私が小学校に上る時期に合わせて、
新しい家が出来上がった。
分譲住宅地の抽選で最後まで残っていた区画が、
とりあえず申し込んでみたら当選してしまったそうだ。
とはいえ、
自営の印刷業を営んでいた親父の仕事も
当時はかなり順調で、
それまで住んでいた木造長屋の借家から、
とうとう二階建ての立派な持ち家が完成した。
今でもはっきりと記憶に残っているのが、
以前の借家のトイレは、今ではさっぱり見かけなくなった
まさしく“ボットン便所”。
便器の下に広い空間があり、
そこに汚物を溜め込む作りになっていて、
小さい子どもが一歩足を滑らせれば、
それこそ地獄に落ちてしまう構造になっていた。
夜になるとその地獄が、幼かった私には堪え難い恐怖であった。
真っ暗な便器の中から手が出てきて、
引きずり込まれるのではないか。
中に落ちたら、叫んでも誰も気付いてくれないんじゃないか。
まだ自分の名前も書けない子供ながらに、
出来る限りの恐怖を考えていた。
でも面白いもので、怖いと思えば思うほど、催してくる。
私は兄弟の中で一番、寝小便をしたのではないかと思う。
だから、新しい家が出来た時はとても嬉しかった記憶がある。
新しい水洗トイレは底が見える。
細い管の中を流れていくから、
怖い人がトイレから出てくる事なんて出来ない。
未知の恐怖は知りたくなるもので、
父や母に何度も聞きながら、
小学校1年生にして、ボットン便所や水洗便所の構造を熟知していた。
こういったところが、
理論的に物事を解決しようとする、今の私の思考を作り上げたのかもしれない。
ただ一つ、
新しい家が建ったおかげで、嬉しくなかった事がある。
私の両親は共働きで、
昼間は誰も家にいなかった。
だから、家の近所に学校はあるのに、
母方の祖父母が住む学区の小学校に通っていた。
朝、親の車で学校まで登校して、
授業が終わると祖父母の家に下校、
夜暗くなってから、父か母のどちらかが迎えにきて家に帰る。
今であれば、実家から祖父母の家まで
車で10分と掛からない距離にあるのだけど、
幼かった当時の私には途方もなく遠くに感じた。
この環境で私が嫌だったのは、学校が休みの日。
同じクラスの友達はみんな、
気軽に遊びにいける距離にはいない。
休みになると親父によく、
「学校のグランドに遊びにいきたい」とせがんだのを覚えている。
しかしながら、たまの休みの親父は腰が重く、
遊びに出掛けるといえば、兄と妹と一緒に近所の公園だった。
私には学年が二つ上の兄がいた。
“いた”というのは、15年ほど前に不慮の事故で他界しているからだ。
はっきりした原因は分からない。
唯一はっきりとしている事は、私の知っている兄は自殺などしないという事。
兄は、中学を卒業するとすぐに近所のガソリンスタンドに就職して、
3年間働いて貯めた金を元に、旅行を始めた。
ヒッチハイクを手始めに、全国を回り、
そのうち海外へ行くと言い出して、アメリカ、バリ島、タイ、インドなどを旅していた。
資金が無くなると戻ってきて、
また働きながら金を貯めて、出発する。
彼は旅行が好きで、
事故のあったその日まで6年ほど、ずっと旅をしていた。
私から見た兄は、うざい存在であり、心強い存在であり、
恥ずかしい存在であり、暖かい存在であり、大きな影響を受けた存在であった。
小学校2年生の頃からか、
家の近所に一人だけ遊ぶ友達がいた。
その友人の親は豆腐屋で共働き、
たまたま私と同じような境遇だった。
彼の祖母の家も、私の祖父母の家と近所で、
同じ小学校で同じクラスの同級生だったのだ。
だから、親が許せば一緒に遊んでいた。
小学校3年生のとき、こんな事があった。
豆腐屋の友達と2人で公園で遊んでいた時、
突然、地元の小学生5、6人に囲まれて、文句をつけられた。
「お前ら、何年生だよ」
「俺たち4年生だぞ。ここは俺たちの場所だから邪魔なんだよ。」
歳も人数も上の彼らに、私たちは何も言い返せず、
悔しく思いながらも、その場は仕方なく家に帰った。
その事を兄に話すと、
「これから行くぞ」と言って、
私たちに武器を持たせた。
武器なんて言うと物騒に聞こえるが、
当時流行っていたジャッキーチェンの影響で
親に買ってもらったプラスチック製のヌンチャクと、
友達の家にあったオモチャの警棒だった。
私と豆腐屋は、動揺しながらも、
兄の後ろをそろそろと付いていく。
公園に着くと、さっきより人数が増えていた。
「お前ら何しに来たんだよ。」
「6年生の○○さんがいるんだぞ!」
小学生といえば、学年がひとつ違うだけで、
すごい年上なイメージがあった。
お互いに「何年生か」と聞き合うのもそのためだ。
ビビっていた私と豆腐屋を尻目に、
「だからなんだ!」といって兄がヌンチャクを振り回した。
気付いた時には、そいつらが壁際に並ばされていた。
6年生は兄の執拗な脅しに泣いていた。
「今度、弟たちに何かしたら許さねーぞ!」
兄が5年生のときである。
人数も歳も圧倒的に不利な中、
兄はいとも簡単にやってのけてしまった。
プラスチックのヌンチャクで。
私と豆腐屋はただ後ろで見ていただけだった。
そんな兄は中学生になると、
半年ほどで学校に行かなくなった。
勉強がしたくないからだそうだ。
別に引き蘢っている感じではなかった。
時々「遊びにいく」と言っては、学校に顔を出していた。
修学旅行にも、卒業式にも、
行事といえば出席していた。
そして、中学卒業と同時に就職した。
正直なところ、
兄が中学になった頃から、
一緒に遊ぶ事がほとんどなくなったため、
その頃からの兄のことについて分からない事が多い。
ただ家では夜中まで大音量で映画を見たり、
中学の友人が遊びにきて騒いでいたり。
この頃の兄には良い印象がなかった。
別に人が変わったという感じではなかったが、
どこかマイナスの雰囲気があった。
そうそう、中学校と言えば、
私が中学校に上がるとき、周りは知らない生徒ばかり。
それもそのはずで、
仲の良かった小学校の友達はみな、
小学校の近くの中学へそのまま入学して、
私は一人、家の近所の中学校に行く事になったからだ。
豆腐屋も中学は別になってしまった。
私の母校の中学校は当時、
ひと学年400人からのマンモス学校で、
その中で知っている友達はほぼ皆無。
唯一、
以前から通っていた水泳教室で同じ歳だった知り合いが2人いたが、
クラスは別で交流もほとんどない。
だから、入学当時は嫌な思い出が多い。
もちろん兄も私と同じ環境だ。
兄が中学時代に不登校になったのも、
私と同じように感じていた事からなのか、
一度も深く触れた事はなく、今となっては定かではない。
ただ一つ、気になる事があった。
時は過ぎて、
私が高校2年生の夏休みに、
金が良いからと当時の友人に誘われて、
土木工事のバイトを経験した。
山道の急な斜面にブロック擁壁を施行する現場だった。
そのバイト先は大きな会社ではなく、
数人で切り盛りする下請けの下請けといったところで、
たまたま友人の兄がそこで働いていて、
声を掛けられたのだ。
それまでは、バイトと言っても、
新聞配達と弁当屋のレジ、親父の仕事の手伝いくらいで、
こういった肉体労働は初めてだった。
だから、親方の怒鳴り声や、自分の体重くらいのブロックの重み、
生コンの匂いなど、男臭い職場にかなりの新鮮さがあった。
朝早くに迎えが来て、1日汗まみれで働いて、
毎日夕方にはクタクタになって、夕飯を食べるとすぐ寝てしまう。
そんな分かりやすいリズムの生活に、
心地よさすら感じていた。
ある日、午後から急に雷を伴った土砂降りになった。
そこで作業員はみな飯場に待機して、花札をしたり、
おのおのに休憩をとっていた。
その時、作業員の若い先輩が聞いてきた。
「どこの中学?」
母校の名前をいうと、「マジで?俺もそこだったんよ」という。
「兄弟は?」
兄の名前をいうと、先輩は思い出したように言った。
「兄ちゃん知ってるよ。昔俺、殴っちゃったんだよな、ごめんって言っといて。」
私はその思いもよらない言葉に、
どうしようもない悔しい気持ちが込み上げたのを覚えている。
だからといって、その事を兄に話す気にはなれなかった。
後で分かったのだが、その先輩は、
母校では当時かなり有名なワルだった人で、名前だけは知っていた。
兄が海外へと旅をするようになって、
ある日突然、サンドバッグを背負って帰ってきた。
なんでも、タイで見かけたムエタイに興味を持ち、
現地のジムに通っていたと言う。
それからは、何度となくそのジムでトレーニングしていたようだ。
男なら誰しも一度は、
「強くなりたい」と思うのかもしれない。
兄が中学のとき、
腕相撲が学年で一番くらいに強いヤツがいると言っていた。
でも、卒業前にその強者を腕相撲で負かしたそうだ。
もしかしたら兄は人一倍、
強くなりたい気持ちがあったのかもしれない。
そして兄は、私を守ってくれた。
私が高校3年生の時にも、
その変わらない兄を見た。
その日は夕方から高校の友達と、
一度もまともに成功した事の無い「ナンパ」を懲りずに、
夜の街をうろついていた。
そして私はむしゃくしゃしていた。
至極私事だが、
私の両親が離婚に向けて揉めていた直後だった。
私にとっては父も母も、切っても切れない血のつながりがあるが、
父と母にとっては、離婚すればそれまでとも言える。
だから「好きにすれば」といった。
ただ、無性にむしゃくしゃしていた。
大衆居酒屋に入って、
他の友達は女の子に声を掛けに行ったのだけど、
私は席に残って、周りの客を眺めていた。
端から見たら態度の悪いガキだっただろう。
案の定、ある若いグループの男と目が合った。
そして、イチャモンのつけ合いから、
店の外に出て喧嘩になった。
いや、
喧嘩と言うよりは、
一方的に殴られてボコボコにされたと言った方が正しい。
私はそのとき、どうにでもなれと思っていたから、
気持ち良いくらいに殴られた。
異変に気付いて止めに入ってくれた友人がいなかったら
どうなっていただろうとも思う。
翌日、顔が倍に膨れ上がった私を見て、
丁度旅行から帰っていた兄が言った。
「誰にやられたんだ」
「そいつ、どこのヤツか分かるのか」
そう、兄は昔とまったく変わっていなかった。
小学生のときに私を守ってくれた兄がそのまま、そこにいた。
兄は、世間から見たら、まともには見られなかったかもしれない。
腰まである髪と入れ墨、
伸ばしほうけている髭とタンクトップにサンダル。
でも、私にとってその愛は、
この広い世間を探しても見つからないくらいに深かった。
あえて“愛”という言葉を使ったが、
他に表現が見当たらなかったからだ。
古き良き昭和の男前を絵に描いたような男気があった。
私が、最後に兄と2人だけで過ごした時間は、
一浪して受かった大学の手続きのために、
車で大学まで遠出した時だった。
隣県だったからそう遠くはないが、片道200キロほど。
車の中で何を話したかまでは覚えていないが、
大学構内を2人で歩いている時に、兄が言った一言が耳に残っている。
まだ3月の終わりで、大学も授業が無い筈だったが、
構内には学生たちが思ったより歩いていた。
兄の風貌は、構内ではあまり見かけない部類だろう。
学生たちの視線が刺さる。
でも兄はそんな事を気にする様子も無く、
構内の若い娘たちを見て私にこう言った。
「いいな〜、若い子がいっぱいいて!」
そう言われて、私もまんざらではない。
これからの大学生活に虹色の甘いイメージを膨らませる。
そのとき兄は、すかさず真顔で私に忠告した。
「でもな、忘れるなよ!一人の女を愛せよ。」
大学3年生の時、
学校の仲間と夜食のラーメンを食べている時に、珍しく母親から電話が鳴った。
兄が、ネパールで死んだと、現地の日本大使館から連絡があったと言う。
母は動揺していたので、私が妹に連絡をした。
場所が場所なだけに、
私と妹は、兄の死に目に会う事は叶わなかったが、
その年の終わりに家族全員でネパールのカトマンズに訪れた。
兄が泊まっていたゲストハウスは5階建てで、
その屋上から転落死したそうだ。
実際に屋上まで上がると、日本とは違い、
囲いもフェンスもなく、腰くらいの高さの石造りの手摺りがあるだけだった。
兄だったら、その手摺りに座って、景色を眺めそうだなと想像した。
兄はこの旅行を最後に、当分は旅はやめると祖父と話して、
祖父の兄弟が持つ空き家に住むと約束していた。
現地のネパールの新聞は「自殺」と書いたそうだが、
兄は地面に落ちる瞬間に受け身をとっていたそうだ。
だから、頭はほとんど無傷だった。
自殺であったら、あり得ない状況だ。
そんなことより、何より兄は自殺をするような人間ではない。
ネパールの町並みを眺めながら、
「兄は旅をしながら何を求めたのだろう」と思い巡らした。
今から15年ほど前のことだが、
結局未だに答えは見つからない。
ただ、今も小学校の時の兄を鮮明に思い出す事ができる。
「一人の女を愛せよ」と言ったまっすくな兄の顔を、思い出す事ができる。