文 / 服部洋介
「コンドーム論①」で見たのは、「〈哲学的ナルシシズム〉を遂行するにあたり、〈他者〉というものが不可欠の媒体として呼び出される」ということであった。しかし、ナルシシズムの神話的起源をたずねるならば、ナルシシズムとは自己愛による〈他者の喪失〉が惹き起こす悲劇ではなかったか、という疑問に突き当たる。しかし、〈自己〉が〈非-他者〉、すなわち〈他者〉の否定として記述されるとき、そこには先決条件として〈他者〉の存在が認められなくてはならない。そこには〈視るもの〉と〈視られるもの〉の関係が存在する。〈他者〉から〈視られる〉という体験–それこそが、一つの自己否定のうちにナルシシズム的な〈実在としての私〉の領域を否定神学的に浮かび上がらせる契機となるのだ。この〈視られる〉という体験の今日的な拡張、すなわち、九〇年代における政治主導によるアメリカ化と、SNSの急速な発達は、日本を米国並みの自己愛型社会へと変容させた(*1)。現代はまさに〈自己の超複製技術時代〉なのである。ナルシシスティックに超出された自己の〈表象〉は、自己の主観的体験に回収されることのない、〈存在〉の空虚な強度をもっている。自己を〈視ること〉(それは、より確かに自己が〈視られる〉状況を作り出すことと結びついている)が技術的に常態化し、自己の超複製が可能となった現代社会において、私たちはナルシシスティックな表現の多様な様態と〈出会う〉のである。
さて、これまでに〈視られる〉ということにおいて特徴的な自己表現を行なう小林冴子(1983~、画家)、マノン・ウー(1991~、美術家)という二人の作家について見てきたが、それは、〈視られる〉という行為が〈裸体化〉という端的な形をとる場合、そこにいかなるコミュニケーションの様態が開かれるのか(あるいは開かれないのか)を考えるためであった。くりかえしになるが、〈裸体〉というものは、文明化された社会の文脈においては死に等しいものである(*2)。それは、人々から卑しまれ、蔑まれる、〈衝撃〉的な〈存在〉の様態である。〈裸体〉は、彼女たちの身体を見慣れた日常の意味連関から切り離し、不穏なものへと変容させる。その出現の経験を記述するにあたって、私は、ハイデガー(1989~1976、哲学者)がその存在論において〈存在〉の〈開け〉と呼ぶ、存在把握の〈根源的な〉経験を手掛かりとしてきた。なお、〈本来的〉〈根源的〉であることが、〈非本来的〉〈理論的〉ないし〈日常的〉であることよりもまさるものではない、ということはぜひとも断っておかなければならない。それは単に〈存在〉との〈出会い〉方の様態に対して与えられた名にすぎない。
小林冴子『ブラサガル』(2011) キャンヴァスに油性マジック、油彩 112.0×145.5cm
一方、バタイユ(1897~1962、哲学者)は、とりわけ実存の〈本来性〉〔Eigentlichkeit〕をエロティシズムと呼んだ。それらのありようは、ともに有用な目的をもたないという意味で〈遊戯〉〔Spiel〕的な、しかし、それが他者によって〈視られる〉という意味では〈芸術〉的なものである。〈視られるもの〉としての身体は〈表象〉〔Représentation〕である。語源に照らせば、〈表象〉とは、ナニかを代理的に再現するものの存在様態である。ナニかを形で表わした、その〈かたち〉が〈表象〉である。ある〈存在〉の一次的な〈かたち〉、たとえば人間にとっての身体は、その身体の主である主体の〈自己表象〉〔self-representation〕を形成する。ここでいう〈自己表象〉とは、〈私〉が〈私〉に対して抱く同一的なイメージ(私の〈存在〉に対して私が代理的に構成する心的表象)を指している。しかし、〈裸体化〉を遂げたエロティックな自己を視るということは、単に現前する自己の再現として身体を〈表象〉することを意味しない。いわば、鏡の前の自分を見た時に「これは私ではない」と錯覚するような経験が〈裸体化〉なのである。ウーは、自己の〈裸体化〉した身体を「「特別な」モノ」と呼んでいる。
私にとって体はモノなんですけど、(…)「特別な」モノなんでしょうね。どう特別かと言うと、私を表すモノなのか、体は私ではないと思うのですが、私を非常に表現しているモノというか、そういう意味では私の発した声とか言葉とか文字も体と同じ特別なモノになるのでしょうか。(*3)
マノン・ウー『われわれはエロいことをしようとしてるんだ!』 (『マノン・ウー実験写真』より)(2017)
〈「特別な」モノ〉、としての〈私〉の身体。それは、確かに〈私〉を再現しているかのようである。しかし、同時にそれは〈私〉以上に〈私〉であるかのように自らを〈偽(擬)装〉〔Verstellen〕する。〈表象〉は〈私〉を超えて表現する。その逆ではない。声、言葉、文字、そして身体——あらゆるものが〈私〉を表象する。しかし、それは〈私〉の忠実な代理記号ではない。人が関心をもつのは、実のところ、形のあらわれである〈私〉の〈表象〉であって、〈生身の私〉ではない。
しかし、ここで一つの疑問に突き当たる。そもそも〈生身の私〉と〈私〉の身体は同一のものであり、それこそが〈私〉の〈存在〉ではないか、という疑問である。しかし、ここでいう〈存在〉とは何か。たとえば、〈私〉は一個の存在者である。それは、将来と過去に対して開かれた〈実在〉であり、それがナニモノであるかは、単に現前する自己意識によっては把握することができない。この〈存在〉であるところの〈実在的な私〉に対し、現前する自己意識はあくまで〈実在的な私〉についての一つのまとまったイメージを構成しようとする。これが〈自己表象〉(ハルトマンのいう意味での)である。〈生身の私〉とは〈自己表象〉と不可分の関係にある〈私の身体〉ということになるだろう。それは、「〈私〉とは何か」という統一的な意味と、その固有領域〔le propre〕を構成し、現前する自己意識と自己の身体を不可分のものとして結び合わせる。対して、他者もまた〈実在的な私〉についてその〈表象〉と〈意味〉を、彼の自己意識において概念的に構成する。このようにして、〈実在〉は現瞬間に切り出され、日常的な存在把握は「それが何であるか」のおおまかな意味連関の中で行われるのである。しかし、その中心には常に意味同化の構造によって表象化(意味化、記号化)されることのない〈存在〉(実在)が一定の領域を保っている。それは純粋な〈かたち〉の領域である。それは何か他のものをあらわす〈かたち〉なのではない。〈かたち〉そのものなのである。フォション(1881〜1943、美術史家)がいうように、〈かたち〉は、一種の磁力を発揮して、まちまちな〈意味〉を吸い寄せる。人それぞれに思い思いの素材をこの鋳型に注ぎ込むと、そこに意外な思いがけない〈意味〉が見事に定着される(*4)。意味化された〈かたち〉、それが〈表象〉である。
一方、〈かたち〉は、その特性として複製可能性(より正しくは被複製可能性)と展示可能性(被展示可能性)を獲得する。それは、写真や映像といった複製技術を通じて、際限なく増殖をくりかえす。複製された二次的な〈表象〉、それはすでに〈私〉とはほど遠いものである。それは、〈私〉からアウラ〔aura〕を剥ぎ取ってゆくことで、逆方向の強度を増してゆく。遠藤麻衣(1984~、俳優・美術家)が『あなたに生身の人間として愛されたいの』(増本泰斗との共作、2016年)において提示するマリリン・モンローのイメージは、この事態を物語っている。遠藤は、中央をくりぬいたウォーホルの『マリリン・モンロー』(1967)に自らの〈裸体〉を嵌め込み、「複製されたイメージと生身の裸を重ね合わせ」「I wanna be loved by you(あなたに愛されたいの)」(*5)と歌う。遠藤は言う。「これは、生身の人間と無数に複製されるマスイメージの狭間にあって、自死をもって身体の一回性を取り戻したスーパースター「マリリン・モンロー」のイメージに介在する試みである」(*6)。この遠藤の言葉が、ベンヤミン(1892~1940、批評家・哲学者)の『複製技術時代における芸術作品』(1936)を下敷きにしているのはいうまでもない。一回的な身体(〈私〉と不可分と見なされるオリジナルの身体)は、複製技術によって〈表象〉(〈存在〉の〈かたち〉を模造したコピー)に置き換えられ、アウラを喪失する。やがて〈表象〉はオリジナルを〈偽装〉する。それはオリジナルを鏡のように映し出したりはしない。〈表象〉はオリジナルを装い、それに取って代わるのだ。一方、この複製可能性を拒絶することによって、パフォーマンス・アートは、失ったアウラを奪回しようとする。しかし、ことはそれほど単純ではない。身体という一次的な〈表象〉もって存在するところの〈私〉のあらわれ(〈存在〉)をもとに、〈私〉もまた主観的な自己体験において〈自己表象〉という一つの複製を作り上げる。これは、他者が〈私〉の〈存在〉をもとに捏造するもう一つの〈表象〉と何ら変わることのない複製である。もし他者が〈私〉について何も言い当てることができないとすれば、〈私〉もまた〈私〉の〈存在〉について何事も語ることはできないであろう。ここに一つのイロニーが成り立つのである。実のところ、モンローもまた、拡散するマスイメージに対し、自己の〈存在〉を一方的に我有化し、一つの閉域に押し込めようとしていたことが、ここで暴露されるのである。この二重性の中で、遠藤はさらにモンローのイメージに介入し、その再複製を試みる。そこにはもはや誰もいない。私たちはただモンローの〈かたち〉と〈出会う〉のである。
遠藤麻衣『あなたに生身の人間として愛されたいの』(2016) パフォーマンス 写真/松尾宇人
カルチュラル・タイフーン2016 2016 年7 月2 日 東京藝術大学
MOT アニュアル 2016 キセイノセイキ 2016 年3 月5 日(土) – 5 月29 日(日) 東京都現代美術館
この事態を行為として示すのが、同じく遠藤の『アイ・アム・フェミニスト!』(2015)である。彼女が演じるフェミニストの〈表象〉は、実のところ、フェミニストの〈存在〉について何も指示してはいない。もし、フェミニストが真に〈存在〉するならば、それはいかにして示されるのか? 私たちは、フェミニストといかにして〈出会う〉ことができるのだろうか? 彼女の演じる構造化されたフェミニストの〈表象〉は、真のフェミニストに回帰することのない意味同化の産物である。それはすでに女性を表象化し、既存の文脈に位置づけることで、女性を概念的に確定しようとする支配的な記号体系によって意味づけられている。その同化の構造から逃れ出た〈前‐シニフィアン的記号体系〉という〈代償的な空間〉(*7)にこそ、〈存在〉との〈根源的〉な〈出会い〉があるのだ。遠藤はそのような意味同化からの逃走を「フェミニズム的逃走」と呼ぶ(*8)。この逃走のために自己の外側に立つあらゆる演技、すなわち〈偽装〉がぜひとも必要なのだ(*9)。これら〈偽装〉の総体、それこそが〈存在〉である。そして、それは『アイ・アム・ノット・フェミニスト!』(2017)において自己創造と自己否定というイロニー的循環に投げ込まれ、〈視せる遊戯〉としての〈演劇〉〔Schauspiel〕の性格を強めるのである。
ゆえに、〈表象〉の〈偽装〉を論理的に偽とするような真理観は〈根源的〉ではない。〈表象〉はついにその〈実体〉を表わすことはない。それはどこまでも〈仮象〉〔Schein〕なのである。ゆえに、仮象であるということが、そのまま〈存在〉の〈根源的な〉様態なのである。これはニーチェの真理観を継いだものだが、この立場からすると、〈自己表象〉とその外的表象としての身体が等値のものであるとの認識は、現瞬間に現前する意識においてしか成り立たぬものとなる。一般にそれは鏡像を介して行なわれるが、鏡像自体もまた〈表象〉なのである。私たちは私たち自身を直に見ているわけではない。ゆえに〈表象〉は対象となりえても、〈存在〉は対象とはなりえない。日常における自己認識はこのようにして〈存在〉とは別に行われる。私たちは対象となりえないものを補う自己の現前によって、現瞬間の〈自己表象〉を完成させるのである。一方、写真における自己の〈表象〉は現前する自己と対応関係をもたない(それは過去に撮られたものだからである)。それを端的に示すのが、ティルマンス(1968~、写真家)の偽装に満ちたインプライベートな作品群であろう。写真は私たちの現前を欺く。写真に写しとられた〈かたち〉は、私たちの事実確認を妨げ、〈判断〉を停止させる。すなわち、そこに写されたモノについての概念構築を不可能なものとするのだ。その性質が、ナルシシズムを可能にする。私たちはナルキッソスの泉よりもはるかに強力なナルシシズムの装置を手に入れた。現前する純粋意識と結びつけられた観念上の〈私〉が、自己外化によって超出された自己の外的な〈表象〉と〈出会う〉ことによって惹き起こされる動揺が、ナルシシスティックな自己分裂を誘発する。この分裂は、複製技術によって促進され、〈表象〉はアウラと引き換えに展示的価値を手にする。このようにして、人間は一個の見世物へと頽落する。複製された〈モノ〉としての身体は、私自身に回帰することのない〈代補〉〔supplément〕であり、一つの実在として、私自身の前に出現し、私たちの固有領域である自我を脅かす(*10)。そこに私たちの頽落への欲望と、〈表象〉の抗いがたい実在的魅力が生じるのである。このようにして、私たちは〈存在〉を日常から、つまり、現前と現瞬間から解き放つ。それは、〈存在〉の実体に到達することを意味しない。しかし、ここで〈仮象〉を通じて〈存在〉の逆方向の一面が〈露開〉〔Entbergung〕されるのである。頽落すること、実はそれは一つの〈偽装〉である。意味同化の構造において、あえて自己をマージナルな〈表象〉へと移し換えること。それが〈裸体化〉の欲望である。
〈裸体化〉された実在的身体は、日常の〈見慣れた〉身体に対し、〈エロティシズム的な身体〉としての存在様態をもつ。バタイユは、日常の諸条件に制約された愛と、エロティシズムにおいて無制限に遂行される愛とを区別して、後者にナルシシズム的な原理を仮設的に導入した。エロティシズムにおける愛の対象(愛される者)は、日常の属性を奪われ、愛する主体によって欲望のままに脱意味化〔自ら意味を構成できなくなる〕され、徹底的に〈視られる〉ことによって脱表象化〔自己表象を無効化される〕される。〈私〉の〈表象〉としての身体は〈意味〉を失って〈かたち〉へと還元されるのである。その地点において、たとえば、ある〈裸体〉が「〈芸術〉であるか〈ポルノ〉であるか」というような問いは、もはや意味をなさない。もし、〈芸術〉における〈存在〉との〈出会い〉が〈根源的〉なものであるならば、おそらくそれは徹底して〈芸術〉であり、かつ〈ポルノ〉なのだ(それらはともに〈視られる遊戯〉であり、実用性のない無用のものである)。
このように、私たちの日常的な〈配慮〉〔Besorgen〕(「何のために」と問う態度)から切り離されたところのものが、〈存在〉の〈本来性〉である。私たちの関心は、〈存在〉を意味づけようとする主体の側にあるのではない。〈解体〉〔Destruktion〕され、引き裂かれ、注察され、貶められる、もう一方の主体としての〈他者〉、対象としての〈モノ〉の側にある。その「〈モノ〉になる」という在りようの中にこそ(ハイデガーはそうは考えなかったかもしれないが)〈私〉が自らの〈存在〉に近づく手掛かりがある。〈哲学的ナルシシズム〉の遂行は、ある主体がエロティシズムの対象としてモノの側に転落する、その自己解体における心的過程の記述から開始される。私たちは、この貶められた実在にこそ魅力を感ずるのである。この自己解体の運動をその極点にまで押し進めるために、私たちは〈視るもの〉として主体化した〈他者〉を必要とするのである。ウーは言う。「私の自己の身体に関する感覚、まだはっきりとはわからないのですが、おそらく他者という存在は絶対必要な存在で、他者がいるからこそ行われている行為〔自己の身体を撮ることを指す〕ではあると思います」(*11)。〈他者〉に捉えられた自身の姿は、自らの手で写したセルフポートレートとは決定的に異なる、とウーは言う。それは〈他者を介したマノン・ウー〉と呼ばれる(*12)。〈他者〉は、自己をより〈表象〉化するための(つまりは、他者によって表象されることで自己表象を脱表象するための)、いわば〈偽装〉の手段なのである。「自撮りはわりと意識的に演技しないといけないところがあるけど、〔他者の撮る写真の場合は〕無意識的に演技ができる(…)。単に撮られることに集中できる」(*13)。〈自己表象〉の後景化と他者による自己の〈表象〉化が、彼女において彼女の〈存在〉を浮かび上がらせる。〈視られるもの〉は、〈視るもの〉を狡猾に魅惑する。かれは、〈視るもの〉を通してその内に〈変容〉〔Verwandlung〕した自己の姿を映し出す(それが〈表象〉だ)。そして、そのようにして描き出された自己を印画紙の上に定着したものが、ナルシシズムの産物としての〈写真〉である。この過程について、ボードリヤール(1929〜2007、社会学者・写真家)は次のように述べている。
(…)わたしたちは技術を介して世界を思うがままに支配していると信じている。しかし世界のほうこそが、技術を介してわたしたちにその存在を主張してくるのだ。この主客転倒は軽視すべからざる驚くべき効果を発揮する。
(…)あなたはある光景をただ気に入ったから撮影していると思っている。ところが、写真に撮られるのを望んだのは、実は光景の方なのだ。その光景が演出したのであり、あなたは単なる端役にすぎない。主体はただの要因にすぎず、結果として、皮肉にも事物を出現させるのだ。(…)このようにして世界や事物が繰り広げる巨大広告にとって、写真は最も重要な媒体なのだ。
(…)写真を撮る喜びは、むしろ写される対象の側にある。(*14)
たとえば、ブタは家畜となることで効率的に自らの数を増やすことができる。それと同じように、〈モノ〉は主体(この場合は撮影者)を利用して自らの〈表象〉を増幅しようと企んでいる、というわけだ。それはミーム的なイメージ(〈かたち〉)にとっては増殖のために好適な戦略である。一方で、ナルシシスティックなイメージの〈乗り物〉であるところの当の被写体は、その主体性を剥奪されたまま、実在に留まり続けることは(おそらくは)できない。ナルシシズムの遂行は、被写体が自らに抱く観念的なイメージの限界を打ち破り、ある〈衝撃〉的な様態をもって自身の像(イメージ、〈表象〉)と〈出会い〉、それに魅了(それは必ずしも美的で快いイメージとは限らない)されることによって初めて可能となる。それは、いわば私たちの実在的な身体が、私たちの観念的な想像力を凌駕したところに超出される〈ユートピア的身体〉(*15)のイメージである。私たちは、そのイメージを取り込むことによって、自己のアイデンティティを更新し、自らの〈意味〉を観念に再登録する。その運動を強化するために〈視るもの〉が呼び出されるのである。しかし、〈視るもの〉の視線によって完全に意味づけられた瞬間、かれは自らの意味をかれ自身によって構成する能力を喪失することになる。いわば、かれは〈表象〉の記号、従属物となるのである。マリリン・モンローの事例に見出されるのは、肯定的にであれ、否定的にであれ、注察され続けるということが、彼女自身の喪失と不在とを招き寄せるという逆説である。その究極の形態において、〈表象〉はもはや何ものをも〈表象〉しない。そこに虚ろな記号的強度が生まれるのである。
このような〈私〉とその複製としての〈表象〉という一対の記号関係における対称性の崩壊(記号関係のくずれ)は、自己愛型社会における特徴的なコミュニケーション・ツールであるSNSでしばしば深刻な問題を惹き起こす。たとえば、SNS上にアップされたかれらの写真は、イメージの主であるかれら自身のコミュニケーションのために用いられているかのように見えるが、実のところ、それは違っている。それは当人の不在の上に成り立つ一つの虚構である。それらの写真がナルシシシスティックに形成されたものであればあるほど、被写体そのものの現前性は後退する。これは芸術作品にもあてはまる。純粋に作品そのものと向き合う時、皮肉にも作者と見者の交流は断ち切られ、見者はある衝撃的な様態において作品と〈出会う〉ことになる。交わるのは作者と見者ではない。第一に立ち現れるのは、作品そのものなのだ。ここにおいて、作者は自己と作品との関係をも解体していくことになる。かつて、越ちひろ(1980~、美術家)自己の作風を確立する契機となった作品『Birthday』(2004)に至る過程について、このように述べている。
『Birthday』より以前は、響きのよい言葉から絵を発想していました。言葉を物語化して、自分の中でストーリーを作っていた。(…)作品をいかに日常化するかを考えていた。今思うと、絵が他人と交わらなくなった。独りよがりになっていた。ある程度、感情を抜く。もっと意味がないもの。モチーフに対して感情移入しなくなったところはある。形の面白さ、視覚的なもの——そのもの本来の意味は必要とせず、形の面白さだけを追う。(…)今に続く「意味のなさ」。(*16)
越ちひろ『Birthday』(2004) キャンヴァスに油彩、水彩 130.5×194cm
意味同化を拒む、作品のこの存在様態は、存在論的に〈根源的な〉ものである。それは〈理論的な〉存在把握の様態と対立するものである。〈理論的な〉仕方において、〈真理〉とは、(とりわけ論理実証主義においては)ある言明の内容が、その指し示す現在の事実と完全に一致すること(陳述の正当性〔Richtigkeit〕、確実性〔Gewißheit〕)を指す。そのためには、記号内容と記号表現が対となった完全な言語の体系が用意されていなくてはならない。ゆえに、そこで扱われる〈意味〉は常に明晰なものである。このような概念把握の仕方は、自然科学においては定量的、哲学においては論理的な形態をとる。この〈理論的な〉やり方は、より厳密には現前するものを対象とするため、現在に特化した存在把握の様態であるということができる。これをディルタイ(1833~1911、哲学者)は〈説明〉と呼んだ。
一方、ハイデガーが〈根源的〉というとき、人間をとりまく事物の〈意味〉は、より曖昧に、しかし全体的な了解によって把握されるものとなる。定量化も概念化もできないが、事実としてあるもの、それが〈経験〉である。日常的なものごとの在りようを、私たちはあるまとまりのある事態として〈了解〉する。それは事物の単なる羅列ではない。そこにあるのは道具的な意味連関から理解される日常的な環境世界である。私たちは、私たちをとりまく〈手許のもの〉〔Zuhandenes〕が、私たちとどうかかわるのか、何を意味しているのか、何のためにあるのかということを、ほとんど既成事実的に了解する。しかし、あくまで有用な目的から事物を指向しようとする態度は、〈存在〉そのもののあらわれ(これは〈私〉によって意味づけられない、いわば〈存在〉の自己忘却〔忘我、Außersichsein〕的なあらわれを意味する)を了解する、より〈根源的な〉姿勢であるとはいえない。道具的世界において、私たちは、〈存在〉を〈理論的な〉仕方ほどではないにしても、ある限定的な仕方で取り扱おうとする。有用に生きるという社会上の要請から、私たちは〈配慮〉を通じて、いわばプラグマティックな仕方で〈存在〉と〈出会う〉のである。このように、世間や日常というものによって構造化された人間の在り方を、ハイデガーは〈非本来的〉と呼んだ。
この論法を進めていくと、〈根源的〉〈本来的〉な領域に残されるのは、消去法的にいって〈明晰に語りえないもの〉〈意味づけのできないもの〉〈漠然としか了解できないもの〉〈配慮されないもの〉ということになるだろう。それは制御可能な理論的、日常的な領域に対立するところのものである。そのような存在の在りようが、人工的に構成された〈意味〉に回収されないとすれば、それは固有発生的〔eigenwüchsig〕に形成された〈ただありのままに在るナニか〉としての〈モノそのもの〉の姿であるといえるだろう。このように見ると、ハイデガーの存在論は、「感性の学」としての美学〔aesthetica〕を創始したバウムガルテン(1714~1762、思想家)が、〈美〉の価値を可知的、論証的な認識の領域から切り離し、可感的、非論証的な領域に求めたのとよく似ている。ただ私たちは、こんにちの〈芸術〉がもはや〈美〉や〈感性〉と直接関わらずに成立することを知っている。この論証的性格をもたない〈存在〉の〈根源的〉な姿を、ハイデガーにならって〈不気味で途方もないもの〉〔un-geheuer〕と呼ぶことにする。
もっとも、〈不気味で途方もないもの〉を〈本来的〉〈根源的〉という本質規定をなすかのような術語を用いて記述するのはいかがなものかという疑問がないわけでもない。本質規定から説き起こされるのは論理における存在の記述である。しかるにハイデガーは、〈説明〉不可能な、もっとも薄暗く曖昧な領域を、いわばヌル(Null)を、現前する明晰な領域に代えて哲学の主題に据えてしまったのである。〈芸術〉とは、いわばそのあたりにかかわってくる〈ナニか〉である。そのような存在様態をもつものは、一つの〈衝撃〉〔Stoß〕を伴って、私たちの前にあらわれる、といわれる。存在論的に〈出会う〉ということは、いわば「間違って出会う」ということに他ならない。暗い山道で、不意に道が開け、そこで黒いナニモノかと出くわして、何が起きたかわからずにしばし呆然となる、あの出会い方である。それが熊なのか人なのか、それはその後の〈判断〉の問題だ。裏を返せば、そのような〈出会い〉方を私たちに強いる作品こそが、存在論的な意味での芸術作品なのである。そうした存在の様態を、ハイデガーにならって存在の〈空け開け〉〔Lichtung〕と呼ぶことにする。
対象を認識するためにこちらからモノに意味を投げかけ、それが何であるかを限定するのは〈理論的〉である。その逆の被投性〔Geworfenheit〕というものが存在把握のもっとも根源的な様態であるとするならば、その極点で、私たちは、自ら意味を構成できなくなるということに気づく。いわば、意味連関を奪われたところに反対方向の意味(それを私はマイナスの意味(*17)と呼ぶ)が浮かび上がるのだ。ガダマー(1900~2002、哲学者)は、ここに芸術作品の存在経験について特殊な意味を見いだしたようである。芸術体験は〈純粋な意味統合〉〔Shin integration〕を構成しない。それは意思疎通の一段階ですらない。作品は意味を伝える〈運搬具〉ではないのである(*18)。そこで私たちは〈負の意味〉の押しつけという暴力的な仕方で作品存在と出会う。それが何を意味しているのか、私たちは概念的に把握することはできない。「作品を見る者1人1人が発見するもの、それが意味だ」(*19)といった人がいるが、ハイデガーによると、おそらくそうではない。それは概念把握的な〈判断〉の結果であり、そのようにして見出された意味は、存在論的な〈出会い〉を矮小化してしまうに違いない。しかし、この〈出会い〉において〈存在〉の意味が構成されえないからこそ、〈表象〉は私たちを〈欺く〉。〈存在〉が何であるかを問うことによって、私たちは一つの罠に陥れられる。ヴィトゲンシュタイン(1889~1951、哲学者)であればこう言うであろう。「問いがなりたつのは、答えがなりたつときにかぎり、答えがなりたつときは、なにごとかを語りうるときにかぎる」(『論考』6・51)(*20)と。〈存在〉の暴力的な〈開け〉において、それは、確かに開かれていながら、同時に拒むという二重の性格をもっている。しかしこれは、ある実在が意味を欠くというよりは、私たち自身の意味が不明なものとなっているように見える。〈存在〉は、このように〈偽装〉する。しかし、この基本的性格のうちに〈存在〉はその〈輝き〉〔Scheinen〕(Scheinは実体に対する仮象。仮象それ自体が現に存在するものに対し開示された真理と不可分の形で属する)を発揮する、といわれるのである。
このように、存在の〈空け開け〉、ないし〈露開〉は、〈視るもの〉と〈視られるもの〉の間に確かに当初の〈衝撃〉を打ち立てる。しかし、それは長くは続かない。あとに残されるのは〈かたち〉(〈表象〉)、それだけである。視るものと視られるものは、〈かたち〉(それは〈視られたもの〉である)を挟んで対峙し、やがて視るものは、〈判断〉を介して、その〈衝撃〉を道具論的な日常の文脈に位置づけ、同化しようとするだろうし、視られるものは、そのようにして平均化された自らのイメージを奪い返そうと、再び自らの存在を〈露開〉させる絶望的な試みに打って出ることになる。このような〈出会い〉方をすることによってナニか(それは〈表象〉と呼ばれる)を生み出そうとする、その種の芸術が存在するとしたら、それは、意味に自らを明け渡そうとする、自己の虚無的な(すなわちナルシシスティックな)欲望から力を得ているように思われる(それは忘我的に行われる。ゆえに〈私〉はそれを望んですらいないのかもしれない)。そのような芸術として、私たちは〈演劇〉を考えることができる。自らを空〔vide、虚無〕にしてナニかを招き入れること。そして、それが視られることを前提としていること。そのもっとも知られたものが、キリストの受難という一幕の悲劇であった。この〈供犠〉的な性格こそが、「残虐の実践としての」芸術をおぞましいものに仕立て上げるのだ。ナルシシスティックな自己破壊、自己犠牲——それが私たちの「幸福な瞬間を死と同列に置く」(*21)のである。
自らの〈存在〉の〈開け〉を通じて、存在をイメージへと移し換え、自らを不在化しようとする〈死の欲望〉は、演劇的な〈偽装〉をもって表現される。写真に写しとられた被写体のイメージが、ある〈偽装〉のもとに、あるいは、〈偽装〉のゆえに輝きを放つのは、まったく奇妙な事実である。それがより〈衝撃〉的に立ち現れる時、それはまったく被写体の自己を意味することはない。それは有用性に位置づけられることがないという意味で無用のものであり、労働破壊的であるという意味で〈遊戯〉的である。にもかかわらず、合理的な意味をなすことのないそれが、〈視せる〉ことを前提にして行われるならば、それは紛れもなく〈芸術〉的なのものである。かつてそれらは祝祭的に、すなわち刹那的なものとして取り扱われていたが、今日のそれは、必ずしも日常と明確に線引きされるものではない。インターネット上に散乱する〈裸体〉は、永続化する祝祭の供犠である。しかし、そこでなされる〈解釈〉において、私たちは〈存在〉の〈偽装〉に欺かれる。私たちは何ものにも出会ってはいない、というコンドーム的な事実にまず気づくべきである。
超複製化されたインターネット空間における〈日常の芸術化〉というべき事態においては、かつてベンヤミンが写真という複製的な媒体の中にかろうじてアウラの残り香を嗅ぎ取った個人の顔貌さえも、意図的な変形を加えられ、もはや誰のものかもわからないほどの〈変容〉を遂げる。SNOW(顔認識カメラアプリ)、コスプレ、仮面、演技——これらの〈偽装〉によって、いかなる〈存在〉が〈空け開〉かれるのか、そして、この〈擬装〉は、構造化されることのないミクロ政治的な代償的空間(たとえば、フーコーの〈反場所〉〔contre-espaces〕としての〈ヘテロトピア〉〔hétéro-topies、異在郷)を〈空け開〉くのであろうか? であるとすれば、〈哲学的ナルシシズム〉の実践としての芸術は、構造化された日常を打ち倒す役割を果たす。それは、ナルシシズムのミクロ政治的な遂行のための一つの〈偽装〉なのだ。
〈『存在と偽装〜超複製技術時代の芸術作品』②へと続く〉
(*1)和田秀樹『〈自己愛の構造〉「他者を失った若者たち」』講談社、1999年、5~11頁。
(*2)ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」『澁澤龍彦翻訳全集13』澁澤龍彦訳、河出書房新社、1997年、28 頁。
(*3)マノン・ウー、インタビュー、2017年7月25日。
(*4)アンリ・フォシヨン『改訳 形の生命』杉本秀太郎訳、平凡社、2009年、15-17頁。また、服部『存在の恐怖——人間を棄却する快楽』「第二版によせる序文」(2016)参照。
(*5)遠藤麻衣、web。http://maiendo.net/iwannabelovedbyyou.html
(*6)遠藤、同上。
(*7)フェリックス・ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』杉村昌昭訳、青土社、2014年、29~31頁。
(*8)遠藤『アイ・アム・フェミニスト!』「解題」、2015年、web。http://maiendo.net/iamfeminist.html
(*9)福住廉「遠藤麻衣 SOLO SHOW「アイ・アム・フェニミスト!」」(『artscapeレビュー』2015年3月27日記事、web)を参照せよ。http://artscape.jp/report/review/10111048_1735.html
(*10)詳しくは、服部「コーラ講義」(『ブランチング19』所収、2016年)参照。
(*11)ウー、インタビュー、2017年8月7日。
(*12)ウー、インタビュー、2017年8月27日。
(*13)ウー、インタビュー、2017年8月7日。
(*14)ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』梅宮典子訳、PARCO出版、1997年、6~8頁。もっとも、ボードリヤールは、主体的意識をもった〈人間〉は十分にモノ化されないとして、フォトジェニックな対象ではないと考えた。理屈の上ではその通りである。人間には〈配慮〉が働くため、〈モノ〉にはなりきれないのである。
(*15)ミシェル・フーコーの用語。詳しくはフーコー『ユートピア的身体/ヘテロトピア』(佐藤嘉幸訳、水声社、2013年)を参照。
(*16)越ちひろ、インタビュー、2012年12月4日。
(*17)以下を参照せよ。服部『〈存在〉の恐怖——〈人間〉を棄却する快楽』「第二版に寄せる序文」(2016)、服部「貞子講義」(『ブランチング』18所収)(2016)。
(*18)ハンス・ゲオルク・ガーダマー『ガーダマーとの対話——解釈学・美学・実践哲学』カルステン・ドゥット編、巻田悦郎訳、未來社、1995年、63~65頁。
(*19)トニー・ゴドフリー『コンセプチュアル・アート』木幡和枝訳、岩波書店、2001年、8~9頁。
(*20)ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』藤本隆志・坂井秀寿訳、法政大学出版局、1968年、198頁。
(*21)バタイユ「芸術——残虐の実践としての」(『純然たる幸福』所収)酒井健訳、人文書院、1994年、63~73頁。
服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14
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