不全位置考

Chikuma river 112917 2/40(60) X-pro2

文・写真 / 町田哲也

 飲み止しの水が残っているグラスへ差し伸べようとする気持ちに動作がはっきりと遅延し肩から腕と指先が鈍く出遅れる。作業の行方を額の裏に残し短く眠る転寝だったから、横臥の圧迫で腕が痺れていたわけではなかった。骨の中に綿が詰められたようなヌルい虚脱が部位にあり、握りしめた拳の力そのものの中心が空洞となっている。立ち上がると小さく躓き膝も危うい。背骨と腰も太腿あたりにも軸芯の失せた感触がある。風邪かとグラスに水を足し置いてから寝転ぶ木偶の坊と腐ったまま、ゴロゴロして様子をうかがい、二日経ったが何も改善しない。おかしいなと神妙な気持ちが生まれ点滴とビタミン注射と精密検査という医者頼みの流れに任せた。不眠をさして感けず二時間の睡眠と作業を繰り返しおしすすめた季節二つ分の不摂生で身体が壊れる時、不具合の憂鬱に支配される取り繕いの捨て台詞は消えて、思ってもみなかった、なかなか澄み切ったものに満たされる。三年前の喉の故障時にこの印象が生まれなかったのは、壊れの微妙な案配か。観相の歳到来か。恢復を理由に数々の切迫から離れ、頓着を放棄する弛緩を許された環境の、例えば診療を待つ時のあるいは病室に並ぶ、日常が頓挫し怪我や病で壊れた人々の瞳の加減がどれもこれも似ていることに気づき、自身の具合を顧みず臆面もなく覗き込むようにみつめていたようだ。こちらも含めた放心の埒外で、手掛かりを失ったかの瞼には、各々の持ち主が数十年来表に顕さなかった幼少の無防備な儚い怯えが再び灯り、他人がみても懐かしいような本来的とも云える基本的な人間のクリエイティビティが潤んでいるように感じられる。鏡に照らされたこちらの瞳も、生後十一ヶ月の孫のそれと同様のよすがない呑気な無邪気で濡れている。病室での長逗留を経て、退院が間近になった男は忙しなさを取り戻し、狂騒と混沌の日々へ戻る恢復の歓びが反転した劣悪を、身体の恢復を恨むかに口数を減らし漲っていく仕草を投げ出すように弾かせて弄び、すっかりよくなったと明るく見舞客に応えた後独りになって、再び病に倒れることを夢見るような、否むしろ繋がった腕を自ら再び折ろうか折るぞと迷う訝しげな視線をひっそりと、夕方の窓の外に向けている。壊れた者たちは「終焉にぴたりと擦り寄せたはじまり」にて震えながら、修復によってゼロとなった立ち位置で、蛍の尻のような白いあかりを目元に弱く点している。

 不眠は片付ける作業の合間に短く眠る習慣が、通常必要とされる半日弱の熟睡を排除させてしまったことによるもので、医師の指摘では、惑星の回転と昼夜のリズムに反する生物的な基づきを無視した手前勝手な都合によって、光を浴びてリセットされる体内時計が壊れ、代謝機能の一部が働かなくなったらしい。自立神経の失調で内蔵が機能不全にて穿孔潰瘍には至らなかったが部分的には融けたかもしれなかった。睡眠薬など即効的なケミカルな処方を断って、お天道様のリズムに照応する呑気な処方を選び、さて暗くなって身体を休め眠るというごく当たり前の取り戻しは簡単ではない。だが十日こらえてから早朝目覚めると、その朝久しぶりに健やかな気象だったこともあって、なるほど休息を得たからだに気の漲りが新芽のような伸びをした。血流の巡りの速度もすっすっと実感できる。そういえば体調を崩す前のひと月は気象の乱れた光の足りない日ばかりだった。光の吸収と睡眠の充足によって食欲がやや蘇り物事への眼差しも活性刷新されつつある朝の散歩の視界に、病室の稚い瞳の行方のようなものが仄かに浮かび、壊れていること(不全)の(壊れを保持する)位置を見えるかたちにできないかと考えつつ歩いている。

 ほぼ身体の反射で処理する運転動作に生存を預け、車が高速移動している最中にある時、その時間が精神無為の状態をつくるのだろうか。七万キロの走行距離とその2万時間は、イヴェント同士の中間に浮くだけのものではなく、生の内では無視できる時空のボリュームではない。運転の輪郭の惚けた意識の周縁には、際限なくあれこれランダムに想いや記憶や反復が只管降り注ぎ、刻々出鱈目に併置される思念の思弁的な連結の肝が緩み、差異の判別も曖昧となり無論ロジック構築するつもりも生まれない。めくるめく移ろう視界変位の波に任せ、混濁玉脳に吹き出るさまざまな色彩の液体に、幾筋もの稲光、スパークが走り、滴り落ちる信号を非ぬかたちに書き換える理不尽が景に下って流されるのは、夢にも似ている。奇妙なことにハンドル握る身体においてのこうした混濁は決して不快ではない。むしろ高揚することのほうが多いかもしれない。日常に転がるすっきりしない違和感が払拭される時間でもあるのだろう。たっぷりと深く逆さに首まで浸かる音響音像を大きく車内に併置すると、時折音響のクオリティーに対して深く潜航する感受が、こうした意識の解体状態でこそ聴こえてくるものだ。響きと左右に流れる視界景を上下に入力分断し、比重を静めるようにしてから、その上空(のような位置)から、澄み渡った空無のぽつねんと在る「識」に辿り着いて念を堪え、ただ移動によってだけ徐々に蓄えられ上昇する気配の、視界の高度のような位置を実感する。こちらの移動のほとんどが標高に対する降下と上昇の反復であることもこれに大きく関与しているのかもしれない(こちらはせいぜい五百メートル前後の標高差だが、これが千メートルとなると何かが決定的に異なるだろう)。瞬きが帯電する時があり、バチッとくると意識はすとんと落下する。魂の状態が混濁する車の運転は、私の場合「不全」に含まれる。

 何気ない日常の折衝の狭間、移動の捩れた思念(錯覚であってもよかった)の脇で、そもそも自由とは享楽ではないなどと転がす思念錬磨への欲動が、デジャヴュを寄せて頻繁に起きる。薪を割る理由ではなく斧を振るう寸前の瞬発力(意気地)をみつめなおすようなことだ。座して瞑想するなどといった静態では思念は石化し、完全態を願う妄想(実現せずに達成している目的)に固着するので移動運動の内、放埒な混濁の中で、此の固有存在の震えを賦に落とす筋は、記憶のはじまりへの遡行という頼りないものでよかった。違和感を悉皆寄せ集め精査の篩を振動させれば、ほとんどの事象に「不全」を呪う怒鳴り声が文字と成ってのこる。愚鈍な植生成長のコヤニスカッツィ(常軌を逸し混乱し平衡を失った世界環境)を、ポキンと折れたままの意識ひとつで歩きはじめる赤子の瞳に既に映している。ものがみえはじめた時から早々と何かを諦めた風情で、喪失を湛えた哀しみを知っている。半世紀が過ぎても世界は相変わらずに罵り続けている(親は子に対して怒鳴らないでほしい)。上目遣いでコントロール(制御)へと目的化する人世事象のほとんどは、崩壊の予言を完成するだけなので哀れで滑稽だ。そもそも理念的予定調和への整理整頓に齷齪翻弄されるのは、世界の怒鳴り声に対するレスポンスがそれを育むトートロジーであり悪循環でしかない。嗚呼オソロシや。壊れたままでどこが悪い。と尻をまくって未知(制御不能事象)への潜入(関心)を都度鮮明にする手法を選ぶサバイバルしかないというわけだ。だがこの探索に措いては、指先を鳴らす程度の稚拙な介入であったとしても、生理的ともいえる微細で瑣末な耽美が苔類のように菌糸を伸ばす温床をこしらえ肉体の滅びという感傷が忍び易い。ほろほろと耽美に迷えば途端に探索の力が脆くなるので情動を招き寄せることも払いたい。折衝そのものへの行為性が、事象の照り返しの享受を、即座に+-0にする鉱物的な介入によって形而下の「不全」状態が更新される時、清潔な位置ですくっと思念は立ち上がる。つまり延々とみえることが立ち顕れる「不全」を幾度も繰り返すことになり果てるということだ。為体な愚鈍反復は、はじまりに潜んだあの悲劇性(制御・完全への諦念)から離脱した境地となって白く発光するだけにすぎない。時間を含みこんでいく光の無機質が星々と並び億光年を貫いて、杜撰で投げ遣りな放棄の転落と躓きの放心の危うい浮遊感そのものである「不全」の位置を、明晰(新たな緊迫・折衝の初期化)へと展き違和の解かれた空無識の門とする。この入口のような開かれた形は、病室にならんだ瞳の戸惑いの中に確かに在った。

 日々撮影をする現像で、つくづく思い知らされるのは、排他的な光景の現実感であり、恣意の介入する隙の無い、複雑精緻な世界そのものだが、日常の知覚を信頼せず(見ているようで見えていない)レンズに「視えること」を見出す行為は、そもそも自身の肉体への不信がある。これを厭きもせずに繰り返すことができるのは、「不全」のサスティナブルとして、私固有な介入手法として、車の運転移動と同様の、生存の骨となっていることを示している。健全を標榜したかもしれない併置から不全藝術 (incomplete art)を考える時期になってきたようだ。

町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
individual web contents map