸員
池田満寿夫美術館
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