文・画像 / ごとうなみ
円錐のコーヒーフィルターを切らしていた。出かけついでに買おうと思っているのに出かけている間は一向に思い出さず、朝コーヒーを入れようとする時にいつも「ああ、そうだ」と思い出すのだから、ようやく諦めて近くのコンビニへ行き、代用のフィルターを購入し、十数年来愛用している陶芸家阿久津真希のワイヤーワークにフィルターをセットする。朝、コーヒーを淹れることはほぼ無意識の所作であるから、それに抗わぬよう、つまりフィルターの耳の部分をひっくり返して二度折る動作が寝ぼけていても行えるよう、セットする向きは意外と重要なんだなと、手まどう日々を過ごしてようやく今朝クルッとひっくり返した。いつものようにコーヒーを淹れ、そのまま今日は何気なく「北のカナリアたち」という映画を観た。それはひどく不幸が連鎖する内容で見終えた時にはやるせない気持ちになった。人間性の善悪に関係なく、負は負から生まれる。そういう提示の映画だった。苦しい境遇に生まれた主人公は、自分の親への愛情を握りしめて自分を我慢する。普通なら幼い子どもが当たり前のように発する自分勝手な感情や行動も心にぎゅっと蓋をして、優しさと責任感ゆえに自分をとことん抑圧する。けれどいつしか善意な抑圧の日々が圧迫によって怒りへと変わり、その怒りは自分へと向かい、まるで自分はこうあるしかないのだという錯覚にすり替わり、大人になる少年の心を不安や罪悪で浸透させていく。彼にとっては愛である行為が、現実をジリジリと歪めていく。誰が見ても理不尽な状況にも彼は愛で臨んでいるのに、なぜかうまくいかない。いつもやるせない。自分を慰めてもどこか埋まらない。何かがおかしい。何が彼の現実をそうさせていったのか。腑に落ちない結果となって結ばれた映画のラストに、私は自分の現実をだぶらせたのだろうか。この後味の悪さは、耳の中奥に見えている耳垢を見ながら一呼吸おいて挑みにかかるような、もう少しで手に入りそうな予感じみた気配で私から離れなかった。
誰しも赤子は一糸まとわぬ姿で、圧倒的に弱い姿で生まれてくる。小さな新しい生命は自らの命を守ってもらうことと引き換えに、生まれ落ちた血縁の慣習を受け入れる。親を真っ向から愛し信頼することが自明の理と、赤子の魂は自覚している。持って生まれた叡智と、親の愛を得ることつまり自分の生命の維持を確保することが赤子そのものなのだ。しかし誰もが生まれ際に持参したこの叡智は、知覚や感情が急速に発達する幼児期から児童期にかけて、家庭や社会に適応するための日々の学習に紛れ、親や養育者から伝えられる言葉や躾、また置かれた環境によって起こる様々な出来事や体験にまみれ、だんだんに記憶の底へ埋もれていく。生まれてから児童期を跨ぐ十数年間に一番多く使われた脳内の情報伝達経路が、その後その人間の主要な思考経路となるという説も心理学の分野であり、謂わばこの十数年間の感情を伴う体験から得た思考癖で、その後の人生が連鎖していくわけだ。その思考癖が本人にとっていい作用を及ぼすなら何ら問題はないけれど、もしそれで何かうまく回らないのなら、この思考癖を一旦手のひらに取り出して、過去に巻き戻したり多角的に見つめ直したりして、現在を解体することもできる。
負はおよそ次のように定義されている。「担う。負い目を持つ。被る。負ける。背く。0より低い数」。心理学では「不安、恐れ、焦り、拗ね、泣き言、心配」などの言葉がその概念に当てられている。私がこれら負の定義を理解したとき、心はショックを受けた。母が私に躾けてきた言葉がけは心配という根を持っていたことを子ども心に分かっていたけれど、それは母が背負う負から派生しているなどと思ってもみなかったし、毎夜枕を濡らした私の寝入りは、望んでもいないのに私の潜在意識に永久に続く悲しみを刷り込んでいたのだ。小さい私は、いずれ太陽が昇るように大人になれば自然と私の暗闇も明けていくんだと思っていたけれど、悲しみの羊水に培養された私の思考癖は、ずっと夜明けを待ち望む私のまま、現実を変えない。思考と心と現実はいつも巧みに関連しながらループして、意識では望む理想の世界から、何故かなぜか私を遠ざける。私がこれを諦めて受け入れれば多分このまま人生は終わるだろう。それを一生と呼ぶならそれでいい。けれど私は、私の知らないもう片方の世界も生きたい。だから私は心眼でこの連鎖と因果の解体に手を伸ばし、世界の反転を求めてきた。
宇宙はきっといたってシンプルだ。私が今朝コーヒーフィルターをくるっとひっくり返したように。物事の流れを把握して、抗わないようにすればいい。私たちが生まれながらに持参していつの間にか埋もれてしまった叡智を掘り起こして味方につければ、過去からの思考癖を意識して変えられる。負は負から生まれるのだから正は正から、楽は楽から、喜は喜から怒は怒から。今まではというこだわりや、これからはという照れなど捨てて、私の足先ごとクルッと望む方へ向き直って終えばいい。そこからもう一つの世界が始まるのだから。そんなことを、映画を見終えた午後に、作りかけのブランケットを編みながら考えていた。私の膝の上には、時折耳をピクンと震わせながら丸くなって眠る猫がいる。
そういえば昨日、苦手な人と話さなければならない仕事が決まり胸がざわついた。ざわつきの正体は自分の劣等感だったけれど、咄嗟の感情の処理が縺れてそのまま放置した。すると次々ととりとめの無い思考が雪でも降るかにしばらく私の頭の中を占領して、放置した劣等感は蒸発も溶解もせず私の心の中の蟻地獄にゆっくりと落ちたまま、時と共に黙り込んだ。砂のような無数の思考に紛れてしまったこの感情を拾い損ねて、時間が経った。あてもなく埋もれワタシに気づいてもらえないことにしびれを切らしたこの感情は、私の無意識を操作して、このいたたまれなさを発散しようと脳へ行動を指示し始める。私は自分の思考癖を観察をするようになって以来、自分のネガティブな感情がどんな経過をたどってどんな行動へ変化するのか、そのサイクルを少しだけ自覚できるようになった。私の場合これら発散の多くは、夕時の焦燥感と重なり、不安はだいたい過剰な食へと化けていく。食べることで気を紛らわそうとする。昨日の胸のざわつきもこれらの経緯を辿ってジャンクフードを誘って食卓へ現れた。が、私はこれを許してみた。「好きなだけ思う存分食べてやろう」労うように言葉を浮かべて、その通りにした。すると今朝たんまりと便が出た。その単純さにびっくりして思わず両手を合わせて笑ってしまった。初めての爽快感だった。まるで単純な、トンネルのようなこの身体。今まで気持ち良く感情も出すことができなかったのは、暴食を許せない自分の罪悪感も一緒に食べてしまったせいかもしれない。そう思うと途端に気持ちが楽になって、そうだ、毒には毒を盛って糞にして流せばいいと、ひとつ循環をつくれたことを素直に喜んだ。こうして一つ一つ新しい循環を明るくつくっていく。昨日依頼された仕事も、苦手意識を忘れるくらい準備万端にして挑もうと、前向きに思い直しながら私は今朝コーヒーを淹れていた。
ごとうなみ Nami Goto
1969生まれ 美術家 長野市在住
namigoto.com
ggごとう画室主宰
gotogashitsu.com
今後の予定:
「Nagano Art File アートとマーケット」2017年6月10日~6月24日@FLAT FILE SLASH LOUNGE GALLERY(長野県長野市)
「ちいさなアート展2017Nagano」2017年7月7~7月11日@ギャラリー松真館(長野県長野市松代町)
「ちいさなアート展2017New York」2017年10月26~10月29日/11月4日~11月5日@Studio 34 Gallery(New York)
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