島からカリフォルニアを眺める
文・写真 / 塚田辰樹
「船の名前に「ナントカ丸」って付きますね。あれは「私」を表す「麿」という言葉から来ています。「私の船です」という意味ですね。だから軍艦には付きません。国のものですから。」
横須賀にある猿島へ観光するにあたり、初めてガイドという人を雇ってみた。その時、島へ向かう船の中、最初に受けた説明がそれだった。初老の男性ガイドで、しっかりした口調で説明してくれる。なるほどガイドとは説明対象だけでなく、その周辺の細かい知識も教えてくれるのか。
私はというと、東京へ引っ越したことをきっかけに、夏休みだしせっかくなので、関東ならではの変わった場所へ出かけたいという気持ちがあり、いろいろと調べていた。
猿島は旧日本軍の兵舎跡や砲台跡の佇む観光地で、兵舎や弾薬庫は建築としても当時の最新技術が使われていた無人島である。苔が生し、蔓が這う煉瓦造建築の史跡が、多くの観光客を集め、その非現実的な雰囲気から、PVやコスプレイヤーの撮影、Instagramの拡散などで人気のある島となっている。
史跡を歩く際には、「いわれ」やその構造を割と気にする方で、説明書きがあれば眺めて思案し、ぐるぐると歩き廻ることが多い。だがそういう観光の仕方がなんとなく疲れてしまった。そういう性格なのだから仕方ないのだが、ガイドを雇うことは効率と体力をふまえてのことだった。まあパンフレットなどを閲覧すれば大雑把にはわかるが、ガイド同伴でないと見ることのできない場所があったことや、マニアックな情報も聞けるだろうと考えたからだ。
島の桟橋に降り立つと、対岸には横須賀の街並みが見える。平地が狭いため、街としての発展は難しい状況だったが、海軍が駐留することで栄えてきた。ただ、現在目立つ建物で印象的なのは、白い大きなマンション群だ。
「あれは日本ではないです。アメリカの領土、カリフォルニアです。戦後に接収されたんですよ。」
猿島は千葉の富津と向き合う立地であるため、その間の海を咽喉と呼び、幕末・明治から昭和にかけて、幕府や皇居を守るための重要な戦術拠点とされていたようだ。幕末・明治には外国船への牽制のため、キャノン砲台が設置された。
外国船が湾内で測量をはじめ、出入りが目立つようになったころ、ペリーが周辺の測量ついでに、ペリー島と勝手に名前を付けた。もしやペリー島という名前が定着する未来もあったのではないかと想像してしまう。
当時、猿島の管理は川越藩であった。上陸してきた外国人は砂を拾い上げ、藩士に向かって手の上で拭いて見せたそうだ。つまり“こんな島の装備、拭けば飛ぶようなレベルだ”という侮辱らしい。しかし藩士は我慢した。小競り合いが発展し、戦争にでもなったら勝つことはできない。それは出入りする外国船を見れば判断がつくからだ。
昭和に入れば、空襲への備えから別の砲台が設置されたが、この砲台では、B-29に砲弾が全く届かないことが分かり、あわてて終戦間近に戦艦の高角砲を持ってきて設置した箇所がある。砲座は、島の周囲からかき集めた材料での突貫工事であった。コンクリートに貝殻が混ざり込んでいることから、不純物を避ける間もないほど慌てていたことがわかる。アメリカ軍は横須賀と停泊中の戦艦長門へ空襲を行うが、猿島からの砲撃はふるわない。島の電気系統がすぐに破壊されたため、緊急時に機能しなかったためだ。
「かわいそうな話です」とガイド。
他にも痕跡がさまざまに遺っている。兵舎へ続く通路の曲がり角は、石垣の壁面が一部変色し抉れている。終戦後、進駐軍のマッカーサーが上陸したとき、曲がった先に日本軍の伏兵がいるのではないかと警戒し、一斉に威嚇射撃をさせた跡だ。
兵舎や弾薬庫の一部は、中の壁一面、立ち入った人による落書きが遺る。聞くとだいぶ古いものだそうだ。スプレーやペンキのようなもので「電話して」「○○大好き」……今も昔も書くことなんて同じで微笑ましくなるが、中には「1972年〇〇…」という壁をひっかいて書いた跡も残っている。近年は、横須賀市の協議で、建築物の保全が決まり、気軽に立ち入ることができなくなった。現在はガイドが同伴しなければこの落書きは見ることができない。落書きを落とすかどうかの議論はあったようだが、結局これらも「歴史」の一部となった。この「汚れ」も保護の対象なのだ。
ここで歴史を学ぶことは、教訓と向き合う事だ。だが、その歴史の中には、本当にくだらない事や、取るに足らない出来事も含まれている。人のしてきたことで、それが残っているなら、知る機会があってよい。保全とは、「美しい日本の建築」や「歴史に散った英霊たち」と向き合い、その歴史だけを継承することではない。ひとのすべての営みをあるがままに受け入れ、語りつぐことなのだ。
猿島には定住ができない。井戸を掘ろうとしても潮水しか出てこないからだ。だが食事をする施設があり、浜辺はバーベキューで賑わい、リゾート気分を楽しむことができる。非現実的な戦後の遺構を味わおうと、歩き回る観光客がいる。そしてコスプレイヤーが撮影に励み、カップルが東京湾の景色を楽しんでいる。
だが17時になれば船の最終便がやってきて、人は全くいなくなる。
喧騒から無縁になった島を想像する。手つかずの森に包まれ、苔生した煉瓦造の兵舎が、唯一にぎやかな落書きを閉じ込め、静謐なひとときの経過を待っている。
幕府を、皇居を守るために、重装備をされてきた島。異人の立ち入りを許し、現代のさまざまな欲望もすべて受け入れてきたが、ついにそこへは誰ひとり居つくことはなかった島。
最後にガイドと浜辺を歩いていると、子供と母親が近づいて来た。大きなサングラスと赤い口紅を付けた若い母親が、手のひらほどの大きさの、穴だらけの黒い石をガイドに見せ、これはなぜこんな形なのか聞く。昔、海底の砂に貝が生息しており、それが長い年月をかけて海底で固まった。貝だけがはがれ落ち、波で削れて打ち上げられたものだ。とガイドが説明すると、母親は、眉間にわずかにしわを寄せ、感心したように眺めると、同じ説明をしながら子供に見せていた。
猿島公園専門ガイド協会公式ホームページ
https://sarushima-guide.jimdo.com/
塚田辰樹 Tatsuki Tsukada
1986年生まれ
長野県出身・東京都大田区在住
DTPオペレーター/デザイナー
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