場所の仕事

タイトル:光の筏
素材:角材 砥石 蒲公英の絮 薊の絮 鉄材 鳩の羽 アクリル 鉄塊 試験管 繭の形
400cm×1320cm×35cm
布置する仕事/台座/物質誌
FLATFILESLASH/ Warehouse GALLERY

文・写真(作品) / 北澤一伯

場所の仕事
北澤一伯

 『殺戮は奇妙な銃声とともにやってきた。誰かが形而上の丘の上に形而上的な機関銃を据え,我々に向けて形而上的な弾丸を浴びせかけているようだった。
しかし結局のところ、死は死でしかない。言い換えれば、帽子から飛び出そうが、麦畑から飛びだそうが、兎は兎でしかない。』
(「ニューヨーク炭坑の悲劇」村上春樹)

 形而上の丘とはよくいったものだ。
芸術が死んだ、もしくは絵画と彫刻が死んだと言われはじめるのは、何時の頃のことなのだろうか。
誰が、何の動機で言いはじめたのか、疑問は多い。
 テオドール・w・アドルノ(1903—1969)は「ヴァレリー・プルースト・美術館」のなかで「美術館は芸術の墓場である」と言っていたと、ある美術大学のリフレットで読んだことがある。さらに、その文章は、アドルノの言うように美術館を墓場とするなら、そこに集められる作品は死体なのだと言うこともできるとつづけていた。おそらく、それは1970年代前半の美術状況を念頭に書かれていた内容だったと思う。確かに美術が臨死のように語られた頃、美術館展示や公募団体展以外の場所で、私は実社会や日常との関係づくりに活路を結ぶ動きを体験していたと思う。
 そして現在、その困難な時をのりこえたと、枕詞のように言って自作を生産する画家や彫刻家たちが存在している時代の根深さを、私は観て知っている。
 それらは、具象的もしくはイメージをつくらないことを是とするという、概念性と物質性と関係性を重要視し、既成の美術を否定する状況の空気を、さらに否定的に生き延びた方法や、転機として影響をうけた出来事であるのだが、共通しているのは時代や場所や社会の中で新しい世界認識と出会い、意志としてつくることを選び、ついには「生き生き」と芸術の死から自己が再生するという物語までも、つくっていることである。
 だが、つくる側へと生き変わったことで、捨て去られ語られなくなってしまった「つくらないままの存在」の凝縮力までもが壊死に似て消滅してしまったとは、私は思えない。美術の純粋な根本の辺りで、その思考の聖性が風媒花の絮に近い形で残存しているということを、私は見つめてきたといえよう。
 現在なら、薄々ではあるのだが、芸術が死んだという言説の流布を実行した戦略者を透視することができる。
 アドルノのナチス機関誌への加担や、ナチスに迫害されたベンヤミンを生存中支援しなかった事を考慮する時、想像の範囲内では在るのだが、弁明できない悪意が滲むのである。
 また、アドルノが活動していた頃の西欧の美術館はどのような姿であったのか、日本との差異において、その在り方が気にかかるところである。墓場に遺骨が在るように、死後と認定されるにふさわしい美術作品の、現代の美術史観とは異なるかもしれない根拠について想いがめぐるのだ。
 そして、本物と偽物、聖と俗、などの連想ではあるけれど、つくらないという行法を辿っていくことで美術の本質的価値にいたる概念的思考が、『形而上の丘で行われた殺戮』のように、四十年ほど前より、ゆっくりと黙殺されてきたと意識するのは私だけではないと思う。
 それゆえに私は、さまざまな経過に立ち、困難な状況や朽ち果てた現場に、「生き生き」と息吹を吹き込む重要さを感じるのである。
 宇佐見圭司の『絵画論 描くことの復権(1980)筑摩書房』で展開される,絵画が発生する装置としてのプリベンションの考え方は、つくることが困難な時代の画家の真摯さから生み出され、描くことの復権をめざしている。それは表現を、場所における彫刻物体の布置によって成立させる行為にも示唆に富む質があると思う。
 「彫刻は立つ事の美しさである」と私に教唆したのは、彫刻家柳原義達(1910-2004)だった。
 モニュメントという要素をふくめ、彫刻を直立せる為の装置としての台座を考えるとき、地山という虚構を考えざるを得ない。しかし、台座をつくらないと決めて試みると重心を失い倒れるという想定の先に、倒れた位置としての場所が確認できる。その認識から量<ボリューム>と塊<マッス>という考えを、雲母の一片をさらに割るように切断し空間に配置すると、彫刻の正系理論から離れて、なにか広々としたスペースへと展開していく。
そして、底面を持つが頂点のない、苔の繁殖のように現場を占領する無時間の物体が出現する。
 海図とは、岬や港を結んだ線や絶対座標としての星の位置から割り出され、決定される。公図もまた、上下空間の構造にある。布置とは、高所から倒れた彫刻へむけた眼差しの、建築的実現である。
 彫刻の正系は戦争にかかわる国家的内容を含んできた。どのような時代であっても、見上げられ綺麗で勇ましい言葉を操る彼等のモニュメントは、いずれは倒れてしまうことこそふさわしい。
 倒れる彫刻は、彼等から限りなく遠のいていく気配を顕す。
つまり、場所に還るのである。
 場所において『帽子から飛び出そうが、麦畑から飛びだそうが』躍動性という名前の兎をかりだそうとする彫刻として、布置をつづけてきた所以である。
旅はまだ終わらない。

『ふつう、われというのも物と同じく、種々の性質を含んだ主語的統一と考えられているが、われとは主語的統一ではなくて、述語的統一である。一つの点ではなくて、一つの円である。物ではなくて、場所である。』(西田幾多郎 「場所」 1926年 岩波文庫)

北澤一伯 Kazunori Kitazawa
1949年長野県伊那市生れ
発表歴
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。
80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。
94年以後2008年12月までの約14年間、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』連作を制作。同期間、長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」〜』連作「残侠の家」を制作。
 その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作として
1998年下伊那郡高森町「本島甲子男邸36時間プロジェクト」がある。地域美術界に対する新解釈として「いばるな物語」連作。
戦後の都市近郊における農業事情を読む「植林空間」。
 また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、
95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。2009年9月第1回所沢ビエンナーレ美術展引込線(所沢)
4th街かど美術館2009アート@つちざわ土澤(岩手県花巻市)
2012年6月「池上晃事件補遺No5 刺客の風景」(長野県伊那北高校薫ヶ丘会館)
7月「くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる 固有時と固有地」 連作No7(長野市松代大本営地下壕跡)
2015年Nine Dragon Heads(韓国)のメンバー企画として第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて展示。
同年7月、Nine Dragon Headsに参加。韓国水原市にVoid house(なにもない家)を制作した。
2016年6月「いばるな物語」連作の現場制作。 伊那北高校薫ケ丘会館
2016年10月個展 「 段丘地 四徳 折草 平鈴」 アンフォルメル中川村美術館(長野県上伊那郡中川村)
2017年9月:Nine Dragon Heads(韓国)のTASTE of TEAの企画として第15回イスタンブール・ビエンナーレにてVoid house連作を制作。
2017年11月~12月:ナガノオルタナティブ2017「Prevention」05 北澤一伯展「場所の仕事」にて
“光の筏”を現場制作。
FLATFILESLASH/ Warehouse GALLERY
(長野県長野市)