身体を動かすことの意味

文 / 北島由美

 最近、保育士の皆さんや大人向けのリトミック講座をいくつか持つ関係で、自分のしていることを文章にしなければならないことが多い。以前はそれが結構苦痛で、うんうんうなりながら例えば一行書いては風呂に入り、また書いては消し、そんな連続の中何日もいて、結局やろうとする項目の羅列で終わってしまったり、文章化することを諦めたりしていた。それが、このごろは比較的短時間で書けるようになってきた。なぜか?簡単なことだけれど、自分にとってのリトミックがちゃんと座ったというか、リトミックを通して自分がどうしたいかがみえてきたということ。これまでは、リトミックを妙にかっこ良く誰かに伝えたいという気負いがあったのだと思う。
 
 私のところには、毎月松本の「小さいおうち」という本屋さんから、定期的に絵本や児童書が届く。またパソコンでいくつかの書籍関連から書籍を購入する関係で、‘あなたにお勧めの本があります’のメールが届き、いつもは漫然とみるのだけれどときどき、おや?と目が止まる本の紹介がありつい注文して読んだりする。長野で本屋にはほとんど立ち寄らないけれど(品揃えが悪すぎ)、ごくたまに「ん?」とたちどまった本がおもしろかったりする。それらの本はジャンルもバラバラだし自分にとっては脈絡もなにもないのだけれど、読んでみてなぜか同じパズルのピースを見つけたような感じをうける。しかもそれはどちらかと言えば平面より立体パズルのようなイメージ。ああ、またあった、これはこいつの近くだなって感じで。特にびっくりしたのは、小泉英明:脳科学者 秋田喜代美:教育学者(幼児教育) 斎藤公子:保育士 この3人の本を別々に読み共感していた。そうしたら、脳科学者の小泉氏が秋田氏とも斎藤氏とも共著をだしていたのだ。私にとってはリトミックという共通項の中に3人の論が重なったと言う訳である。
 
 今年亡くなった父の新盆の法要に寺の住職が実家にきてくださり、話をした。お盆についてとか仏壇についての話だ。住職の話が自分にとって腑に落ち、これもまたピースの1片であることを確信した。「さかさま」ということ。お盆は逆さまの自分に出会う時と言うのだ。今まで納得できなかったり、うまくいかなかったり、ストレスになっている自分の見方、捉え方を自分を逆さまにして考え直したらすごく簡単なこと‥。お盆はさかさまの自分に出会う時と言うのだ。(盆=さかさま)とはいえそうは言っても簡単にできるものではない。だからこそ1年に1回逆さまの自分を思う時があると言うことは大事だと。
 
 聖書に100頭の羊のうちの1頭が迷子になったとき、羊飼いは99頭を残して1頭を探しにいくというくだりがあり、これは賛美歌にもなっている。このことについての賛否は、自分が羊だとしたらとか、羊飼いだとしたらと置き換えていろいろ考えたりするのだけれど、このごろの私はその行為自体を考える。そうなってしまう(そうしてしまう)身体と心(実際は脳)に関わりについてである。1頭の羊を残りの羊をどうしようとか、1頭だけだから探さずにいようとか思う前にただ探しにいくという行為。
 頭でいろいろ考えている段階と実際に身体が動いて何かするとでは、大きな隔たりがある。「私もそう思っていました」とどんなに声を大にしたところで何もしなければ結局のところ「そうは思いませんでした」と同じなのである。では、思ったことを行動に移す場合と移せない場合何が違うのだろう。ここにはじめて幼児期からの体験の蓄積のあるなしが大きく影響してくるということが子どもたちの様子から納得できるようになった。
 そして、子どもたちとリトミックをしながら思うのは、子どもたちの置かれている環境は親をはじめとする大人たちがつくっているということ。大人に自覚や意識的に、という考え方がなかったら、極端な話何も考えず何もしない子どもたちをたくさん生み出してしまうと言うこと。状況は危機的であったりする。子どもたちの感性をみがきそだてるのは、大人に他ならない。私の中のパズルが3次元的にできあがるためには大人たちのチーム力が必要であることも事実。
 秋から大人のリトミックはじめます。
  

北島由美 yumi kitajima 1961年長野市生まれ
リトミック講師
中学音楽教師6年勤務後退職 専業主婦業10年後リトミックを学ぶ
養成校卒業後リトミック研究センター長野第一支局をたちあげ
現在同支局チーフ指導スタッフ
pata24@mx2.avis.ne.jp
こどものためのリトミックながの