アートと思考 第⑫講 あたかもアートの終焉が世界の起源であるかのように

文・漫画 / 服部洋介

 

『リアル・ド●クエ トモキくん~そして 全滅へ~』(2006)抜粋 ゆとり世代のみならず、ポストモダン世代 なら、誰だって学校なんか飛び出して、 冒険の旅に出てみたいと夢想したはず だ! 全滅必至だけどね。

『リアル・ド●クエ トモキくん~そして
全滅へ~』(2006)抜粋
ゆとり世代のみならず、ポストモダン世代
なら、誰だって学校なんか飛び出して、
冒険の旅に出てみたいと夢想したはず
だ! 全滅必至だけどね。

 石原莞爾あたりがいうように、技術革新によって水と空気からすべての原料とエネルギーが得られるようになり、また機械が必要な仕事をすべてしてくれるような〈労働の終焉〉が到来したと考えよう。デリダは〈労働の終焉〉と、聖書における〈世界の起源〉、すなわち、人類における労働以前の黄金時代を結びつける。しかし、同時に、「労働のない世界、あるいは世界に属さない労働というものを想像することは、常識では困難である」(1)とも言っている。リフキンは、第三次産業革命の結果、世界の需要をまかなうために必要とされる労働者はますます減少し、大量の失業者が出ると危惧している。いや、究極的には仕事しなくていいんだから、あとは遊んでればいいんじゃないのって話だが、そうはならない。働いて金を受け取る必要がなくなれば、金持ちのいいなりになる必要はない。しかし、マネーを通じて権力を振るってきた人にとっては、困ったことになってしまう。EUのバスケット通貨ECUの設計者の一人であるベルナルド・リエターは「(マネーは)使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計されている。お金はまた、工業社会の旗印である。「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジンでもあった。そして、このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている」(2)とこれを説明しているが、世の中いくら文明が進歩しても仕事が減らない一因は、こんなところにあったわけである。なんて話だ。
 ところで、アートも職業でやっていれば労働だが、労働消滅後の世界では、プロの絵描きがアーティストとか、そういう金銭を基盤にした区分は無意味になってしまうので、アートか否かを判断する方法は、多数決くらいしかない。より大勢の人が認めた作品がアート。なるほどって感じだか、これも「多数の人が好む作品」と「少数の人が好む作品」の区分でしかない。これらは、何らかの意味内容ではなくて、呼び名、名辞なのである。「あなたの作品は「多数の人が好む作品」と呼ばれるものです」という感じですね。ちなみに〈アート〉というのは、広義には、人間の創りだしたもの全般であり、海外でディプロマ取った人に「Art」とついてるからって、必ずしも芸術専攻じゃないんで注意。人文系の学位ってことですね。「Art」の前に「Fine」がついているかどうかのチェックをお忘れなく。
 さて、人間精神の所産を扱う人文学というのは、論証的性格をもたない、つまりは、非実験的で意味解釈法によるところの学問をいうわけなのだが、文科省の学術研究推進部会には「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」というのがあり、あわれ文科省からも時に科学とは扱われず、「はやく文理融合して、少しは科学になってね」って感じで見られているわけである。スーパーサイエンスハイスクールに対抗して構想されたスーパーグローバルハイスクールにしても、当初は「先進的な人文科学・社会科学分野」(一応は科学扱い)に特化したグローバル教育のカリキュラム開発を推進するとされたものが(3)、「そこ、いらないわ」ってことで当該文言を削除、世間の噂では、そのうち「文系教育は私学に任せて国立は理工と医学部を充実させよう」なんてことになるんじゃないかと、一部教員は戦々恐々だ。デリダ曰く「世界中で、〔大学にとっての〕主要な政治的掛け金は、どの程度まで研究機関や教育機関は支援されるべきか、すなわち、直接的ないし間接的に統制されるべきか、婉曲に表現するならば、商業や産業の利益のために「スポンサーをもつ」べきか、というものです。周知の通り、この類いの論理によって、〈人文学〉はつねに、学術の世界とは無縁な、収益性が見込まれる資本投資に関係する純粋科学や応用科学の学部のための人質となるのです」(4)。なんせ趣味みたいな学科が多いんで……。
 また、人文系の諸学部は、人の好き嫌いでしかない〈価値〉であるとか、善、美、倫理、政治制度、ナントカ主義、ナンチャラ教みたいなものについても扱うわけですが、人のやることはコロコロ変わる上に、目に見えないものを扱う場合も多いので、それをいいことに、人間てのは「本当かよ?」というような解釈の体系を作り上げてしまうんだね。高校とかの国語のテストの解答を見て「それないわ」と思った人はたくさんいるはずだ(小林秀雄だってテストに出た自分の文章の意味がわかんなかったんだから)。だから理系の人に怒られちゃうわけなんですが、もちろん、自然科学といえど、それをやってるのは人間なので、そこに「安全」とか「危険」といった、中立的とはいえない政治的な名辞が登場すると、原子物理学において原発安全神話なるものが形成されるのもむべなるかな。
 こういう〈ぐにゃぐにゃした現実〉というのは、逆に機械化がむずかしいので、かえって〈労働の終焉〉後も人間の領域として残っちゃいそうだね。「指鹿為馬」で「馬鹿」の語源説の一つになっちゃった秦の趙高みたいな奴が〈画廊のゴミ〉を持ち出して、「諸君、最高のアートを持ってきたぞ」と言いだしたらどうするか。そこで「それ、ゴミでしょ」と言った人が後日、首チョンパなんてことになったらたまったもんじゃない。実際、かの有名な〈便器〉がアートなんだから、他人事じゃないわけである。大阪の橋下市長が言うように、民主主義とは素晴らしいもので、今日び、こんなことで命を取られることはないが、かといって、〈個人の尊厳〉を基礎とし、思想も良心も言論も表現も自由なはずの民主主義にも〈公共の福祉〉と呼ばれる全体主義は含意されているわけで、よって、個人も自由も現前することのないところで〈民主主義〉なる語だけを使用している状況が現出しているわけである。かといって、すべてが成就したならば、それはそれでナニモノでもないナニかに違いない。したがって、薬が薬としてあるためには、自らのうちに毒をも含んでいなくてはならない、というわけだ(5)。
 そういうわけで、アートも含め、何らかの〈価値〉があるとされる事物というのは、〈価値〉という名で呼ばれているが、じゃあ、〈アート〉とか〈価値〉とかいった名辞が何を意味しているかの境界線を定めるとなると、それ自体が暴力的な行為とならざるをえない。「芸術作品があるということ、我々は表象のうちにそれらを我々の前に〔眼前に〕もつということ。しかし、何によって芸術作品はそれと認められるのか。これは法的で抽象的な問いではない。歩を進めるたびに、事例が示されるたびに(…)、境界は「芸術作品」の「ある」と「ない」との間で、「物」と「作品」の間で、「作品」一般と一つの「芸術作品」との間で揺れ動く」(デリダ)(6)。人文学とは、まさにこの〈ぐにゃぐにゃの現実〉であるべきだというのがデリダの主張であって、人民が従うべき絶対の規範であるはずの〈法〉を、人民自らが改変してしまうような掟破りかつ掟自体が成就不能な関係こそが〈脱構築〉なのであり、ゆえに人文学は〈歴史〉と関わるのである。時や場所によって、掟の解釈や境界は変更されてしかるべきものなのだ。勢い、自分にとって不都合な解釈がまかり通っているなら、論争を吹っかけて新たな解釈を勝ち取るほかないという話になるわけだが、結局、最後は親とか上司とか政治家とか、怖そうなお方とかが勝つのが世の常、何とかならんものかね。
 でも、こういうの、やな人にとってはやなんですね。かつて、日本病跡学会総会でヴィトゲンシュタインの『論考』が議論の俎上に上ったことがある。名古屋大学大学院医学系研究科で臨床系の研究指導を行う津田均准教授の一般演題発表『ヴィトゲンシュタインの哲学は精神病理学に何をもたらすか』がそれだ。前回、東大において精神分析がいかなる経緯で傍流化したかについて触れたが、名大の精神健康医学研究室では、構造主義哲学や精神分析を駆使して、精神病理学的なアプローチを続ける先生方が頑張っておられるのである。さて、研究史の流れにおいて、ヴィトゲンシュタインは統合失調症圏から発達障害圏のいずれかに位置づけられてきたのであるが、津田博士は『論考』に見るヴィトゲンシュタインの態度を発達障害と位置づけ、「物事の意味づけがむずかしく、他者の言葉などが〈ぐにゃぐにゃの現実〉に回収されず、それを論理空間に位置づけようとしてぎこちなくなるのではないか」(7)との仮説を提起された。一方、質疑応答では、「分裂気質ではないか」という指摘をめぐって議論が交わされたが、いずれにしても、「ぐにゃぐにゃの現実は嫌い」という人たちの一人であることに変わりはない(私もね)。なので、〈アート〉というぐにゃってる語も、ないと不便なのだが、あってもあまり使いたくないのは事実だ。もしくは、この際、ぜんぶアートでいいや。人文学は境界を変更する。かといって、「なんでもアリ」の相対主義だと批判されてはかなわんので、デリダも各領域の特殊性が解消されえないことを認める。境界というものは、それがなければ壊すこともできないからだ。構築されたものがなければ、脱構築することもできない。この奇妙な共依存によって、世界はどうにか存続しているようである。
 〈世界の起源〉には、労働もなければ、争いも、苦しみも、いまだ存在してはいなかった。原罪とともに世界に労働が導入され、そして、人文学の〈歴史〉が幕を挙げたのである。その長い贖いの果てに垣間見る〈労働の終焉〉は、〈世界の起源〉を連れてくるのだろうか、それとも〈SEKAI NO OWARI〉を連れてくるのだろうか。石原の『世界最終戦論』では、〈労働の終焉〉の前段として、西洋覇道文明と東洋王道文明なるものの最終決戦が想定されている。結果、思想は統一され、世界はその〈起源〉、すなわち〈王道楽土=エデン〉へと立ち戻るである。この〈来たるべき同一性〉は、到来したらしたでおかしなことになって、結局、到来したこと自体がぶち壊しになるナニかであると現代思想では教えられてきたが、ユダヤ教神秘主義では、そんなことにならないように、〈SEKAI NO OWARI〉は〈世界の起源〉に収縮すると説いている。「神は世界に顕われない」(『論考』6・432)がゆえに、世界が真の〈起源〉に到達するためには、形而上学的沈黙のうちに、論理空間自体が消滅しなくてはならないのだ。世界が始まっちゃっても終わっちゃってもヤバイ気配はぬぐえないので、アートってのも、世界を存続させるための必要悪として、当面ぐちゃぐちゃのまま存在し続けていただくほかないというような気もしてくるね。
 バタイユの定式では、〈人間〉を作ったのは〈労働〉であるとされている。〈労働の終焉〉は、〈労働=マネー〉の経済制度とともに構築されてきた倫理・道徳・秩序・規範・歴史の終焉を意味するのであるから、「豊かで寛大なポストモダン社会では、欲求は安易に満たされ、人間はディシプリン(規律)を失って動物化する」というようなことを言った本上まもる(8)は、この文脈からすると正しい。芸術の一つのイメージであるバタイユ的な〈消尽〉も、〈労働の終焉〉後の世界では、もはや〈破滅=超越〉の意味をもたない。私たちの頃は、ドラクエやるにも、長い列に並んだり、他人を襲撃したり、学校サボったりと、それ自体が一個の社会問題の様相を呈していたが、今日び、学校へ行かずに部屋にこもってスマホでゲーム三昧なんてめずらしくも何ともない。「コイン一枚で東洋の王侯もうらやむ公共サービスが受けられる」といわれたローマ市民のようである。もちろん、安価に受けられるサービスの背後には、属州と奴隷たちからの搾取があったわけで、安けりゃいいってもんじゃない。食うに困ったゲルマン人を傭兵に使っているうちはよかったが、終いにはキレられて西ローマ領の大部分を乗っ取られてしまった。まさに世界の没落だ。あたかも労働が終焉したかのように見える世界の裏側には、まだまだとんでもない収奪の実態が隠されている。「大部分の人々は(…)仕事を求めていますが、仕事がありません。その他の人々は過剰な量の仕事を抱えていて、仕事の量を減らしたい、さらには、労働市場に鑑みてあまり割に合わない仕事とは手を切りたいと考えています」(デリダ)(9)。
 一方で、真に〈起源=楽園〉が到来したとしよう。ここでは、働かなくてもいいのに働いたり、我慢して貯蓄したりする必要もない。したがって、抑圧された人間精神のナニかを解き放つような芸術も用済みになってしまうだろう。「そんなのいけないぞ、人間じゃないぞ。超越性や崇高性について考えようではないか」ってのが本上のポストモダン批判の骨子なんですが、要するに、人間の崇高さなんてのが必要なのは、いまだ労働が終焉していないからであり、なんで労働が終焉しないかっていうと、何かしらから労働が終焉しない事由があるからなわけであって、その事由を解決しようって話と、それが解決されてないのに思いつくままに目先の動物的快楽にふけって遊び暮らすなんざイカンってのは別問題なのであって、つまるところ、「労働を終焉させるために働きましょう、あとは休みましょう」って話である。ある意味、人に抜きんでて目立ちたい系のアーティスト諸氏からすると、〈労働の終焉〉は傍迷惑な話だ。〈楽園〉には努力も才能もいらない。「アーティスト」なるセレブから「ただのやたら絵の上手い人」とかに転落しちゃったら、人生最悪である。因果なものだと同情しますが、われわれが仕事を終わらせるために働くように、アーティストもアートを終わらせるためにアートしようではありませんか。やです……よね?

 (*1) (*4) (*9) 『条件なき大学』Jacques Derrida〔著〕,西山雄二〔訳〕,有限会社月曜社,2008,p.49-50,p.16,p.55-56
(*2)『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』Bernard A. Lietae〔著〕,小林一紀,福元初男〔訳〕,株式会社日本経済評論社,2000,p.11
(*3)『VIEW21』高校版2014年度 2月号,ベネッセ教育総合研究所,p.54-55
(*5)デリダの「毒=薬」le pharmakon。「毒であると同時に薬、しかも、そのいずれでもなく、可能ないかなる和解も飽和もないままに汚染させ、同時にあらゆる意味と価値の二元的対立を毒する」(リュセット・フュナス)。叢書・ウニベルシタス281『他者の言語――ダリダの日本講演』Jacques Derrida〔著〕,高橋允昭〔訳〕,法政大学出版局,1989,p.383
(*6)叢書ウニベルシタス590『絵画における真理 上』acques Derrida〔著〕,高橋允昭,阿部宏慈〔訳〕,法政大学出版局,1997,P45-46
(*7) 津田均『ヴィトゲンシュタインの哲学は精神病理学に何をもたらすか』(第57回日本病跡学会総会,2010年4月23日)
(*8)PHP新書462 『〈ポストモダン〉とは何だったのか―1983-2007』本上まもる〔著〕,PHP研究所,2007,p.159-160,195-196

服部 洋介 Yosuke Hattori 
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
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