かつて女性の身体は、ある〈貧しさ〉の表象であった。それは肌を露わにした姿、端的には裸体として描かれ、表象されてきた。その〈貧しさ〉の根源は、私たちの有限性にある。ヒトは、いずれその命を終えなくてはならない限りある存在である。そこで利己的遺伝子は、自己複製のために宿主を繁殖させ、子孫を残すという特別の方策を講じなくてはならなかった。前稿では、そのようにして形成されたヒトの配偶システムをめぐる男女間の攻防が、女性というものの社会的表象を作り上げたという仮定のもとに、女性の身体表現について考察した。そして、〈豊かな世界〉においては、男性側の主導した父系重視の繁殖戦術が崩壊し、それに伴って、貧しい世界における種々の試練を克服しようとする、人間の〈崇高性〉もまた、不要のものとなるであろう見込みについて述べた。
三石友貴『しかん』
2017 年、写真
ⒸYuki Mitsuishi
Courtesy of the artist
女性の身体を単に〈貧しさ〉を表象するものとして捉えようとする視線は、主に性的な主体である男性から、性的な客体である女性に対して注がれる一方的な視線として糾弾されてきた。その結果、〈女性の身体=貧しさ〉という定式が、女性を保護しようとする立場からも逆照射されることになったのは、皮肉なことである。フェミニズムの一部の言説は、男性が配偶者防衛において女性を自身の支配下に置く場合と同様、女性の身体を保護の名のもとに覆い隠そうとする。女性をその身体性においてとらえることは、その当の女性が、権力による保護と管理を外れた〈貧しさ〉のもとに置かれることを意味するかのようである。その結果、女性の身体は、配偶者防衛が強固な文化においてそうであるように、公共の場から再び締め出されることになった。女性の〈裸体〉、つまるところそれは、保護を適用されることのない〈貧しい〉女性たちの表象でしかないのである。尊厳ある高貴な女性たちに〈裸体〉はふさわしくないのだ。
ゆえに、女性たちの尊厳を堅持するためには、〈裸体〉になどなるべきではないという主張がなされることになる。〈裸体〉は従属を意味する。裸体化される女性は自由を奪われており、まさにその〈不自由〉であるということのゆえに〈裸体〉をもって男性側から利益を引き出し、生き延びることも可能であった。しかし、そのような生産方式で女性が延命しつづけるとするならば、女性はいつまでも男性に従属しつづけなくてはならず、男性の意のままに表象され、観念され、我有化されなくてはならないであろう。ゆえに、女性がその直接的な外見(とりわけ〈裸体〉)によって評価されるなどということがあってはならない、ということが言われるようになった。今年からミス・アメリカは水着審査を廃止し、「もはやわれわれは参加者を外見で判断しない」(Starting this year, candidates will no longer be judged on outward appearance.)(*1)と表明した。これはこれで結構なことである。
ところで、当の男権社会においても、女性の過剰な身体的露出は、たいていの場合、悪徳であった。だが、悪徳には違いないが、それが目こぼしされる場合がないでもなかった。16世紀、西欧の乙女たちは、人妻に比べて胸襟の大きく開いたデコルテを着用することを許されていた。それはなぜか? 1579年、ベネディクト会士ピエール・ミヤールは、次のように書いている。「女性がデコルテを身に付けて男どもを刺激し、淫行に誘おうとする時は大罪を犯すことになる。異性に気に入られんがために好色心からそうする者は小罪である。だが、処女がこの流行を追ってもまったく罪にはならない。なぜならまさにそれが慣習となっており、《ふさわしい結婚相手を見つけるため》だからである」(R. Briggs, 1989, S. 298.)(*2)。ちなみに、かのトマス・アクィナスも、女性が肩を露出することについては、小罪としていた由である(*3)。
さて、この説明で重要視されているのは、またしても〈生産性〉、とりわけ〈リプロダクション〉の意味での〈生産性〉である。ここでいう「淫行」がいわゆる売春を指すとすれば、それはただの消尽であるし、いわゆる姦通を指すならば、他の夫婦の配偶権を侵害し、とりわけ妻にとっては、夫が行なうわが子への投資を家庭外に分散させることを意味する行為である(これらは、生産を必要とする〈貧しい〉世界において問題となる行為であろう)。しかし、まっとうな結婚目的なら無罪放免とされるに至っては、ほとんど笑い話である。デュル(人類学者、1946~)に言わせると、女性の服装をめぐるこうした慣習は、現代でも生きている、という。「(16世紀当時)結婚戦術ならば、また家庭を築くという良き目的のための手段ならば、若い娘たちはこのような露出を認められた。(…)この慣習は原則的に現在まで生きている。というのも、今日でさえ若い娘たちは一般に中年女性よりも、ミニスカートや身体に密着し乳房が浮き出るTシャツの着用が許されているからである」(*4)。
デュルの見解を適用すると、ミスコンで身体的露出を不必要のものと見なすことは、女性の価値をリプロダクションの能力において代表させることに対する拒絶であり、なるほどフェミニズム的である。しかし今日日、女性が何を着ようが、それは当の本人の勝手であって、誰のためでもなく、何のためでもない(誰のためでもよく、何のためでもよい)。ナルシシズムの充足であろうが、結婚戦術であろうが、なにか芸術的な表現の欲求であろうが、身体的露出の理由は、なんでもよろしい。ただ、ミス・アメリカとしては、そうした外面に依存した表現よりも、内面的なもの、すなわち、リーダーシップ、才能、コミュニケーションのスキル、知性といったものを重視するという方針を明確にしたもののようである。もちろん、水着審査はなしといわれようが、水着を着てくるつわものがいても、これは一向に差支えないとされている(The choice of wardrobe is now open so everyone can express their own very individual style.)(*5)。
ところで、身体的なものにかかわる人間の感じ方に対し、知性や才能を重視する態度は、より〈精神的なもの〉である、とされてきた。そして、この〈精神〉というのは、感性的であるというよりは悟性的、または理性的な性質を帯びていると見なされてきた。カントは、その『美と崇高の感情に関する観察』(1764)のなかで「悟性は崇高で、機知は美しい」、「(崇高と美の)両者の感情を自己のうちに兼ね備えている人々には、崇高の感動が美の感動より強力である」(*6)と述べている。これは、バークによる美と崇高の二分法を継いだものであって、「軽快な諧謔と親しさ」としての「機知」が「感覚の美の色合いを高める」(*7)と書かれていることからも、同じく感動を誘うものであっても、〈美〉というものがより感性的なものであることが、ここでは前提とされているのである。なおカントは、〈美〉は異性への愛において見られる特徴である、と断っている。そして、相手の気を引いて誘惑しようという態度(コケットリー〔Coquetterie〕)は、美に属する傾向性であり、また品位を欠かないかぎりにおいて(非難はされようが)好ましいものとされるのが通例である、と述べている(*8)。〈美〉とは、バークによれば「社交的性質」であり、「われわれが愛と名づけるこの混合せる情念の対象は、性のもつ美に他ならない」(*9)のである。よって、ミスコンが美人コンテストであることを放棄したとすれば、それは(18世紀後半の哲学者風にいえば)異性の気を惹くための美しさや親密な態度よりも、悟性や理性、より崇高で精神的なものを重視する、という姿勢にシフトしたことを意味するということになるのであろう。裏を返せば、女性における〈精神の不在〉というべき評価がいまだ横行していることへの抗議なのだ。
しかし、この〈精神の不在〉とはいかなることをいうのであろうか? 小池真理子の『欲望』(1997)という小説に登場する「阿佐緒」という女性をめぐる次の一節を見てみよう。
あの人の阿佐緒の扱い方はどう考えても馬鹿げている。阿佐緒はもともと、ああいうよそよそしい洋館風の家で、あれこれ堅苦しい生活上の規則に縛られながら生きていくのが似合う女ではありません。(…)
この間、僕らに向かって見せた醜態こそが、むしろ、彼女の自然な姿なんだと思います。阿佐緒は自分を解き放って、例えば手づかみでハンバーガーを食べ、傍にいる女にキスをしながら、口のまわりについたケチャップを舐めとらせるのが似合う女です。
ついでに言えば、阿佐緒は文学にも絵画にも建築学にも、およそ人が気取って知識やセンスをこねくりまわしたがるものすべてに対して、何ひとつ興味を持っていない。生活の様式ということにも無頓着です。
確かに中学時代の阿佐緒のピアノの腕は、ちょっとしたものだったと思います。評価してやってもいい。ですが彼女は、自分が弾いている曲の作曲家が誰なのか、それが音楽史的にどのように位置づけられているのか、何ひとつわからぬまま、鍵盤に指をすべらせていただけのような気がしてなりません。
彼女は余計なものは何も必要としていない。彼女はただ、生まれ持った肉体の魅力をもてあましながら生きていて、貧乏と退屈からさえ逃れられさえすれば、自由にふるまう自分が他人にどう受け取られようがかまわないんだ。
袴田さんはそのことを知っているのだろうか。知っていて、阿佐緒を彼なりの鋳型にはめようとしているのだろうか。だとしたら、断じて許しがたいし、阿佐緒という人間に対する冒瀆だ。そう思って怒りにかられたこともあります。(*10)
これは作中に登場する正巳という男性が類子という女性に宛てた手紙という体の文章である。この正巳は「その優秀さ、頭の回転のよさにおいて、全校生徒――とりわけ女子生徒の絶大な人気を誇っていた」(*11)人物(類子も正巳に惹かれていた由である)であったが、事故で性的機能を失い、〈精神〉だけの世界に生きていた。対して阿佐緒は、「その性的魅力において、男性生徒の目を釘付けにするような存在」(*12)であった。同世代の女子からのウケは最低で、「阿佐緒はその、過剰な成熟振りのせいで、同年代の女の子たちに疎ましがられ、敬遠され、気味悪がられたり、やきもちを焼かれたりしていた」(*13)。というのは、「同世代の少女たちが、どうひっくり返っても持ち得ない魅力が阿佐緒に備わっていた」(*14)からである。しかし、唯一の友人である類子にとって阿佐緒が「腹の立つ対象になったこと」はなく、阿佐緒は「美しい完璧な肉体以外の何物でもなかった」(*15)。「阿佐緒に精神は不在である、と私は心のどこかで信じていた」(*16)。そんな阿佐緒は、「可愛く」、「美し」く、「神々しく、誇らしげだった」、という(*17)。正巳という極度に精神化された男性と、阿佐緒という極度に美的なものとされる女性をめぐって、この物語は展開してゆく。
ところで、自分が他人にどう評価されようとかまわない人間が、ミスコンに、ましてや容姿よりも知性や才能、社会的影響力といった内面を重視する新型のコンペティションに出場するとは思われないが、だからといって、そのような人間には何らの価値もない、などとはまして到底思われない。「ミス・アメリカ2.0」をはじめとするこれからのミスコンは、もはやビューティー・パジェントではない。女性もまた美的な表象であることをやめ、より〈崇高〉であることが求められるようになった。阿佐緒のような「精神不在」とされる女性への風当たりは強まる一方である。
人の内面がその外見によって代えることのできない価値を有するように、人の外見もまた、その内面と取り換えることのできない固有の価値をもっている、それはそれで一つの見方であろう。往々にして人の外見が虚飾のように言われるのは、要するにそれが〈生産性〉に寄与しないことと関係している。どれだけ見かけがよくても、社会的能力が皆無ときたら、それこそ何の役にも立ちはしない。人生のパートナーとしては心もとないかぎりである。しかし、大金もちというのはそうではないもののようで、自身が十分な生産能力を有する分、他人に能力を求めようとはしないもののようである。『欲望』に登場する袴田という精神科医は言った。「能力をほめずに、きみは美人だ、と言うと怒りだす馬鹿な女もいる(…)」(*18)。そして、正巳に向かって「精神だよ」と囁く。「こんな言い方は失礼かもしれないがね、私にはきみの脆弱な精神が、せっかくのきみの美を殺しているように見えるんだ」(*19)。この袴田が、阿佐緒を豪邸に押し込めにした当の旦那である。この人は、人の外見にしか関心がなく、「僕は人間の精神そのものを信じていない」(*20)と豪語する。袴田は、精神という、このどうしようもなく「分類不可能なもの」を嫌悪して、「惜しげもなく捨て去った」(*21)。いずれにしても、袴田にとって人間の「情緒、神経、感受性」といった手合いは「馬の糞にも劣るもの」(*22)であり、「性愛の喜び」も「他の多くの感情と同様、鼻もちならないほど生臭いもの」(*23)であったようであるから、子どもをつくり、類型的な「温かい家庭」(*24)をもちたいという阿佐緒の願望は、見事に挫折することになる。このリプロという点では、袴田は、いわゆる〈生産性〉のない人物であったが、他の面では、まったく生産的かつ社会的だった。
袴田の理解するところでは、「人の精神は矮小なもの」で、「そのくせ図々しく、論理性から遥か遠くかけ離れたもの」(*25)でしかない。袴田は「本物の美は必ず外面に表れる。内面じゃない」(*26)という思考のもち主であった。ゆえに逆説的に、「精神不在」である阿佐緒を妻に選んだのではないか、と正巳は言うのである。袴田はそのように考えたようであるが、従来〈精神〉とは、まさに彼の否定する「論理性」とかかわるものであった。「精神不在」では、文明も社会も立ち行かぬであろう。当然、結婚においても、単なる外見よりも〈精神〉が重視されるのは当然の成り行きで、〈生産性〉を求めるかぎり、男女の長期的なパートナーシップにおいて重視されるのは、(見てくれがよいに越したことはないが)内面や能力なのである。とりわけ自身が生産の手段を有しない場合、相手の〈生産性〉に期待しなくてはならない。この前提に立てば、伝統的に生産手段を独占してきたのは男性側であったから、女性が、パートナーとなる男性の地位や経済力を最優先するという進化心理学の所説は、ある程度まで妥当な推論であるように思われる。
一方、男性はどうか。こと配偶者の選好にかぎっていえば、〈貧しさ〉に規定された環境に置かれた男性ほど、女性の身体的魅力を重視すると、進化心理学は主張する。この場合、男性は、かぎられた予算でより大きな利益を引き出すことのできる〈必需品〉として、つまり繁殖本位の視点で女性を見ているというのである。李天正はミクロ経済学における消費者の意思決定モデルを挙げて、「予算以上のコストがかかる様々な選択肢がある状況では、ヒトは「贅沢品」に目を向けるより前に、まずは「必需品」に目を向ける傾向があ」ると前置きしてから(*27)、次のように述べている。「選択肢が強く制限されている時、男性は(女性の)身体的魅力を「必需品」だと見なし、女性は(男性の)地位を必需品だと見なす」(*28)。したがって、十分な資源量があり、選択肢の制限のない〈豊かな〉状況で長期的関係をもつ理想の配偶者を選択することが可能な場合、ヒトは「贅沢品」に目を向けるようになり、知性や創造性をあわせもった「万能の相手」を好むであろう、ということがこのモデルから言えるわけである。
ヒトほど賢く長寿な生物ともなると、身体的魅力や富の多寡といった単一の指標だけで異性を評価しても、パートナーとしてうまくいかないことは、ある程度、想像できることである。ゆえに、相対的に女性が豊かな社会(非家父長型社会)では、「必需品」としての男性に求められる財産や社会的地位といったものは、比較的にどうでもよいものとなり、代わって(外見も含めた)人間的な相性が重要視されることになる。その点で、進化心理学とデュルの哲学的人類学の指摘するところは一致している。狩猟採集民における女性の配偶者選択の心理については前稿ですでに触れたので、ここではデュルの指摘する人類学の見解を引こう。デュルはまず、狩猟採集民が、家父長制を形成した後代の定住民よりも豊かで、労働時間が少なかったことを指摘し(Cf. z. R. B. Lee, 1968, S. 30f., ders, S. 105f. ; J. Woodburn, 1968, S. 101f.)(*29)、その前提に立ってクン族の事例を挙げる。「クン族の若い娘は、抜け目ない狩人でありながら、攻撃的ではなく愛想よい男性を結婚相手に求めるが、傲慢で自己中心的で傍若無人な〈マッチョ〉や、他人を見下す威張り屋は拒むのである」(Cf. R. B. Lee, 1978, S. 109.)(*30)。たしかに配偶者の候補となる男性の生産性が高いに越したことはないが、富の独占が認められていない狩猟採集社会においては、財力を背景に他人を脅すことはできないので、男性側に富が偏在する社会の場合と異なり、自己中心的な男性が女性を従属させ、意のままにするということはできそうにない。したがって、家父長制下において男性側が女性に一方的に期待するところの表象である「妻、母、娼婦」(*31)を演じる必要性が、女性の側に希薄なのであろう。
このようにして、女性側の〈豊かさ〉が拡大するのと並行して、従来、抑圧されてきたマイノリティの生き方をめぐる権利の拡大ということがいわれるようになり、ついには〈生産性〉至上原理への異議申し立てという、今日見られるような事態が出来する。LGBTの権利問題しかり、パワハラ問題しかり、資本主義終焉説しかりである。しかし、これまでの議論から導かれるのは、一見、奇妙な結論である。それはまったく逆説的なものだ。女性が豊かになることで、彼女が男性の財力に依存する度合いは次第に薄れてゆく、これは確かなことであろう。結果、女性が男性を選好する際、男性の地位や財力にこだわらず、性格の一致や外見の好みを優先させることできる、というのも同様に確かであるように思われる。だが、一方の男性側はどうであろう? 男性の豊かさが低下した場合、男性は選好に際して、相変わらず女性の身体的魅力を重視する傾向を持続させるであろう、というのも同様に真らしく思われる。また、同じ理由から、男性が選好に際して女性の内面を第一に重視するようになるとすれば、それは彼が、豊かなときにかぎられる、ということになるであろう。しかし、家父長制が失効し、男性の経済力が全体に低下するとしたら、男性が女性の生産性を頼りにしなくてはならないであろうから、少なくとも配偶者選好において女性を外見重視で判断する、などということはなくなるのかも知れない。実際には、男性間格差や実効性比の問題(つまりは男性側の競争の激しさにかかわる指標)もからんでくるため十分なことは言えないが、これらのモデルを数理的に処理することは可能なはずだ。世界が十分に豊かになり、〈生産性〉がどうこう言われなくなった暁にどのようなことが起こるのか、私にはそれを正確に言い当てる自信はないが、畢竟、これらの問いは、ゲーム理論的に解かれるべきものである。
さて、貧しい状況、すなわち喫緊に〈生産性〉が要請される環境において、贅沢な消尽としてまっさきに糾弾されるのが芸術活動であろう。ただ美しいというだけでそれがもてはやされるのは、豊かな時代にかぎられる。という意味では、阿佐緒という女性を「孕ま」せることなく、「陳列ケースの中の美しい美術品」として、触れることもなく飾っておいた袴田という人物のやり口は、まちがいなく芸術的であった。阿佐緒は、「青磁の壺、螺鈿細工の小箱、ワットオやプッサンの絵」(*32)にたとえられる。それは袴田が権勢家の金もちだったからこそ許されることであって、このようなことを世間様が許すはずもない。美しいというだけで女性を評価するというのは、女性の〈精神〉をないがしろにすることであり、女性を単に身体的で感性的な〈精神不在〉の存在として規定する、ということにほかならない。〈精神〉こそが、人間を困難に立ち向かわせ、将来を計画させ、辛苦に耐え、労働へと差し向けることができる。このような〈精神的〉な見方こそが、単に〈美的なもの〉を糾弾する有力な視線を形成するのである。
しかし、たとえ貧しくあったとしても、女性の身体的、感性的な(つまりは〈美的〉な)側面が〈精神〉と結びついて語られるならばどうであろうか? そのような〈精神〉を宿した女性として表象されたものの一つが、〈母〉である。人間の〈精神〉と結びついたとき、女性の身体は高貴なものと見なされる。ナチス時代のドイツでは、母親の役割が高く評価されるようになり、「無垢のアーリア精神」のもと、母親が子どもに露出した豊満な乳房を差し出す図像が公に出回るようになった。当然、モラルある人々から批判の声が上がったが、ナチスの機関紙『黒い兵団』は、そのような見解は「ドイツ人の品位を落とし、あらゆる美なるもの、高貴なるものを計画的に破壊する」ものであるとした(Zit. n. H. P. Bleuel, 1972, S. 23.)(*33)。親衛隊当局は「われわれにとって女性は自然の摂理によって聖なるものである。男はすべて女性の使命に対し畏怖を感じている。彼女はドイツ人種を守る人であり、彼女の本質は純粋なのだ! 彼女はドイツ人の男に奉仕するのではなく、人生における仲間であり、友である」(Zit. n. H. P. Bleuel, 1972, S. 23.)(*34)との見方を示して、「女性の誇り」を擁護している。授乳する女性の胸を見て非難するような輩は「堕落した好色漢」だけだというのである(Zit. n. H. P. Bleuel, 1972, S. 23.)(*35)。
このように、〈生産性〉に寄与するかぎりにおいて女性の身体もまた精神的なものである、とする思想には根深いものがある。「〈生産性〉があるなら〈裸体〉もいいよ」などという条件つきでは、その価値がまったく後件にではなく前件に存するのは明白である。いわば、〈裸体〉も〈女性〉も、〈生産性〉のための人質にとられているようなものである。もう少し言えば、このような場合、生産性が付与されるものの先決条件として、それが〈精神的なもの〉であることが不可欠である、ということができるように思われる。それが人間の〈精神〉と結びつくかぎりにおいて、直接に生産性のない〈美的なもの〉が、擬似的に生産性を獲得するのである。一音楽家の個人的な作品が、ドイツ精神のシンボルと見なされるようになったベートーヴェンの〈交響曲〉もその一例である。ベートーヴェンは、前時代まではただの娯楽にすぎなかった(つまりは美的なものでしかなかった)音楽というものに、崇高な、つまりは精神的な性質を付与することに成功した。この経緯については、別に詳しく述べようと思うが、ひとまずその背景として、音楽を社交上の娯楽として消費する王侯貴族に代わり、それをより〈精神的〉に聴取したいという、まじめな市民層が台頭したことだけ申し述べておこう。
豊かさの主体が移動するとき――たとえば、王侯から富裕な市民へ、そこから大衆へというように――、〈精神的なもの〉の意味するところも変化を被ることになる。〈精神〉のランクづけの仕方はそれぞれの分野でまちまちであろうが、たとえば、学問の世界における人文諸学部の精神的地位の低落には甚だしいものがある。デリダは哲学者として次のように訴えている。「こんにち、アメリカ合衆国において、そして世界中で、〔大学にとっての〕主要な政治的掛け金は、どの程度まで研究機関や教育機関は支援されるべきか、すなわち、直接的ないし間接的に統制されるべきか、婉曲に表現するならば、商業や産業の利益のために「スポンサーをもつ」べきか、というものです。周知の通り、この類いの論理によって、〈人文学〉はつねに、学術の世界とは無縁な、収益性が見込まれる資本投資に関係する純粋科学や応用科学の学部のための人質となるのです」(*36)。これは今日、〈学〉というものが、ある種の〈生産性〉の裏付けを成立与件とすることを意味している。簡単にいえば、いかに定量的な説明が可能であるか、つまり科学的であるか否かということが、それが〈学〉であるか否かを決定するのである。そして、否と見なされたものから順に予算を削減されてゆく、というわけである。そしてデリダによれば、このような〈精神の不在〉は、人文学が論証性をもたないこと(*37)に起因するのである。
三石友貴『わたし(上)』
2017 年、写真
ⒸYuki Mitsuishi
Courtesy of the artist
では、芸術作品はどうであろうか? ある作品が世に出るのは、一般にそれが「人間精神にかかわるもの」として評価されたからにほかならない。現在、どのようなものが「人間精神とかかわる」のか、そこはよくわからないが、どれほど感性的なものであっても、たとえ作者が作品における〈精神の不在〉を訴えたとしても、ひとたびそれが〈芸術〉ということになると、そこに〈高級な芸術作品ではない他の大衆的な作品〉との区別を生じるというのは、いかなることであろう? まさにそのこと自体が〈精神的である/ない〉ということにほかならないように思われるのであるが、もはやそのことを言い表すのに〈精神〉という言葉を用いることが適当かどうかも疑わしく思われる。しかし、それが優先的に保存され、何度でもくりかえし鑑賞されるという点で、それは〈精神〉との関係をとやかく言われた19世紀の〈芸術〉と変わるところがない。その意味で、いま一度〈精神〉とは何かということを問い直してみたいと思われるのである。
一方、物語の最後に、袴田は、三島が死を覚悟して書いた『天人五衰』(1971)の最後のシーンに、阿佐緒や正巳の死を重ねて、次のように述懐する。「死と隣り合わせになった時こそ、人は生涯でもっとも美しいものを感知することができるのでしょうな。皮肉と言えば皮肉だが、それも致し方ない。所詮、美の行き着く先は、死なんですから」(*38)。これは、そのもっとも美的である、ということが、もっとも精神と、つまり生産的な能力とかかわりをもたない、純粋に感覚的な感動を生起させることを言い当てた言葉である。美がリプロダクションとかかわりをもつのであれば、それは少しく精神的なものを含んだであろう。それが結婚戦術のために取り交わされる記号であったなら、美はなにかしらの形で生産性を含みもったであろう。少なくとも袴田は、阿佐緒における美的性質をそのようには受け取らず、生産性からまったく切り離してしまったのである。これというのも、彼の側に権力があったからこそなしえたことではあったが、いっさいの生産性を取り上げられた結果、些細な誤解も手伝って、阿佐緒は飲酒運転の挙句、高速道路のコンクリート壁に激突、自殺同然にこの世を去ってしまうのである。
なんとも身も蓋もない結末ではあったが、美が本来の意味での生産性をもたないということ、それがより際立って美となるためには、生産を企図する精神の働きから逃れる必要があるということは、一つの論理的帰結であるように思われる。そのためには、美的対象の中に精神を認めないというだけでは不十分で、私たちもまたみずからも精神的であることをやめねばならない、と思われるのである。つまり、もはや生産的であることを自ら断念せざるを得ないとき、死と隣り合わせになったときにこそ、美は十全に輝き出るのである。もちろん人は、豊かさのなかで美とかかわることもできる。しかし、美と能動的にかかわる生産的な力を欠いたところでは、豊かさにおいて見られる、少しく精神とかかわる美の悟性的要素、機知や諧謔というものが、魅惑として現われることはない。その静かな調子、無垢な、何かを知るというにはもはや知的とはいえない無知の感じ――そういったもののなかに、生産性を盾にせず主張される美の極北があるように思われるのである。そのような美が永遠のものであろうとは、私には到底思われない。精神とかかわわるもの、それこそが永遠のものだからだ。そして、それは精神的なものであるかもしれないが、美的なものではないのである。
その後、20年近くを経て、老齢の袴田を訪ねた類子は、袴田に奇妙な共感を抱く自分を見出す。阿佐緒という女性に精神を求めなかったという点で、袴田は正巳と似ているように思われたからだ。「何故、いまごろになって、私に会いにいらっしゃったのです」と問われた類子は、一言「わかりません」と答える。「かつて誰よりも深く愛した人が、あなたとどこか似ていたから――」(*39)そう言ってみたい気持ちにかられたが、彼女はついに言うことができなかった、とのことである。
〈Ⅵに続く〉
(*1)「ミス・アメリカ2.0」ホームページ、web(https://missamerica.org/competition/)。
(*2)ハンス・ペーター・デュル『挑発する肉体』、藤代幸一・津山拓也訳、法政大学出版局、2002年、54~55頁。
(*3)デュル、同書、61頁。
(*4)デュル、同書、55頁。
(*5)「ミス・アメリカ2.0」web、前掲ページ。
(*6)『カント全集2 前批判期論集Ⅱ』、岩波書店、2000年)、久保光志訳、328頁。
(*7)カント、同書、328~329頁。
(*8)カント、同書、329~330頁。
(*9)エドマンド・バーク「崇高と美についての我々の観念の起源の哲学的研究」(『エドマンド・バーク著作集1』、みすず書房、1973年)、中野好之訳、47頁。
(*10)小池真理子『欲望』、新潮社、2000年、29~30頁。
(*11)小池、同書、48頁。
(*12)小池、同書、48頁。
(*13)小池、同書、50頁。
(*14)小池、同書、53頁。
(*15)小池、同書、55頁。
(*16)小池、同書、56頁。
(*17)小池、同書、53頁。
(*18)小池、同書、148頁。
(*19)小池、同書、148頁。
(*20)小池、同書、230頁。
(*21)小池、同書、218頁。
(*22)小池、同書、147頁。
(*23)小池、同書、218頁。
(*24)小池、同書、237頁。
(*25)小池、同書、231頁。
(*26)小池、同書、233頁。
(*27)李天正「配偶者選びは商品選びと似ている?」(王暁田・蘇彦捷編『進化心理学を学びたいあなたへ――パイオニアからのメッセージ』、平石界・長谷川寿一・的場知之監訳、東京大学出版会、2018年)、98頁。
(*28)李、同書、99頁。
(*29)デュル、前掲書、12頁。
(*30)デュル、同書、9頁。
(*31)笙野頼子「「フェミニズム」から遠く離れて」(北原みのり編『日本のフェミニズム since 1886 性の戦い編』河出書房新書、2017 年)、109 頁。
(*32)小池、前掲書、237頁。
(*33)デュル、前掲書、318頁。
(*34)デュル、同書、318~319頁。
(*35)デュル、同書、318頁。
(*36)ジャック・デリダ『条件なき大学』西山雄二訳、月曜社、2008年、16頁。
(*37)デリダ、同書、17~18頁。
(*38)小池、前掲書、476頁。
(*39)小池、同書、482~483頁。
文献目録
Bleuel, H. P.: Das saubere Reich, Bern, 1972.
Briggs, R.: Communities of Belief, Oxford, 1989.
Lee, R. B. : ≫What Hunters Do for a Living≪ in Man the hunter, ed. R. B. Lee./ I. DeVore, Chicago, 1968.
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Woodburn, J.: ≫Hunters and Gatherers Today and Reconstruction of the Past ≪ in Man the hunter, ed. R. B. Lee./ I. DeVore, Chicago, 1968.
なお、作品写真掲載の許可をいただいた三石氏にこの場をかりて御礼を申し上げる。