103116 digital photo by Tetsuya Machida
文・写真 / 町田哲也
雪が消えた途端夏日と報道され、二日三日で転落し幾度かまた白く降った。10℃以上の気温差が昼夜でなく日々がシャッフルされるかに繰り返される気象で、早々に山が一斉に萌えて芽吹きの季節に樹々は狂って咲き散った。新緑が雨に濡れ葉の色が深くなっても気まぐれは続き、徐々に変化するこれまでの穏やかな移ろいが失せ、各地では例えば異形の雲などが観測されている。温暖化によるものであるとか、太陽の極が分離したせいだとかこの星の地軸だとか出鱈目も混じった情報は身から離れる。理由がどうであれ都度変位の状況に身を晒すしかないのは樹木だけではない。標高差五百メートルを行き来する時間が其処に加えられ、下降と上昇による脳髄と鼓膜圧の変化が麻薬のように作用し気象の中にパズルピースを嵌め込む剴切さで併置され、辺りは馴染みが失せて世界の外側が強調されている。四年前の震源地にほど近い唐突な揺れもふいに起きる。戸惑うよりも、真っすぐに眺めていなかった庭先が鬱蒼と葉に覆われていることの、「今はいつだ」と時間ひとつを指で摘んで手に取るように、「此処は」と認識の手段を失った「現在」に夢中の訝しさを抱く有様だ。真面(まとも)に気象に対峙する生活ではないけれども、呑気で散漫な印象や体感も萎える間なく上下左右に振幅し繰り返されれば、行成り生存の意識を融かして気が振れるかもしれない。異常気象へ聴耳を立てるわけではなかった、寧ろ手元にぼんやり篝火のような事を灯すかの冬を不乱に過ごし、40年過去の似たような季節の過ごしがまた浮かび、これまでは憶いだしても朧の内へ押し返していたが、この冬は逆に近寄って記憶の詳細をくよくよ辿るに任せ頁ばかり捲って照合へ拘り、あの時の無邪気と不完全の闇色の湯槽に今一度浸るように過ごしていた。
金色(こんじき)の光を反射する煌めきの神々しさよと謂われるような金属物質そのものには日頃馴染みはない生活でも、古の記録や装具の画像を眺めたり、黒肌裸族の皮膚に張り付く輝きを遠く想うことはある。それとは幾分異なって、金塊の太々(ふてぶて)しさ、鈍重、個体固着皮膜の反射の中、疾うに漂わせる液化溶解への崩れの気配が、目覚めに差す覚醒の展(ひら)きや、赤子の頬に光る花粉のような汗粒の中などに時折顕われ、謂わば「光の盪けた金属」という意識をくっきり形づくる季節だった。瞼の見開き加減によっては同時に精神の漆黒の暗闇への浸り、陰翳の周縁を聢(しか)とその輝きの輪郭に際立たせることがある。神々しいとされる光が数々の象徴を支えた金色の歴史へ振り向けば、累々と街道に屍体が重なっていることと似て、光があればこそ見えてくる虚ろな晦冥へ眼差しを、この時とばかり錆びた鉄板の穴に盪けたゴールドを流し込むかに私は突き立てるぞという意識。比重を見るようなこれは性癖だろうが、多様な契機が露呈を加速させたようだ。
唯物論から派生したシンギュラリティ(技術的特異点)が、善悪の再定義やらポストヒューマン(トランスヒューマニズム)を促すかの議論蔓延の巷を、まるで無知蒙昧に認識を棄てた偏執の戦中であるなと些か残念な心持ちで見渡す自らの浅ましさに気づきつつ、天変地異的特異点も同じことだとひとりごちて、同時に斯様な群れ説法の塗れを超克した生活のタイプに細々とスライドする精神の瑞々しい逞しさの顕われを見いだす時が、少ないけれどもある。311以降それがよく見えるようになった。時代がそうなのかこちらの姿勢が促すのかわからないけれども、そのぽつねんとした孤高がまた、陰翳を持った奇警な金色と見える。裾に湛える闇も紫やら鉄色やら深紅からグラデーションを伸ばす深さをそれぞれに染み込ませている。光そのものではないゴールドの煌めきの何処かに、表裏の烏鷺が手の届く深層に置かれた不具合の鈍さのようなモノ、コトと成って重く沈み、人と金属の異質のどこかを辛うじて繋げるようにこちらに運んでくる。これは単なる当て擦りであるかもしれないが、そのブラックホールのような黒点のようなゴールドの明滅そのものが、孤高存在の本質的な性質であると思えるのだから構わない。逞しさとはいったものの、彼ら孤高のほとんどは自らを脆弱と定めながら恥とは考えていない。寧ろその弱さが輝きであることを彼ら自身が知っている歩みとうかがえる。こうした煌めきの点描の光景を自身の遡行へ探すと、自らの犯した過ちと捉えていたような浅薄な事象であっても、再考を促す弱々しい光があり、汚名ではなかった差異と固有を見極めてから掬い取るような仕草をはじめていた。自らの罪を弁解する危うさが充ちるが、今となっては有り様を否定する態度は醜い。知覚の収斂と四散に任せる。
匿名という野次馬連が正当性を発音発声無く叫んでいるデジタル類型は実態の無い悪意にも変位して、常套句と重なり合う詭弁が軸を成す群れの中では強(したた)かに狡猾に、ーあるいは誤解を怖れずに記せばー卑怯に生きるしかないので、主体よりも客体に振り回されるかの横暴から逃げる人間はいるもので、時にはざっくりと病を背負い、傷を負ったまま項垂れた敗者の格好を隠そうともせずに、とぼとぼと荒野を歩き始めるのだが、この時既に光の金属を纏っていることに彼は気づいている。同じような意識のみを、逃げる事ができない仕組みの中で津々と内側に深める者も必ずいて、彼らは夕刻にはどこか遠くをみつめるいかにも正しい実直な瞳を西の空に向けている。物語ではなく記述として顕われたものを手にとると、このような時代を予知ではなく早々に体感する者は大概哀しい目をしている。冬の間は溜息を殺して眺めるに任せていた。
さまざまな渦中を生きる人間は、それがドメスティックな距離に縛られていても、欲望を優先する孤独であっても、人助けの気概に充ちていても、情愛そのものが自身であると自覚しても、恣意を自由につまり自らを解放させているわけではない。通常自由という力学に無頓着であり、恣意という固有を必要としない時空を流されているからだ。揚句例えば裏切りへの復讐にめらめらと憎しみを燃やす老体老練に食いしばられた力は残り少ない歯茎に都度適切器用に漲るし、彼は朽ちるばかりではない魂の滾りの怖ろしい成熟を放っている精神の旺盛であり、広範囲の複雑を巧みに制御するリーダー気質の纏め役に人生を捧げた男は、歴史上の名うてとの競合気質を死す迄棄てないだろう。輝きだけを求めるかに夜な夜な金塊を磨く男は、その愛着の行為に孕む闇を、軈て知る果て、空無として目指しているのかもしれない。泣いてばかりいるような人も聲の中に強弱を含み泣きながら笑うことすら出来るようになる。多様であるのだと浅薄な言葉でくくりきれない深長を引きずった、差異の塊は、金色のコアに眠る闇のようになかなか煌めく契機を喪失して、類型的な表象を凸凹な状態で支えている。
肉体と事象の距離を信仰によって測り得る以外では、迎合混乱するしかない社会にあって、意識(欲望)も実は憑依(真似)にすぎない場合がある。この憑依が併行形の時間軸で行われる、つまり隣人を真似る時、そのほとんどは限界で憑依を放棄して皮相諧謔へ転換させる。この場合の憑依は似ていないが近しいという宣言のようなもので愛着の傾向を示すに留まる。欲望の最初に完全憑依は不可能であるとの確信があり、これは達観となって厭世と虚無に結ばれることもある。時間を遡って行われるこの欲望は、遡る深さ、記録や記憶の事象の不明瞭性に比例してめっきり不確かになる曖昧を憑依の完了へ独我的に振りきる錯覚が、「生まれ変わり」(倒錯)であるような気分に逆転することでこれが妄想成就する。いずれにしても憑依(意識)そのものは金色の光を放つ事はない。つまり深さを持たない戯曲的表象的な記号と位置づけられるだけであり、この皮相に気づき自らの振幅を現在と過去の二極へ制御する認識では失望が訪れる。これはある種の悲劇であり意識に悪しき感触として絶えず纏わりつくものだ。現在を欲望する手段の中に過去が鮮明に生成し、その併置と放埒を区々(まちまち)な時空へ投擲すれば、単独的なベクトルの果てとしてのビジョンではなくて、大いに過去が織り重なり合った状況への感触として「今」が立ち顕れる。「今」とはこうした時間のミクストメディアであるから、混濁しているのは当然で、幾度も「あの時」が繰り返され、幾度も目を細めた幼子の憧れの瞳がぶり返すものだ。弱者であること敗者であることが明らかな見極めの後、混濁を歩む現在の非れもないパラドクスの中で、怯えを審(つまび)らかにすれば、闇を纏った金色(こんじき)の足蹠が地に触れる。
風が降り樹々の枝が折れて落ちてくる。腰を下げ腕の肘で防ぎながら歩く男は血を流しつつ傷を負った肩に落ちた枝を集めて背負い、ふとしゃがんで足下の茸を見入っている。
町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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