「そう見えるように描く」~言葉に含まれた指標~

文 / 竹之内博史

「竹之内、そう見えるように、だ、それ以外に言い様がない。まさにそのものに見えるようにするんだよ、わかったか?」言葉の細部は当時聴いた指導内容と多少異なるかもしれないが、町田哲也氏から受けたデッサンに関する指導はそのようなものだった。簡潔にまとめると「そう見えるように描く」という言葉になる。1990年の6月頃、当時17歳の私はその単語の連なりをそのまま反復することで、理解できたように振舞っていた。美術大学の受験を考え、デッサンを始めて1月程の私は、その言葉の真意を正しく理解できておらず、「そう見えるように描く」という言葉を、「モチーフを観察した際に、目に入る情報のなるべく多くをそのまま画用紙の上に写し取ること」と理解していた。しかし、それは正しくは無い。この言葉を正しく理解するにはより多くのデッサンを完成させる経験が必要だった。現在、「そう見えるように描く」ということを正しく理解できていると思う。だが、その内容の具体的な方法を言語化しようとすると、やはり「そう見えるように描く」事としか言い様が無い。「結果の見えの自然さ」と言い換えられなくも無いがより難解で不鮮明になる。つまり、「そう見えるように描く」という指標は示せても、そこに至る具体的なタスクを言語化することは困難なことに気づかされる。具体的なタスクというのは、鉛筆の使い方、描き方、消し方などである。
ポランニー(Polanyi, M. 1996)は言語の背景にあって言語化されない知を暗黙知(tacit knowledge)と名づけた。(正確には、暗黙的認識(tacit knowing)が使われている)近年、身体運動に利用されている知覚情報のほとんどは、意識に上らない潜在的情報であることが知られている(樋口、2008)。また、潜在意識とは複雑な情報を意識的な努力無しに獲得できる状況のことであり、その結果得た知識は言語化しにくいとも言われる(Bransford, J. D. et al 2006)。
別の例として、非意識的な過程の脳科学実験において擬音語や比喩的な表現が運動に作用することが知られている。「そう見えるように描く」という言葉も、見え方の状態を示した比喩的言葉であり、具体的な動作や技法について説明したものではないため、身体的な見えに関するイメージを喚起していると考えられる。

例:
1、「はやく」「歩く」というテロップ + 映像 →脳の言語処理の部位が反応
「ずんずん」 + 映像 →脳の運動の知覚に関するMT野が反応
2、「歩いているイメージをしてください」 → 視覚的なイメージを喚起する
「踝が柔らかい砂浜に沈み込むのを意識しながら歩いているイメージをしてください」
→身体を主体とした運動イメージ

ポランニーが示した暗黙的認識(tacit knowing)の現象によれば、暗黙知である動作のコツの言語化は、個々の筋肉運動を感知するための遠位項を言語化することで達成されると考えるのが妥当だとも思える。
私達は小さな個々の運動(=近位項)から、それらの共同目的の達成(遠位項)に向かって注意を払うのであり、それゆえ大抵は個々の筋肉運動それ自体を明らかにすることは困難であるとされている。私達はA(=近位項)からB(=遠位項)に向かって注意を移し、Bの様相の中にAを感知できるとされる。

例:
・ 道具を扱う場合(洞窟探検の探り棒、盲人の杖)
➢ 近位項:道具を扱う感触 → 遠位項:道具が対象に触れる感触
・ デッサンの場合
➢ 近位項:道具を扱う感触 → 遠位項:結果の見えの自然さ

しかし、たとえ誰かが遠位項を言語化し、他者がその言葉を頼りに動作を遂行したとしても、感知する個々の筋肉運動(=近位項)は人によって異なる。つまり、暗黙知である動作のコツを他者に伝えるためには、それを言語化しようとする指導者の努力と、その意味を獲得していこうとする学習者の努力が必要だと思われる。

ここまで、動作のコツについてのみ述べてきたが、デッサンの技能は、目と心と手の間に働く協調行為である。目と心と手の協調は、「見る」、「記憶する」、「描く」のプロセスと言い換えられる。筋肉運動として出力されるのは主に「描く」ことだが、デッサンでは同時に「見る」こと、「記憶する」ことにもコツが存在し、むしろ描くことよりも重要な要素である。「見る」→「記憶する」→「描く」というプロセスは誰もが容易に行える行為であるが、デッサンの初学者は思い込みや知識の影響によって「画題」や自身が思い描く「心的イメージ」を正しく描くことが難しい場合が多い。初学者にありがちな事例として、彼らの目には正しく画題が捉えられ、または心に想起するイメージは理想的な形を表していたとしても、紙の上に描かれたそれらの写像は画題やイメージとは大きくかけ離れたものになることがある。これは「見る」と「記憶する」ことに関わる事項だが、これらの改善には訓練を繰り返し行い、デッサン技能における習慣を身につけなければならない。その習慣とは観察法方である。デッサンにおける観察方法も筋肉運動の結果である「描く」ことと同様に、知識ではなく、身体的技能である。身体的技能は学習者自身の気づきと発見によってのみ習得できる。

遠位項は言葉である以上、意味の理解には個人差がある。したがって指導者と学習者の間には一定の共通理解が必要になる。この共通理解は、共通の体験を経た経験と捉えられる。指導者がしてきたように、同じようにデッサンを始めることがその第一歩となる。次に指導者は学習者の意図や、気づきの程度を理解したうえで遠位項を使用する必要がある。そうしなければ遠位項は有効に作用しない。さらに、直接的に感覚や経験の共有を実現するためには、動作習得の価値に加えて、その理念や信念も共有されることが必要である。こうした指導者との関わりを通して、学習者はおのずと目標とするべき状態に達していくと考えられる。

一般的に、美術大学を受験する学生の多くは美術大学受験予備校に通う。美術大学受験予備校の教員は、専任講師と美術大学生のアルバイトである。いずれの教員も美術大学に入学し、或いは卒業したものであるため、一定のデッサン力を備えていると考えられるが、前述したように、彼らも自らが習得した暗黙知についてその具体的なタスクを正確に言語化できているわけではない。多くの教員が指導に使う言葉は、教員自身が指導を受けた際に聞かされたものである場合が多い。指導には鉛筆や木炭の使い方などの近位項に類するものもあれば、作品の出来栄えのような遠位項に含まれる言葉もある。また、受験時には制限時間があるため、作品製作の進め方の手順のようなものや段取りについての言葉もある。良くない遠位項の言葉としては、「これは有り」、「これは無し」のように、分類するようなものがある。これは受験生の経験では理解しがたいものだったと思う。
指導の言葉について、私が思い出す限り、近位項に類するものが多く、遠位項が少ないように記憶している。私自身も美術大学受験予備校で講師をしていた経験があるが、当時を振り返ると、遠位項に類する適切な言葉が皆無だったように思う。これは、受験対策の予備校であることも考慮しなければならないが、予備校の中での「遠位項」とはデッサン力の向上や、暗黙知の習得ではなく、「合格」であることによるのかもしれない。また、一定の理解水準を越えた教員達だけがわかるような「有り」、「無し」のような言葉は、受験生にとっては不適切だと思われる。大別すると、予備校で語られてきた遠位項とは、デッサンに関する真実ではなく、受験に合格するという目標に置き換えられた虚偽の遠位項であったのかもしれない。

例:
・ 近位項:鉛筆を尖らせて立てて描いて、画題を手前に出しなさい
・ 近位項:彩度を抑えて画題を奥に引っ込めなさい
・ 近位項:パースを合わせなさい、パースが狂っているよ
・ 近位項:光源の位置と画題の各面の向きを意識しなさい
・ 近位項:前後の画題が交差する箇所の見え方を良く観察しなさい
・ 近位項:影の落ち方を良く考えなさい
・ 近位項:目線の高さに近い楕円と、遠いところの楕円の長軸と短軸の比率

・ 遠位項:全体に手が入るようにバランスよく作業を進めなさい
・ 遠位項:早い段階で量感が出るようにしなさい
・ 遠位項:これは有りです、これは無いです

現在、私はデザイン事務所を経営している。業務内容はプロダクトデザインに関するものが主である。そのスタイリングや機能をデザインする際に、「そう見えるように描く」という言葉は、今も遠位項として機能している。例を挙げるならば、コンセプトや仕様に応じた機構やスタイリングのデザインである。このように「そう見えるように描く」という指標はデッサンの技能を超えて、別の分野でも指標として機能している。適正な遠位項は真実に近く、多くのことを学習者に与えてくれる。今の私の創作活動を支えているのはまさしく「そう見えるように描く」という言葉に代表される指標である。最後に町田哲也氏の言葉は多くの経験と真実から成り、常に私を導いてくれた。この場を借りて、心より感謝したい。

竹之内博史 Hiroshi Takenouchi 1972年長野市生まれ 神奈川在住 プロダクトデザイナー
多摩美術大学立体デザイン専攻プロダクトデザイン専修卒 慶應義塾大学 政策・メディア研究科前期博士課程修了
Design Office BRIDGE主催 (主にプロダクトデザイン)慶應義塾大学 環境情報学部 講師 研究領域 認知心理学(担当授業:デザイン言語ワークショップ造形・プロダクト、デッサン基礎講座)

引用文献
・Polanyi, M. (1996) The TacitDimension. Reprinted Press Smith.
・樋口貴広 (2008) 「知覚の顕在性、潜在性と身体運動」「身体運動学―知覚・認知からのメッセージ」
・Bransford, J. D. et al. (2006) Foundations and Opportunities for an Interdisciplinary Science, in Sawyer, K.. (ed.), The Cambridge Handbook of Learning Science, Cambridge University Press, New York.