サチコの桜の通り道

文 / 中川渓子

一昨日の晴れた夜に、サチコはたくさんの星を見ました。今日はきれいな夜、町中に白いもやが広がっています。ひんやりと秋の香りも広がっています。サチコは不思議なおばあちゃんと小さな赤ちゃんのことを思いました。

 サチコは小学2年生の女の子。二つ結びがお気に入りで、よく半ズボンを履いて元気に登校します。サチコのお気に入りに通学路の桜の木もあります。うす茶色のマンションの角に一本立っています。木は春に花を咲かせピンクの、夏は青く、秋は黄オレンジ赤のまだらに天井を変えてくれます。秋の終わりから冬の初めまで、乾いた葉っぱのじゅうたんが増えていきます。サチコはカサカサと踏みしめて学校に行きます。
 通学路の桜の木を過ぎると、道を挟んで畑と家が並んでいます。サチコが不思議だと思うおばあちゃんが、その一つに住んでいます。そのおばあちゃんは、いつも必ずいるわけではありませんが、年がら年中玄関の前でぶらぶらしています。または植木や庭のブドウを手入れしたり、道行く人に声をかけたりしています。サチコもよく声をかけられ、名前を聞かれ、いい名前!と言ってくれるのに、また初めてのようにサチコの名前を聞くのです。でもおばあちゃんが教えてくれる植物の名前は間違いありません。サチコは小学校に上がる前からおばあちゃんの姿を見ていました。

 サチコの家は、お母さんとお父さんとサチコの三人家族です。サチコのお父さんとお母さんは明るい働き者で、共にお勤めをしています。隣駅にはしずかさんもいます。しずかさんは大きないとこで、お母さんのお姉さんの娘です。しずかという名前の割には、元気な声でおしゃべりします。しずかさんはもう二十代で結婚しています。高校生の頃から、サチコの遊び相手になってくれていました。サチコが思うに、しずかさんは、元気なところはサチコのお母さんと似ていますが、お母さんの知らないことも知っているような気がします。

 三月、サチコの家にしずかさんが来る前の日、春の大雪になってしまいました。土曜日にふぶき、日曜日の朝は晴れました。日曜日、予定通り遊びに来る、としずかさんから連絡がありました。
 お父さんが
「さっちゃん、一緒に迎えに行こうよ、雪が積もってるよ。」
お母さんは
「サチコ、長靴と帽子、手袋、着けて行ってね。滑るからゆっくり歩きなさいよ!」
サチコは
「うん、行くー! しずちゃん迎えに行くよ。こんこんぎつねのマフラーも着けてく!」
お父さんとサチコは、雪対策に温かい恰好をして、長靴を履いて出かけました。ドアを開くと真っ青な空。雪の白と道路の黒が目に飛び込んできます。サチコは胸がいっぱいになりました。たまらず走り出したくなりました。しかし以前、雪へ走り出し、滑って転んだことを覚えていました。玄関のタイルや、道路の鉄板の上がよく滑って危ないのです。サチコは、ゆっくりと慎重に雪を踏みました。さくっ。さく。さく。「うわあ。気持ちいい!」桜の木は真っ黒に雪に映え、切り絵のようでした。道路に面する畑には、ブロッコリーの株が残っていました。とても低いのにヒヨドリが数羽とまって、真白い雪の中で、ピーピーと鳴いていました。
「おーい。」と道の向こうから、人が手を振って歩いてきました。黄色いマフラーに白いコート、長めのスカートのしずかさんです。
「あー!しずちゃんだよ! しずちゃーん!」
サチコは手を振り、走ってしまいましたが、まだ溶けていない雪のおかげで早く進めず転びませんでした。
「さっちゃん、テルアキさん、こんにちは!」
「しずちゃん久しぶり! 元気そうだね。」
三人で家に帰りました。
 
 家に帰ると、大人は温かいほうじ茶、サチコは熱いココアを飲みました。サチコはしずかさんに学校で描いた絵や習字を見せました。大人同士の話が始まると、サチコは追い出され、一人で遊びました。みんなでおやつを食べて、しずかさんは帰りました。なんとなく皆が嬉しそうでした。
「さっちゃん、しずちゃんの赤ちゃんに会えるかもよ。」
お母さんがドアを閉め、サチコに話しかけました。
「えー! しずちゃん赤ちゃんを産むの? おなか大きくなかったよ。」
「おなかが大きくなるのはもう少ししたらだよ。」
「しずちゃんの赤ちゃんに会いたい! いつ赤ちゃん生まれるの? 女の子?」
「女の子か分からないよ。もう少ししないと分からないよ。」
「そうなんだ。これから神様に頼んでもいい?」
「さっちゃん、女の子がいいんでしょ。でも運命の神様の言うとおりだからね! 神様にお任せだよ。」
「うーん、そっか。私は女の子がいいな! 遊んであげるから。」
「男の子でも遊んであげなよ。」
お母さんは笑って、晩ご飯を作りに行きました。
「お父さんはどっちがいい?」
「どっちだっていいよ。でも女だらけだから男の子かな? でもどちらでもいいよ。今はしずちゃんにとって大事な時期だから、サチコも優しく接するんだよ。」

 それから春が終わってもしずかさんは来ませんでした。その年の夏はとても暑くて、夏休みも外に出かけられないほどの日がありました。八月の終わり、しずかさんから連絡があり、サチコの家に遊びに来ることになりました。サチコは一人で迎えに行きました。青い縞のリボンが付いた麦わら帽子を被りました。
通学路の桜は青々と茂っていました。不思議なおばあちゃんの姿が見えたので、少し走って過ぎました。道の途中、向かいから手を振る女性がやってきました。水色のワンピースを着てスニーカーを履いたしずかさんは、右手に白い日傘を持っています。
「さっちゃん元気だった? 日に焼けたねえ。しばらくぶりだねえ。遊びに行けなくてごめんね!」
「いいよ! 具合悪かったんでしょ? 大丈夫? あれ、おなか大きくなったねえ。赤ちゃん元気だね!」
「大きくなったよね! 赤ちゃんも暑いかな〜?」
二人並んで歩きました。しずかさんはサチコを日傘に入れてくれました。不思議なおばあちゃんの家の庭にはブドウが植わっていましたが、その家の前にもブドウ畑がありました。ブドウ畑はたくましい葉が茂り、棚を作っています。棚にはひすい色の小さな房がたくさん生り、一つずつ白い薄い紙で覆われていました。
「しずちゃん、もうすぐ不思議なおばあちゃんちだよ。」
「知ってる、私もたまに話しかけられるよ。」
その家の前を通る時、家の脇から、草を持ったおばあちゃんが歩いて出てきました。
おばあちゃんが二人を見て言いました。
「こんにちは。すごく暑いですねえ。」
「こんにちは。」
「あら、妊婦さん。こちらがお姉ちゃん?」
「いいえ。この子はおばの子で、私のおなかは初めての子です。」
「ああ、お若いものね、暑いし気を付けてね。おなか大きいねえ。もうすぐ?」
「まだあと三か月くらいありますね。」
「そうね、まだ下がってないからね。本当に気をつけてね。」
「ありがとうございます。それでは失礼します。」
「お嬢ちゃんも気をつけてね。」

おばあちゃんを後ろに、サチコはしずかさんに聞きました。
「下がってない? って何?」
「赤ちゃんが出てくる時になると、おなかの下の方に赤ちゃんが下がってくるんだよ。」
「おばあちゃんは分かるんだね。すごいね!」
「すごいねえ。プロなんだねえ。」
何回も聞いたサチコの名前は覚えてないのに、おなかの様子が分かるおばあちゃんがサチコには不思議でした。桜の葉は力強く密集し、太陽をはね返しているように見えました。家に戻ると、お母さんとサチコとしずかさんで冷たい麦茶を飲みました。しずかさんはお母さんに色々話したり聞いたりして帰りました。

九月に入り、しずかさんが遊びに来る日になりました。サチコが迎えに行きました。薄手のピンクのカーディガンを羽織って行きました。向こうからしずかさんが手を振って歩いてきました。しずかさんもピンクの服でワンピース、白いカーディガンを羽織っていました。黒い大きめのカバンと小さな紙袋を手に持っています。ブドウ畑では、薄い紙で覆われた房が、紫色の大きな実でできた大きな房になっていました。
「おばあちゃんいるかな?」
「いないときもあるよね。」
サチコとしずかさんはおしゃべりをしていました。おばあちゃんは家の前にいました。後ろで手を組んで、道路を通る人に声をかけていました。その人がちょうど去り、
「こんにちは。妊婦さん?」
「こんにちは。」
「もう大きいね。もうすぐ? 大きな荷物を持って!」
「まだ二か月くらいありますね。最後の習い事に行ってきたので。」
「そうね。まだ下りてないみたいだね。重いもの持っちゃだめよ。」
「ありがとうございます。」
「気をつけてね。」
「気をつけます。では失礼します。」

「おばあちゃんまたおなかのこと言ったね。」
サチコがしずかさんに話しかけました。
「うん。見たら色々分かるんだね。」
「不思議だね。」
「不思議だね。」
桜はまだ青々としていましたが、空気が涼しくなって、日差しは夏ほど強くありません。家に帰ると、お父さんお母さんとしずかさんとサチコで、お昼のスパゲティとサラダを食べました。デザートにしずかさんの持ってきたプリンを食べ、しずかさんは帰りました。

十月の終わり頃、しずかさんが遊びに来る日、サチコはまた一人で迎えに行きました。サチコはしずかさんと二人で歩きたかったのです。茶色のチェックのジャンパーを着て、半ズボンの下にはタイツを履きました。しずかさんは向こうから来て、服は夏と同じピンクのワンピースと、茶色のジャケットを着て手を振っていました。
「さっちゃん、こんにちは。」
「こんにちは。わあ、おなかおっきいねえ。」
「うん。苦しいよー。重たいし。」
「重いんだ。赤ちゃんが大きくなってるんだね。」
「うん。育ってるんだよ。」
ブドウ畑を見ると、ブドウの房は一つ残らずなくなって、緑色の棚になっていました。枝の切り口が白く見え、ついこないだまでたくさんのブドウが生っていたのが見えるようでした。冷たくなった風が吹いていました。おばあちゃんいるかな、サチコは思いました。しずかさんも同じように思っているように見えました。
おばあちゃんは後ろで手を組んで誰かを待っているようでした。「あ、おばあちゃんだ。」サチコはしずかさんを見ました。しずかさんもサチコを見て微笑みました。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「だいぶ大きいね。臨月?」
「はい。臨月です。」
「そうだね。下がってきてるね。気をつけてね。」
「はい、ありがとうございます。」
「お姉ちゃんになるの? 良かったね!」
サチコははにかみました。
「違うんです。この子は私の親戚の子なんです。」
「まだ若いもんね。頑張るんだよ! 生まれてからが大変なんだから。」
「はい。頑張ります!」
「おばあちゃん、風邪ひかないでね、さようなら。」
サチコが言いました。
「ありがとう。さようなら。」

今年は大きな台風がこの地域に来なかったため、桜の葉はほとんど散らず黄、オレンジに紅葉してとてもきれいでした。
「きれいだね。」
サチコが話しかけました。
「きれいだねえ。また来年も見たいね。」
「来年は赤ちゃんと見に来よう!」
「いいね!」
家に戻ると、お父さんがハーブティーを入れてくれました。家中を爽やかに香りました。サチコはそのままでは飲めないので、はちみつとミルクを入れて飲みました。

十一月、桜はだんだん赤くなりました。十一月末には黄色の葉も赤い葉も一枚、二枚と落ち、カサカサと落ち葉になりました。サチコは登下校の時、落ちた葉っぱを踏みます。しずかさんは赤ちゃんのお世話をしているので出てこられません。
しずかさんが出産した後、お父さんとお母さんとサチコは、赤ちゃんを見に病院に行きました。とても小さな赤ちゃんで、マッチ棒みたいでした。髪の毛はぺったりと頭に張り付いていて、目を閉じて、サチコがいる間ずっと眠っていました。たまに変なうなり声であくびをしていました。その晩、サチコが眠れず窓を開けるとたくさんの星が見えました。小さな赤ちゃんは女の子でした。サチコは赤ちゃんが元気に大きくなるよう祈りました。
次の日も次の日もサチコは赤ちゃんのことを考えていました。不思議なおばあちゃんのことも思っていました。

病院へ行った二日後の今晩、
お父さんが仕事から帰って
「さっちゃん、すごいよ。外見てごらん。二階から。」
とサチコに声をかけました。サチコは急いで二階へかけました。窓を開けると、外は真っ白なもやでいっぱいでした。車の旅行で山へ行った時のもやのようでした。町中がもやに埋まって、静かでひんやりしています。土や植物の匂いがして、最後の秋の香りのような気がします。サチコの胸には、不思議なおばあちゃんに赤ちゃんを見せてあげたい、という思いがわいてきました。妊婦さんだったしずかさんのことは覚えていないだろうけど、おばあちゃんが出産した時や、おばあちゃんが見てきたものは思い出すだろう、赤ちゃんは可愛いって思うだろうと思いました。

中川渓子 Keiko Nakagawa
1984 東京都生まれ
主婦
aisarasvati@hotmail.com