存在

山本琢巳

山本琢己

文・画像 / 山本正人

「キタロウはどう?」
8歳の長女は、生まれたばかりの弟の顔を覗き込みながら言う。

「キタロウは・・、だいぶゲゲゲだね」
私がそう言うと彼女は残念そうな顔をして
「良いと思うんだけどな・・」と呟く。

「じゃあ、キンタロウは!」
負けじと次女が声を上げる。

その声を聞きつけた3歳の長男も
遊んでいたオモチャを投げ出し、
姉達の肩の隙間を押し退けて顔を出す。

生後間もない末っ子は、
純真な彼女らのやりとりをさも五月蝿いと言わんばかりに、
まだおぼつかない手付きで自分の顔をまさぐる。

ああ、幸せだな

生きる喜びを痛いほど肌で感じていた。

それにしても男は無力なものだ。
今こうして我が子を抱きながら痛切に実感するのも
直接顔を合わせて、触れて、やっと初めて得られるのだから。

この子が生まれる1年半ほど前、
もう1人の子が妻のお腹に宿っていた。

既に3人も子宝に恵まれていた私たちは、
「今度も男の子がいいね」と
元気に生まれて来る事が至極当然のように思っていたのだ。

それどころか情け無いことに私は
真っ当に子供達を養っていけるかどうかなどと弱気に
一抹の不安すら感じていた。

ぽかぽかと心地よい秋晴れの日、
「今回はツワリが早く終わった」と言う妻を定期検診に送り、
その時はまだ歩きがやっと様になったくらいの長男と2人で
病院の周りを散歩しながら待っていると、
泣きながら妻が戻って来た。

お腹の子の成長が止まっていると告げられた日。

咄嗟に元気付けようと思うが、
然るべき言葉が浮かんでこない。

当時2歳になったばかりの息子の方がよほど、彼女の拠り所となっていた。

考えてみれば妻は身籠ってからずっと
お腹の子の存在をありありと感じていたのに、
恥ずかしい話、私には実感がなかったのだ。

私など種を植え付けるだけのなんて滑稽な生き物だろうと
ほとほと己に嫌気が差した。

「フクタ君がいいんじゃない?」
「え〜、マスオが良かったのに!」

子供達の至って真剣な問答に心が癒される。

こうして赤子を抱き、まさしく純真無垢な顔を眺めていると
自然と顔が緩んでしまうものだ。

日本人がまだ袴や着物を着ていた時代から
さらに捕らえた獲物の皮を纏っていた遥か遠い昔でさえ、
思い切り無防備な表情で我が子をあやす人々の姿が
見た事もないのに、まるでそこに在るように鮮明に浮かんでくる。

きっと私の記憶のもっと深く、
遺伝子の片隅に確かに残っているのかもしれない。

我が家に4人目の子が生まれた。

山本正人 Masato Yamamoto 1976~
群馬大学教育学部卒 長野市在住