日本のアウトサイダーアートの消失点 vol.02 ― 『Libido 鹿児島』に見る共振する衝動と拡がり

文 / ムシャカズタカ

 『障害学研究8』(障害学研究編集委員会、明石書店、2012.06)で発表された『障害と芸術の「共犯性」』(長津,2012)では、現在進行形の「障害者の芸術」について簡単な総括をしながら、物としての「作品」に注目が集まる中、時間や空間を共有する中で生まれる関係性を共同性という支援者/被支援者の限られたものから、共犯性というより広い視点を導入することで、多様な人が参加しうる「芸術」というものが提起されました。現場主義や当事者主体という価値観の中で、実は死角になっているものそれこそが実は「障害」やマイノリティであるゆえの属性であり、支援/被支援という権力関係の中で、障害もそうだと言うだけで、それは肯定されてしまったりする危険性があります。しかし、この「狂犯性」というテーゼは―その言葉そのものを間違って受け取られたくはないけれど―ぼく自身は賛成だし積極的に評価もしていきたいと思っています。共同性という柔らかなベールのような飽和力のあるダイナミズムから、狂犯性という「わたし」という固有性同士が響きあう相互作用のかたちの中にある希望が見えた気がします。
 ここ数年、ぼく自身が考えている「媒体化する支援」というテーマがあります。例えば「障害者のアート」を含む多くのマイノリティによる自己表現は、その表現が社会や市場に繋ったときには狭義の「支援者」の姿が少なからずあります。障害者のアート、ときに「日本のアール・ブリュット」と呼ばれる作品にさえ制作する作家の多くは福祉施設や病院でのケアやセラピーを受けています。しかし、それは決して作家の主体性を否定するものではありません。むしろその活動を積極的に評価し環境を整え作家個人と社会との接点として展示会やデザイン化し商品を生み出すことも施設や支援者が中心にある種、戦略的に担っている人間がその表現を社会的な「アート」に推している事実があります。そのとき支援者は、作家個人との支援者という個別の関係性だけではなく、社会との接点であったり代弁者・翻訳者のような位置にもいます。また、それに伴い直接的にある社会の、例えば障害者の自己表現を「アート」という軸で捉えていこうというコミュニティやネットワークなどの評価や価値観を、支援者自身の「支援すべき作家」個人に対する振る舞いとして伝え影響を及ぼします。
 先に紹介した「共犯性」とは、作家・広義の支援者・観客それぞれが意図的に既存の価値観や境界線を脅かすように共同しあう、関係性が伴った文化活動の構造のことです。そして、ぼくの考える「媒体化する支援」とは、その内側にある関係性そのものを「起こす」支援者の態度や考え方、実践のことなのです。さてこのテキストのタイトルにある「日本のアウトサイダーアートの消失点」の向こう側にあるものこそ、作家を支援する支援者や場・環境・施設が「メディア」のように互いに作家や作品を映し反射し合い広がるネットワークです。次回以降、その共犯と共振のネットワークの結実とも言える展示会や企画とその内側で起こっていることも紹介できたらと考えています。

ムシャカズタカ Musha Kazutaka 1982~
出生地・現住所 長野県上田市
職業 福祉施設職員
1982年長野県生まれ。長野県上田市にある障害者支援施設で現場マネジメントとアートサポート、企画などを行う。
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