タイトル: 祈り花 素材:コンクリート塊 鉄塊 桜の花弁 石 植物の茎 場所:長野県松本市大手 行為:内面世界インスタレーション
文・画像作品 / 北澤一伯
悪の為し手には、悪の意識は無いという。
綺麗な言葉を語りながら微笑む。本当の悪意たち。
美術とは、彼等の持つ綺麗な林檎を毒林檎だと見抜く術のことだ。
観るということが、単独者の鍛錬であるという鉄則の中の鉄則を胸に刻むことなのだ。
およそ、二十年ほど前の初夏。バリ島の北海岸シンガラジャの東に位置している漁村テジャクラで、まだ、はじまったばかりの全体像の見えない土地事件への不安と、対人関係から派生した出口のない問題をかかえながら,古井戸修復という行為に重点をおいた作品を制作していた時のこと。
海辺に面した宿舎のコテージで、真夜中に目を覚ますと、かすかに歌声が聞こえた。それは、高めではあるけれどおだやかな笛の音のような旋律の歌で、海とは逆の椰子林のはずれの森のほうから流れてくるのだった。展示企画にかかわっているタッフの誰かが歌ってだろうかと訝ったが、思い当たる人はいなかった。
「!」
どうしてか判らずに、しかしその時、それは森の精霊の祈り歌だという想いが、私に生まれた。椰子の樹を囲む暗黒の森のガジュマルの巨木の下に、ほっこりと薄明るい場所があって、その根の辺りに念のようなものたちが、磁力に似た力で寄り集まり、ある思いを歌にして歌っているのだという気分になった。そして、私は、ある物語の断片を思い出しながら、大きな送風の羽がゆっくり廻る天井を見上げていた。
目を向けると、小さな花があった。そんな花はみたこともなかった。優雅で,心やすまる形、その色、古くてなお新しい世界を思いださせるその香り、そういったものが私の心に目覚めさせた感覚は、以前に感じたこともないものだった。
わたしに言えるのは、それがアネモネに似ていて、淡い薔薇色を帯び、黄金色の花芯をもっている、ということぐらいだった。
「あれは祈り花だよ」と、大鴉は言った。
「そんな花は見たことはありません」と、わたしは返事した。
「そうさ、ほかにこんな花はない。祈り花は一本ずつがぜんぶ違っているんだからね」
「どうしてそれが祈り花だって分かるんです?」とわたし。
「その表情でさ」と、かれが答えた。
「うまく口に出せないけれど。それがきみにも分かれば、ちゃんと納得するよ。それがだめなら、どう言っても分かりゃしないさ」
「祈り花を見分ける方法は、教えられないというんですね」とわたし。
「教えられっこないな。仮に教えられたとしても、きみにとってそれがなにになる? 自分では・・・それだけでは、なにも分からないじゃないか! 何のことやら分からないものを、名前だけ教えてもらったって仕方ないだろ? きみの目を開くのは、だれの仕事でもない、きみ自身の仕事じゃないのか? けどな、本当を言うと、君みたいな連中を見つけて、自分自身のことを考えさせるのが、宇宙の仕事なんだ。 そうやって、みんな賢くなりはじめるんだよ」(ジョージ・マクドナルド『リリス』荒俣宏訳 ちくま文庫p55)
「祈り花」を見分ける方法とは、自分自身のことを考える仕事をすることだと物語の中で大鴉は言う。修復不能に思われた心で,崩落した井戸の底から玉石を拾いあげては円筒状に積み上げる行為は、大鴉の言い方に共鳴する仕事なのだろうか。奇妙に気持ちが尖りはじめた夜だった。歌声はもう聞こえない。
椰子の林の暗闇に人の眼差しを感じる。村人が私を見ているのだ。目が合うと、林の中から男が出てきて、「この村の人はこの井戸水を産湯にした」と言う。私はどうやら産湯の井戸を修復する仕事をしていると教えられている。簡単な会話をして帰っていく男の後ろ姿。それを見送る私自身。
重労働の古井戸の周辺が私の再誕の場所に観えてくる。私は、仕事にともなう畏怖の念と慰謝する心を実感する。
「祈り花」を観るとは、あらゆる出来事や状況の意識されていない背景を感知し、それによって物事をその溌溂(はつらつ)性において、あるがままに理解することである。
近代以降の法律の概念では、悪の為し手が、悪を為すには悪の意図があるということが前提になっているそうだ。現在、悪の為し手に悪の意識はなく、多数者の側に立ち、綺麗な言葉で、くり返し綺麗な言説を語り、虚構の自己肯定を重ねている。彼等の脱法的悪意の設計図。彼等特有の毒素は、彼等を腐敗に執着させるだけでなく、美術との差異を明確にし、まさに溌溂性を排除していく。
今まで通り、目を開いて制作し仕事に関わるしかあるまい。しかし、これからは、単独者の目配せの動作すら不正義の意味を持つのだろう。多方向にわたる、抵抗としての観る思考の仕事をすることが、要請されるのだと思う。
北澤一伯 Kazunori Kitazawa
1949年長野県伊那市生れ
発表歴
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。
80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。
94年以後2008年12月までの約14年間、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』連作を制作。同期間、長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」〜』連作「残侠の家」を制作。
その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作として1998年下伊那郡高森町「本島甲子男邸36時間プロジェクト」がある。地域美術界に対する新解釈として「いばるな物語」連作。
戦後の都市近郊における農業事情を読む「植林空間」。
また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。2009年9月第1回所沢ビエンナーレ美術展引込線(所沢)
4th街かど美術館2009アート@つちざわ土澤(岩手県花巻市)
2012年6月「池上晃事件補遺No5 刺客の風景」(長野県伊那北高校薫ヶ丘会館)
7月「くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる 固有時と固有地」 連作No7(長野市松代大本営地下壕跡)
2015年Nine Dragon Heads(韓国)のメンバー企画として第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて展示。
同年7月、Nine Dragon Headsに参加。韓国水原市にVoid house(なにもない家)を制作した。
2016年6月「いばるな物語」連作の現場制作。 伊那北高校薫ケ丘会館
2016年10月個展 「 段丘地 四徳 折草 平鈴」 アンフォルメル中川村美術館(長野県上伊那郡中川村)
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