ぎっくり腰

文 / 山本正人

毎年定期的に、
1つ30キロの米袋を仕入れては
納戸に仕舞い込む作業がある。

去年と打って変わって、
今年は米の豊作から備蓄米が安く出回り、
我が家にも4袋の米が届いた。

考えてみれば我が家は子供含めて6人の、
今時では大所帯と言えるのかもしれない。

米袋を1つずつ抱えながら
そんな事を思っていた。

これと言って大変な事は何一つ無い。

あわよくば、(水槽の魚にエサをあげなきゃ)と
よそ見しながら3つ目の米袋を持ち上げようとした時、
腰の辺りに「グギッ」という鈍い痛みが走った。

途端、立っている事が苦痛になり、
痛みから逃げるように仰向けに倒れ込む。

「もしかして・・、ぎっくり・・腰!?」
天井を見つめながら咄嗟に不安がよぎる。

今まで体の丈夫さには自信があっただけに、
まさに青天の霹靂とも言うべき出来事に呆然とした。

少しの間、玄関の踊り場で
腰骨がズレて外れてしまうような痛みを感じながら、
私の冷静な一面が(ここに寝ていてもダメ)と警告する。

そこで、まだ痛みの全容が分かる前に、
どさくさに紛れて二階の寝室まで何とかずり込んだ。

それから二日間は、完全な寝たきりになった。

ぎっくり腰は、腰から骨盤にかけてある筋肉の炎症だそうだ。
日頃、同じ姿勢を繰り返したり、
長時間のデスクワークなどが原因になり得るとのこと。

ただただ自分にとって、
いつまでも若いという慢心が、一気に吹き飛ぶものだった。

腰の痛みなので上半身を少し起こす程度は寛げそうに思えるが、
これがほんのちょっと寝返りするにも一苦労な程、痛みが走る。

しいて言えば、ただじっと寝ている間も、
筋肉が引っぱられ、外れるような鈍痛が終始あるのだ。

こんな状態だから、
恥ずかしながら食事も嫁に世話してもらう事になった。
腹這いになりながら、料理を口へと運んでもらう。

これがもし、もっと危機的サバイバルな状況であれば
もちろん痛みに堪えてでも、自分で頬張ったのだろうが、
正直、初めの二日間は腹這いでさえ苦痛であったし、
こんな時だから素直に甘えた。

嫁に世話してもらいながら静かに食事をしていると、
こういった非日常では得てして
当たり前の健康と幸せを噛み締めるものだが、
私は、今年4月に他界した親父の事を思った。

親父は晩年、筋萎縮症という筋肉が徐々に衰える難病を患い、
両手が使えず、お袋に毎食介護が当たり前になっていた。

この筋萎縮症という病気は、
患者によって進行度合いや悪化する部位も変わるのだそうで、
親父は幸いにも、歩行する筋肉の進行が遅かったため、
多少は動き回る事が出来た。

ただ握力がゼロに等しく、腕を上げる事も到底出来なかったから、
食事はもちろん、着替えやトイレ歯磨きと
四六時中、お袋が身の回りの世話をしていた。

そして、食事の時も、
お袋が一口ずつ口元まで運んでいた。

親父はもともとお喋りな人間だったが、
病気のせいで声量も弱っていたため、
黙々と料理の味を楽しんでいたものだ。

まさにその時の情景がまざまざと甦った。

親父はどちらかというと、
他人の気持ちを考えるのが下手な人間だったと思う。
だからよく、
叔父や叔母に横暴な言動を咎められていたものだった。

そんな性格だから、よくお袋を泣かしていた事を、
幼い私の遠い記憶に思い出す。

それが晩年は、お袋に介護されながら、
「言うこと聞かなきゃ、やってやんないよ!」と言われる側にいた。

仕返しとかそういうことじゃなく、
親父がお袋の範疇に収まった事で
2人が共有した長い時間のプラスとマイナスがゼロになったような。

そして2人がどことなく穏やかに居るような。

実の息子だからといって、
親の夫婦関係を、2人の気持ちを、手に取るように分かる訳ではないが、
出会うべくして出会い、添い遂げた関係だったように思う。

もしくは、長い時間の先に見える何かが、
そのとき2人に同じく在ったのかもしれない。

私は、嫁に一口ずつ料理を養ってもらいながら、
彼女の横顔を見て、これまでの事を思った。

こちらの視線に気付いて嫁は、
「何か?」と煙たそうに言う。

私は、
「こういうのも、たまには必要だな。」と、ボソッと呟く。

「ね〜、自分で食べれるなら食べてくれる?」と、
ほとんど呆れ気味で妻が言う。

山本正人 Masato Yamamoto 1976~
群馬大学教育学部卒 長野市在住