物質誌 拾遺 補遺

内面世界インスタレーション/正立方体台座
鉄塊 塩塊 蒲公英の種子 蜜蝋の書物 絹糸 アクリルケース
アンフォルメル中川村美術館アトリエ棟 http://www.informelmuseum.com
長野県上伊那郡中川村

文・作品画像 / 北澤一伯

 物質色で花よりも芽に近く果実になるにはまだ青くしっかりした根とともに堅い種の所有するかすかな前兆をみつめて暮らす。
 なにかそのような物質が観えてき来た場所から、物体を採集し組み合わせ、刃物で削る。彫れなくなって手が止まる時には描写もする。
 地方という意識空間の、極私的な場所を見つめている。土地台帳の閲覧でしか知る事のない地域の中の、やがて消えていく小字(こあざ)の名のついた狭い土地において為されている、口碑にもならず遺構も残らない私の身辺に対する営みである。
 『見るべき程の事をば見つ。』
 平安時代の末期、壇ノ浦の戦いで平知盛(1152〜1185)は、最後にこのように言って自害したと平家物語で延べられている。見る事と全生命が、分ちがたく五分と五分とに透き徹るような言葉に感じるのは、物語として語られているためだろうか。
 出生地に、自分を受け入れる容器でない場所が在るということは、どんなことをしても、突破することのできない垂直の壁を見ているような幻滅した気分がする。だが、壁の向こう側では、そのような私の事は考えていないのかもしれない。 

 長野県伊那市富県南福地字阿原小字不公路。阿原は私の生家の在る集落の字名(あざな)、そして不公路(ふこうじ)は長期にわた
る土地係争地。私におけるグラウンド・ゼロともいえるサイトスペシフィックなゾーンである。そこは、日本の地方のどこにでも遍在する微差異な異文化を形成し表象している人々の営みがある場所だと、私は思う。
 阿原は「あわら」と読む。他地区での用字は「阿原」のほか「芦原」「蘆原」などが知られている。『古事記』『日本書紀』には、ともに日本の国土のことを「豊蘆原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)と記してあり、蘆が茂っている湿泥地で稲作が盛んな豊かな国と
いう意味のようだ。「あわら」の語源は泡。湧水の土地の、柔らかな泥濘の泡のような手応えのなさから、湿泥地をさすと思われる。
「ら」は、あちら/こちらの「ら」で、場所の意味だという。福地は「ふくち」、不公路は「ふこうじ」と読み、ともに泡が噴く地勢から生まれた地名であろう。つまり、日本という場所のことである。
 さらに、この土地に隣接して阿原集落の共同墓地「でんで」と呼ばれる高台がある。そこは、柳田國男の遠野物語に記されている内容に近い。
『111 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習(ならい)ありき。老人はいたずらに死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリといへり。』
(遠野物語 111 柳田國男 新潮文庫)

 遠野にある伝説では、「蓮台野」は六十歳をこえた老人を捨てた野で、老人たちは日中里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料をえて野の小屋に帰り、暮らしながら生命の果てるのを待ったと伝えられているという。

阿原集落の墓地「でんで」は、「蓮台野」[でんでら野]と同義であろうことは十分予想できる。

 私は、遠野物語を読むたびに、信州と東北の地との間で、地下茎に似た関係が結ばれ連動していることを、訝りながらも考えたことがある。
 それは、私の土地係争者の、地域で評判の敏腕とも悪徳ともいわれる弁護士と連携し、徒手空拳の私に突きつけた調停裁判も中途のまま、数億の負債を抱えて倒産の憂き目に会い、さらに私からの話し合いの申し出による解決を拒み、頑に沈黙しながらある
時期までは地域の葬儀センターに勤務しつつ、係争とは異なったプロセスで得た「でんで」と地続きの狭い土地を耕作をしながら、現在にいたる姿を見る時である。
 明らかに私に悪意を抱いた後、自己正当化のために諍い、いくつかの経過から社会性を失った男が、遠野より時空を超えた遠野物語と同様の物語構造の私の私有地に隣接している「でんで」付近に逢着し、遠野物語的な世捨て人のように野良仕事をする事実に、超常の力の法則性でもあるかと,私は思いをめぐらすのである
 現在私は、遠野物語で語られているようなことの、私の生息地で顕現する不思議さに的確な言葉を見つけることができない。
 だが、まだ決定的な形ではなく不確定ではあるが、地霊のごとくの力となって顕われる、なにかの勢いにとらわれてしまったのかと思える農作業中の男と彼の妻を、義兄と実姉である実感とともに見つめる刹那、『見るべき程の事をば見つ。』という言葉に、一つの世界があることを察知してしまうのは、私だけではあるまい。
 伊那人の一生に対する見方考え方、他界観、哲学、土地の記憶、地域の歴史、霊的な場所と情念領域についての世界観が、具体的に空間にさしだされ、おそらく必敗でありながら、その広がりの情感に従うという精神の具現者が彼等だとするならば、
『見るべき程の事をば見つ。』という運命を確かに観たのだと感じてしまう。そして私は、その土地の地勢に触れながら、思考はすこし浮いて彼等の想念に縛られない境界に立ち尽す。
 例えば、阿原不公路の空間を物質色の前兆として「豊蘆原瑞穂国」の元型と見立てるなら、この地は興廃した日本の国家と家族の将来の光景である。
 それを、美術として定着させるというのは、私の傲慢であるかもしれない。幸せで綺麗な言葉を言える人の前で、私は限りなく灰色であると開きなおる思考回路は、土地係争と同時期に、大切な人々との離別による屈折から生じたと思われるけれども、そのように書いてしまう己自身もまた綺麗な修辞で発言の粉飾しているのではないかという自己否定の念を、私は制作と、その編集によって保とうとしている。
 それゆえに、妙な言い方だが彼等の情念から受けとった打ち身の痣のようなものは、これからも消えないだろう。

北澤一伯 Kazunori Kitazawa
1949年長野県伊那市生れ

発表歴

1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。
80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。
94年以後2008年12月までの約14年間、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』連作を制作。同期間、長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」〜』連作「残侠の家」を制作。
 その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作として1998年下伊那郡高森町「本島甲子男邸36時間プロジェクト」がある。地域美術界に対する新解釈として「いばるな物語」連作。
戦後の都市近郊における農業事情を読む「植林空間」。
 また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。2009年9月第1回所沢ビエンナーレ美術展引込線(所沢)
4th街かど美術館2009アート@つちざわ土澤(岩手県花巻市)
2012年6月「池上晃事件補遺No5 刺客の風景」(長野県伊那北高校薫ヶ丘会館)
7月「くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる 固有時と固有地」 連作No7(長野市松代大本営地下壕跡)
2015年Nine Dragon Heads(韓国)のメンバー企画として第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて展示。
同年7月、Nine Dragon Headsに参加。韓国水原市にVoid house(なにもない家)を制作した。
2016年6月「いばるな物語」連作の現場制作。 伊那北高校薫ケ丘会館
2016年10月個展 「 段丘地 四徳 折草 平鈴」 アンフォルメル中川村美術館(長野県上伊那郡中川村)

2017 11月 ナガノオルタナティブ2017「プリベンション」03 北澤一伯展 開催予定