小林冴子と崩壊する風景<Ⅱ>〜哲学・美学におけるナルシシズムとオナニズム~

文/服部洋介 写真/小林冴子・服部洋介

     あの花に変身したナルキッソスこそ、絵画の発明者であった(…)。絵画がすべての芸術の花であるとすれば、ナルキッソスの物語こそ、そっくりそのまま、これにあてはまるのである。絵画を、泉の水面に映ったものと同様に、芸術的なものでないとどうしていうことが出来ようか。
    (アルベルティ『絵画論』第二巻)(*1)

 かつてナルシシズムが絵画を生み出した、という議論が流行したことがあった。コスタンティーニ(イタリアのジャーナリスト)は、バルテュスとの対談をまとめた著作の中で、近年(90年代を指す)、ナルキッソスを絵画の発明者とするアルベルティの『絵画論』を引用する風潮があるというようなことを述べている(*2)。
 自らを愛の対象と見なすナルシシズムは、他者との関りにおいてなにものをも生み出すことのない不毛なセクシュアリティの一形態である。しかし、断っておきたいのは、私がここで〈哲学的ナルシシズム〉という場合、心理学的ないし病理学的ナルシシズム(すなわち自己愛性人格障害〔Narcissistic personality disorder 〕)についていうのではない、ということである。たとえば、人格類型論の立場からすれば、ナルシシズム的性格においては、対象は実在性を失い、認識から排除され、主体は関心の対象として自分自身を窃視願望的に措定するのであるが、ここでは他者は主体の都合次第で軽んじられ、あるいは理想化され、まったく観念的に取り扱われるだけの記号として一方的に我有化されることになる。一方で、健全な人格にあっては、対象は善ないし悪の一方に還元されることなく、その両面をあわせもつ真正の実在として適正に取り扱われるという。つまり、彼は対象を正しく認識していると見なされるのであるが、哲学的ナルシシズムにおいては「対象を正しく認識する」という発想自体がまず疑われなくてはならないのである。反対に、彼にあって完全に認識し、理解される対象、いわば彼の主観の延長線上にある何事かについては、彼はそれを意のままにしうるということができよう。もし彼が、他者までをも自我の内にあるものとして扱うならば、それはラッセルがフィヒテの唯我的な観念論について非難したような理屈において(*3)、一種の権力哲学となるであろう。
 哲学的ナルシシズムの見方を徹底すれば、そもそもからして他者というものはどうにもならない実在であり、さらには主体の同一性もまたイロニー的に解体され、彼自身もまた制御不能な実在の側へと転落するという、いわば自己中心性の崩壊というべき逆説的な事態が理解されるのである。たとえば、フーコーはモントリオールでのニーチェ講義において、ニーチェがコギトのような純粋意識を拒絶していたことを示して言う。あらゆる哲学は、認識を主体と客体とのあらかじめの関係としてとらえ、主体と客体をできるだけ近づけようとする。コギトの純粋形式において、あるいは感覚の最小形態において、あるいはA=Aというトートロジーにおいて、と。これに対し、ニーチェは主客を最大限に引き離し、互いに隔たり、錯覚によってしか混同されえないような生産物と見なすことで認識を説明したというのである(*4)。ここにおいて、「我思うゆえに我あり」の最初の「我」と二番目の「我」にわずかながら間隙が生じるのである。この溝を極大化し、親密さよりは疎遠さによって事物の関係を説明しようとしたのがニーチェであった。われわれによって観念化されることのないあらゆる実在は、その意味で〈モノ〉と呼ばれる。一方で、われわれの観念の支配下に置かれ、意のままに動かすことのできる事どももまた〈モノ〉と呼ばれる(人をモノのように扱う、とはこの意味である)。いずれの〈モノ〉もまず対象として私の外部にあらわれることで〈モノ〉としての性質を帯びる。ゆえに、ナルシシズムが成り立つためには、私自身が〈モノ〉として世界のうちにあらわれ、実在の側へと失墜し、「我」によって視られ(窃視され)、認識され、観念化され、記号化されうる対象(第二の意味での〈モノ〉)となることが不可欠なのだ。同時にそれは、自らのうちに予想を超えた何かを見出すという意味でおどろきに満ちた体験となるであろう。実在としての対象(第一の意味での〈モノ〉)には、主体の理解を超えた魅惑が備わっている。それは主体において期待される意味や有用性を裏切る畏怖や無意味性としてコーラ的性格をまとうのである(*5)。
 さて、今日なお絵画には何らかの神秘(コーラ性)が宿ると信じられている。絵画はわれわれの視線に対し微笑み返すことはない。それは「見られたり認識されたりするためにあるのではな」く、「我々の方に、我々にとって理解可能な顔を向けて、我々を見やり、我々の視線がそれと交差するのを待っているわけではない」(*6)のである。それは実在の外形そのものの剥き出しの姿としてのストレートな対象としてであれ、作品の中で歪められ、理解不能なものとなったナニモノかの外形という意味であれ、同じである。どちらにしても、それは人間的な視覚を超えたものである。それらは動きを喪失しているという点では死体に近い。しかし、写真がまさに実在を実在として、すなわち主観の作用を受けないモノとして機械的、自動的に写しとるのに対し、絵画は描き込みをくりかえすことで実在としての作品の外形を、画家の内的な観念に接近させる過度に主観的な性格を帯びている。このようなレタッチの効果をボードリヤールは「おぞましいほどに美的性格をまとっている」(*7)と表現する。絵画の模倣といわれたピクトリアリスムの写真は、このような意味でストレート写真と区別される。それは、モノから逸脱した作り物の世界ではあるが、この逸脱は、ロマン主義的ないし自然主義的な意味においていかにも人間然としており、スタジオ内に壮大な自然の景色や田園風景をこしらえて、その前でポーズをとるという、大衆がいかにも喜びそうな写真の流儀として存在しえたのである。
 たしかに絵画は観念的なものである。画家は自分が納得するまで画布上に構成された景色に筆を入れ、意のままの姿に固定することができる。かといって絵画は、作者のアイディアに従属する単なる記号というわけでもまたない。画家もまた画布の上にあらわれた視覚像に影響され、結果、作品が作者のイメージを書き換えるということがしばしば起こるのである。よく人は、自分がイメージした通りの絵を描けるようになりたいと考えるが、反対に「描かれた絵のようにイメージできるようになりたい」ということもできるのである。記号学的な美学に即していえば、これはオリジナル(主体)の没落というべき事態である。
 ここに一つの例を挙げよう。ある画家がよく「山田かまちのようになりたい」と言っていた。曰く「かまちの絵は無意識がそのままニュルンと出たもの」(*8)だというのである。おおむねこの意味に当たるのは「膣が陰茎をつかむように、心で物をつかみたい」(*9)というデュシャンの言葉であろう。無意識というものがあるとしたら、それは第一の意味での〈モノ〉である。われわれがそれを心として認識するところの可知的な意識内容というものは、客体であるモノ自体の把握にはまったく適していない。観念論に即していえば、主体の主観であるところの自我を介して認識可能なものはすべて自我の産物であり、自我によって捉えられないものこそが真に実在(客体)なのである。無意識とは、文字通り意識できないナニかであって、それが意識の領域に統合されない限りは、実在の領域に属するものである。実のところ、実在についてありのままに認識するなどということは言葉の矛盾であって、主観の意志によってモノを強引に観念の圏内に従属させることにほかならない。
 ところで、芸術が、われわれが完全には知りえない何かを、われわれの個人的な自我を超えた絶対的な何かを特殊な個物としての作品のうちに表現したものであるという考え方は、観念論の昔から存在した。今日、そうした芸術の無限性について語る場合、かつての絶対者(神)〔the Absolute〕という概念に代わって、意味という概念からこれを説明する立場があらわれてきたことは重要視されてよい。たとえばガダマーなら、意味の終わりに達することのない「大きさ」〔Volume〕という概念をこれに充てるだろう(*10)。作品〔Werk〕はプランに沿って作られる構成物ではない。それ自身の内側から形態化される形成物〔Gebide〕なのである(*11)。したがって、絶対的なるものと同様、限りあるものとしての人間には、芸術作品のもつ無尽蔵の意味を読み解くことはできないのである。ガダマーにとって芸術作品とは、意味を伝え終わったならばそこで捨てられる新聞記事のようなものではなく(*12)、他に代替不可能なものと信じられているのである。
 くりかえしになるが、われわれ自身の内部にも理解不可能な実在(モノ)としての無意識が潜んでいる、という考え方がある。われわれの内なる実在を可知的な世界に引っ張り出したいという強烈な欲望のゆえに、20世紀前半の芸術においては、この無意識という概念がずいぶんともてはやされた。フロイトはシャルコーやエリファス・レヴィと並んでシュルレアリスムの教祖というべき一人であったし、デュシャンもまた無意識性ということを芸術の根本に据えていた。ここにおいて絶対者は無意識によって取って代わられたのである。ところで、デュシャンが無意識的なものの内にこそ芸術が表現すべき何か真なるものがあると考えたのは事実のようだが、それ以上に彼は、芸術が芸術となるためには、第一にわれわれの理解を超えた仕方でそれが現存しなくてはならないということを重視している。それはいわば過去から未来にいたるまで作品を見る人の価値判断の総和のようなものであって、およそ予測可能なものではない(*13)。その意味で、芸術に携わるということは意識的ではあり得ないのである。
 広い意味での無意識、つまり意識では捉えられないもの、実在的でモノ的な性格をもった事どもが主体に対して優位を占めると、主体は実在(客体)を視る立場から、実在から視られる立場へと転落する。自我の底が抜け、いわば世界にヒビが入るようなこの体験には、重大な心理的危機を伴うことが少なくない。ブルトンが自動筆記の最中にホテルの一室から身を投げかけたというのは、その極端な一例である。その意味で、実在に接近するということは、生産性と有用性とを基盤とする人間的な生のありようを停止させ、死へと歩み寄ることを意味しているかのようである。いわば、観念のありように服さない、コントロール不能な何かが私たちのある部分を占めていて、それが私たちの行動を不毛で無用なものへと駆り立てるということを指して死というのである。バタイユの言葉を借りるならば、それこそがエロティシズムである。ゆえにそれは、必ずしも実際の死を意味しない。死んでしまったならば、二度と死へと向かって歩み寄ることはできないからである。
 このヒビの入った世界を見つめながら、小林冴子は「自分の頭の中、体の中をコピーしてそのまま写したい、っていう感覚で色を置いてい」る、と言う(*14)。これは単なる自分自身のアイディアをという意味ではないだろう。観念はもちろん、視ることも触ることもできないモノ自体としての自分を、まるっと存在そのものを、ドロッとそのまま視てみたいということなのである。いわば、世界へと自らを吐き出すこと、世界へと自らを放逐することこそが、小林における絵画なのだ。ここにおいて、自分自身を視てみたいというナルシシズム的欲望が明らかとなる。しかし、視たいと欲するもの——自分自身——が世界のうちにあらわれ出るということは、主体の存続のためには危険である。神話に見るように、強固なナルシシズムはついには他者との関係を不可能にし、ナルシシストは水面を見るようにして自身と向き合うことになる。ここにもう一つ、ナルシシズムからのオナニズムという主題が導き出されるのである。
 小林の作品にあらわれる自己の身体の象徴としての乳房、そして異性の痕跡としての精液は、性愛関係の成就というよりは、関係の拒絶のあらわれのようである。『TOKIMEKI 5』(2015年)の上部に燃え上がる炎のように描かれたコンドームについて、小林は「精子を出しているけど、卵子に辿り着けない」「そもそも人間って意思の疎通ができてるのか」「心も、身体もですけど、交わることをコンドームでとどめてしまっている。そういう壁になっている」と語っている(*15)。聖書においては、性交中絶によって兄嫁に子孫を残すことを拒絶したオナンには、神による死が与えられた。ナルキッソスもまた自らに恋い焦がれ、水面に映った自らの姿を捉えようとして死んだ。死との近縁性をもつナルシシズムの神話、自らの姿を視たいと願う残酷な欲望こそが絵画の起源であるという冒頭の説には、なるほど興味深い一面があるのである。繁殖につながることのない不毛な愛の行く先には、必ずや死が待ち受けているのである。

『TOKIMEKI5』
162×130.3cm
パネルにジェッソ・油彩 2015 年
「第30 回 佐久平の美術展」奨励賞

『球根』
130.3×162.0cm
キャンバスに油彩、アクリル 2016 年


 生産物を刹那に浪費する祝祭や、ナルシシズムとしての芸術の一部分は、バタイユの言葉を借りるなら、必ず祝賀や楽しみと正反対と思われるものに割り当てられていた。彼はこれを「供儀の矛盾」と呼ぶ。人は理解可能で自由に使用できる事物の世界を所有する。それはいわば観念化された世界である。しかし、ごく少数の者だけが「世界の裂け目からその中を覗いてみようと」する。「そのような世界の裂け目の一つが供儀という残酷な習慣なのである」とバタイユはいう(*16)。ナルシシズムにおいて人が世界の裂け目から覗き見るのは、彼自身の姿なのである。すでに見たように、それは快感ではあろうけれど、同時におぞましい来歴をもっている。そうした情動は「何かしら有益な作業に従属することができない」(*17)からこそ死に近いのである。バタイユはこう結んでいる。「残虐な芸術は、われわれに恍惚のなかで死ぬように勧めてはいないけれども、しかし少なくともわれわれの幸福な瞬間を死と同列に置く力は持っているのである」(*18)と。
 われわれは視るのではなく、視られているとの自覚は、ある意味で宗教的なものである。パウロが終末における神の臨在について述べた有名な一節がある。「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」(コリント前書、13:12)。世の終わりにおいては、神がついにわれわれの前に理解可能なものとして姿を現すというのである。神とは究極的な実在(モノ)である。それはわれわれの観念に従属せず、われわれの理解の届かないところのものである。反対に、彼は世界のすべてを観念化しており、彼の計画にないものはもとより世界に存在することはない。われわれは常に神によって内面に至るまですべてを視られているのである。この被注察感は、逆にわれわれが神を見ることができないという事実によって不安なものとなる。
 一方で、ユダヤ教神秘主義〔カバラ、Kabbala〕の伝統において「識る」とは性的な合一を意味する言葉であった(*19)。この解釈でいくと、世の終わりに、われわれは婚姻に象徴される神との完全な関係を回復し、いわばコンドームなしで愛し合うことになるのであるが(*20)、果たしてそれは生産を目的とする愛の成就と言えるのだろうか? 究極の実在にして究極の観念であるところの神との合一は、およそ人間的なありようを超越しているというのが、カバリストたちの導いた一つの結論であった。彼らの伝統によれば、神が自らの姿を世界に映し終えた瞬間、すなわち、始原としての神がその終末において自らの顕現である世界の全像を見届けた時、オリジナルとしての神は、鏡像としての世界と一つになり、結果として有限なる個物の住まう世界というものは、無限のうちに燃え尽きて消滅してしまうというのである。世界は神によるナルシシズムの産物であり(*21)、神がすべてをドロッと最後の一滴を吐瀉し終えた瞬間、世界は永遠の無へと解消されるのである。ここにおよそ人間的な表象が存在し得るとは思えない。確かに、われわれがわれわれ自身を外的な対象として真に定立する時、すなわち、自らの右手を自らの右手で握り返し、自分で自分を抱きしめることができるようになる時、世界は見慣れた姿を喪失し、おそろしくおぞましいものになっていることは疑いない。グノーシスの福音書は次のように言う。「イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの似像を見る目に、あなたがたは喜ぶ。しかしあなたがたが、あなたがた以前に生まれた――死にも現われもしない――あなたがたの像を見るならば、どれほどあなたがたは耐えられるであろうか」」(*22)と。それは、私たちにとって、最も見慣れない世界の姿なのである。
 ところで、人間は写真機という利器によって、ナルシシズム的欲望をある程度までかなえることに成功した。今日の言葉でいえば「自撮り」というのは、自分で自分の姿を写し視るという定式からすればナルシシストの行為である。ボードリヤールは「人間には感情がありあまっている」として、〈モノ〉としての被写体には向かないと考えていたが(*23)、それでも「主体を主体自身にとってもいま少し謎に満ちたものにし」、人間全般を互いに「もう少し理解不能な(あるいは未知の)存在となすこと」によって、人間を主体としてではなく「客体に、他者になさしめること」(*24)が可能であると考えた。かつての写真は魔術的な技術であり、人々はそこに自らの姿が写し出されるということについて、死を連想するほどの違和感をもったようである。ボードリヤールが求めるのは、そうした「好意的ではない反応」「死を前にしたようなすごみ」(*25)なのである。

『Kubiless』
38.0×45.5cm キャンバスに油彩 2015 年

『最中—今日も君とつながっていられますように』(部分)
木枠、毛糸、使用済みパレット、段ボール、写真、など 2017 年


 このような死のイメージ、自らを外部化し、排泄物と化すような没落願望が一つの閾値を超えると、それは露出願望へと転化するようである(*26)。世界にあらわれた自分の姿を、他者にも見せたいという欲求がそれである。自らの姿はそのままでは世界にあらわれることはない。私は私を視ることはできない。しかし、私のまるごとを写した写真や、私の丸ごとを吐き出した芸術作品は、私自身の世界における実在(モノ)となるのである。自らの私生活やエロティックな画像を作品として吐き出す過程について、小林は次のように言っている。

     自分を撮ってその写真を自分で選んで自分でネット上に発表する、「自分はこういう人間でこういう風に見られたい」っていうのが全部発表するまで自分のフィルターしか通してない、危うさ、怖さ、でもシュールさやユーモラスさもあって、自分のセンスと見せ方を最後に他者に試されてる。
     試されてるところまで考えると一種のコミュニケーションかもしれませんが、ある種の自分の気持ちよさを表現して知らない人にまで見られるかもしれない可能性、絵を描くのもそういうことかもしれませんね。(*27)



 自らをネット上に露出することによって、「承認欲求が満たされる」と小林は述べている(*28)。だが、これらの作品が、単に他者の目にどう映るかという計算のもとに撮られた、いわば見合い写真のようなものかといえば、そうではない。承認欲求は、時にある種の〈死〉の様相を帯びる。女子高生のいわゆるエロプリや、〈Vine〉に投稿される露出動画は、「裸体化こそは文明社会における死の等価物である」(*29)とするバタイユの定式に照らせば、まさしく〈死〉へと傾斜する刹那的な蕩尽である。そこに生まれる膨大なエネルギーが祝祭を可能にし、一時的な逸脱と社会秩序の否定とがかえって〈生〉を蘇らせ、強化するのである。小林によれば、絵も同様の意味をもつのである(*30)。自らの境界が消滅し、見えないはずの心が外部に露出し、裸にされる恐怖に比べれば、身体的な意味での裸体化は、心地よいそよ風程度のものなのかもしれない。ここでナルシシズムという事態を単に内向きな自己陶酔ととらえるのは十分な理解ではない。自己を愛するためには、自己自身が外的な対象となっていなくてはならない。観念化された自己の圏域から実在としての自己を超出しなくてはならないのである。外部化された自己を見つめるという行為――神がイエスを、あるいはイエスが神を見つめるように、そこには情熱〔passion〕と受難〔Passion〕が伴わなくてはならない。その外部に見出される自己の姿とは、十字架上のイエスのように、薄汚れて汚らしく、醜く犯罪的な裸体であると同時に、一層神々しく輝く自己超越的な裸体(フーコーにならってユートピア的身体と呼んでいいだろう)でもあるのだ。それは自己の同一的な身体の崩壊と呼ぶべきものである。
 小林冴子における〈風景〉の崩壊が、いつ、どのようにして始まったのかについてはよくわかっていない。ただ、小林が崩壊の前史を描いた自伝的短編『小野林モノ子の19歳』(2017年)を一読することは無駄ではないと思われる。なお、いちど溶解した〈風景〉が再生し、再びゆるやかに解体されてゆく様子は、作品から跡づけることができるので、関心のある方には、個展会場のポートフォリオに目を通されることをおすすめする。
(〈Ⅲ〉へと続く)

(*1)レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』三輪福松訳、中央公論美術出版、1992年、33頁。
(*2)『バルテュスとの対話』コスタンツォ・コスタンティーニ〔編〕,北代美和子〔訳〕,白水社,2003年、47頁。
(*3)バートランド・ラッセル『権力 その歴史と心理』東宮隆訳、みすず書房、1959年、283~285頁。
(*4)ミシェル・フーコー「ニーチェ講義」『ミシェル・フーコー講義集成Ⅰ 〈知への意志〉講義』慎改康之・藤山真訳、株式会社筑摩書房、2014年、279頁。
(*5)服部洋介「コーラ講義」『ブランチング』19、2016年。
(*6)フーコー、前掲書、269頁。
(*7)ボードリヤール『消滅の技法』梅宮典子訳、PARCO出版、1997年、21頁。
(*8)1994年の渡邊陽平の言葉。出典不詳。ただし、『渡邊陽平 芸術史』第1巻(服部編、1997年)40頁に「それにしても、どんなイッちゃった絵も、カマチのような芸術作品とはほど遠いものがある」という渡邊の言葉が引用されている。
(*9)ジャニス・ミンク『デュシャン』タッシェン・ジャパン、2001年、84頁。原典はMarcel Duchamp to Lawrence D. Steefel, Jr., pouted in : Arturo Schwarz, The Complete Works of Marcel Duchamp, London/New York, 1969, p. 114
(*10)ハンス・ゲオルク・ガダマー『ガーダマーとの対話――解釈学・美学・実践哲学』カルステン・ドゥット編、巻田悦郎訳、未來社、1995年、70頁。
(*11)ガダマー、同書、66~67頁。
(*12)ガダマー、同書、63~64頁。
(*13)ジョルジュ・シャルボニエ『デュシャンとの対話』北山研二訳、みすず書房、1997年、95頁。
(*14)小林、メール、2017 年1 月7 日。服部「小林冴子と崩壊する風景〈Ⅰ〉」(『ブランチング』20所収、2017年)参照。
(*15)小林、インタビュー、2016年11月8日。
(*16)ジョルジュ・バタイユ「芸術、残虐の実践としての」『純然たる幸福』酒井健訳、人文書院、1994年、62~63頁。
(*17)バタイユ、同書、72頁。
(*18)バタイユ、同書、73頁。
(*19)ゲルショム・ショーレム『ユダヤ教神秘主義』山下肇・石丸昭二・井ノ川清・西脇征嘉訳、法政大学出版局、1985年、309頁。
(*20)デュシャンはその言葉遊びの中で「親密な部分の衛生問題、愛を交わす時には、剣のつかまで突き刺すべきか(”Question d’hygiène intime: Faut-il mettre la moelle de l’épée dans le poil de l’aimée?”)」といった(ミンク、前掲書、73頁。ミシェル・サヌイエ、エルマー・ピーターソン『塩の商人—マルセル・デュシャンの著述』による)。なお、小林が絵を担当したエロティックな詩画集『Slip Stranger』(2014年)の「メイクとコンドーム」と題する詩において彩は「これが恋のうちは/メイクとコンドームは薄い方がいい/無いよりも有る方がいい/これが愛になったら/両方剥き出しで/いきたい」と書いている。
(*21)ルーリア派は神が自己の内に撤退(収縮〔Zimzum〕)することで世界の居場所を作ったとする(ショーレム、前掲書、344頁)。ボードリヤールは「写真は、わたしたちが不在のとき、世界がどのようにあるのかを語る」(ボードリヤール、前掲書、28頁)とする。写真は「自閉症、エクスタシー、ナルシシズム」の性格をもち、主体の孤独は客体の「自閉症的沈黙」と呼応する(ボードリヤール、前掲書、21頁)。ここでは客体における主体の不在と消滅が要請されているのである。神は自らを客体として切り離すことで世界を生み出した。ゆえに神は世界にはあらわれないのだ。
(*22)ナグ・ハマディ文書Ⅱ『福音書』所収「トマスによる福音書」荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1988 年、43 頁。なお、服部『〈存在〉の恐怖 人間を棄却する快楽』(2016年)参照のこと。
(*23)ボードリヤール、前掲書、29頁。
(*24)ボードリヤール、前掲書、32~33頁。
(*25)ボードリヤール、前掲書、34~35頁。
(*26)たとえばフロイト「欲動の運命」(『自我論集』竹田青嗣訳、筑摩書房、1996年、31~32頁。
(*27)小林、メール、2017年1月7日。
(*28)小林、同上。
(*29)「決定的な行動は裸にすることである。裸体は、閉ざされた状態、つまり非連続な生存の状態に反しているのだ。(…)裸にするということは、それは十全な意味をもつ文明の見地から眺めるならば、殺人の代用物とは言わぬまでも、少なくとも危険性の少ない殺人の等価物なのである」(バタイユ「エロティシズム」『澁澤龍彦翻訳全集13』澁澤龍彦訳、河出書房新社、1997年、28頁。または、服部「展翅、残虐の実践としての」(『ブランチング』12所収、2015年)参照のこと。
(*30)「たまに自撮りとかをするのですが、コンプレックスを感じているならあえてそこを描いて、どや、みたいな開き直って作品にする、みたいな気持ちがたまに出てくるのでそれに従って描きました。反発してるようなヤケになっているような気持ちですが、描いたあとは爽快です」(小林、メール、2016年11月20日)。

服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14