アンドレ・マルローは「ルオーの新作についての覚書――絵画における悲劇的表現をめぐって」[1]の中で、ルオーとドーミエを次のように対比する。
「……ルオーとドーミエを近づけて扱うのをよく見かけるが、その度ごとに唖然とした感を抱く。なぜならこの二人の画家は、私には全く正反対の立場に思えるからである。ドーミエにとっては世界は一つしかない、人間の世界があるのみである。[……]個別な世界に、個人的なあるいは職業的な世界に、自分の限界をおいている。彼はモデルを翻訳しようと欲する。そして翻訳することによってモデルを征服する。[……]ルオーにおいては、モデルは存在しない。モデルは彼にとっては一種の可能性であり、彼のエクリチュールが自由に創り出すものである。」
リアリストで風刺画家として名高いドーミエ。彼を代表するメディアであるこの風刺画(カリカチュア)とは、政治的/社会的な変革を促す尖鋭的な手段であった。それは既存の力に抗するための手段(ツール)としての芸術であり、情報戦・心理戦・世論戦において極めて有効な「武術」(マーシャル・アーツ)、すなわち力を操る術なのである[2]。
たとえば、彼の有名な作品に、フランス国王ルイ・フィリップの顔を洋梨に見立て、描かれたとされる絵(『ル・シャリヴァリ』紙に掲載)がある。数多くの美術やマンガ入門書で「デフォルメ」の良例として紹介される絵であるが、このように描かれた所以はなにも、顔と洋梨の形状の、その類似性からだけではない。それは、ルイ・フィリップのイメージと洋梨(ポアール[poire])が意味するところの『うすのろ』というイメージが、あまりにも似ていたから(あるいは、そうあることを望まれたから)描かれたのだった。つまり、ここでおこなわれた操作とは、単純な形態のデフォルメだけではなく、イメージと語義の転移であり、重要なことは国王と洋梨という、一見かけ離れたものの「置換可能性」を提示したことにあるといえる[3]。
一般的な了解にもとづく国王と洋梨のイメージのように、置換されうるイメージとイメージの距離=ポテンシャルが大きければ、その和(力学的エネルギー)は、より一層大きくなる。ドーミエによる軽妙な語り口は、だからこそ民衆を惹きつけたのだった[4]。こうしたドーミエの放つカリカチュアを含めた革命派の攻勢=カウンターを押さえるために、ルイ・フィリップ王政は言論弾圧法(九月法)を発令することとなる。しかし、それも虚しくこの王政は崩壊の運命をたどるのだった[5]。
強大な力は、それと同等の反発力を生じる。この後、発足した第二共和政の臨時政府は、まるで、こうした力学を恐れるかのごとく、生存権・労働権・結社権などの諸権利を民衆へと移譲(分散)することとなる[6]。
ルイ・フィリップ王政による圧政後、民衆の暮らしへと視点を移したドーミエだが、同様にルオーもまた、道化や娼婦などといった民衆を描いた画家である。くわえて、ドーミエはガラス職人の父をもち、他方ルオーもステンドグラス職人の父をもつのであった(ルオー自身もステンドグラス職人である)。
このルオーに対し、マルローはこう述べる。「……ルオーは見る人ではなく、存在する人である。[……]人間の苦悩によって神に走り、世界との調和が永遠にできないことを知る唖人の作品、あるいはマゾヒストの作品と呼ぶことができるもの、それがルオーの作品である」と。
たしかにルオーの作品には、ドーミエのような饒舌さ(おおよそ誰しもが共感しうる、ある種の観相学的な描写)はない。描かれた人物は、ただグロテスクな身体を晒すのである。その瞳は閉じ、あるいは潰され、こちらを見返すことはない(仮に瞳が判別出来たとしても、視線は観客から、ほんのわずかにそらされ、まるで「人形」でも眺めているかのように、視線が重なりあうことはない)。ロートレックの作品に登場する娼婦や道化たちの、観るものを意識し挑発する艶かしい視線=媚態とは異なり、ルオーによって描かれた人物たちは、マゾヒストのごとく一方的に観るものの視線に晒されるのである。
ジル・ドゥルーズによれば、マゾヒストにとって自らを縛る法は、このうえない厳密な適用によってこそ、当初期待されていたものと逆の効果を生む。鞭で打つことは、勃起を罰しあらかじめ禁止するどころか、さらに勃起を誘発し、より堅牢なものへと変貌させてしまうのである。自身を緊縛するはずの法を、こうして器用に転覆してみせるのだ[7]。
ルオーの作品においてもまた、こうしたある転覆がおこることはよく語られる。その転覆とは、人間の欲望を背負わされた道化や娼婦と、人間の贖罪の責を負うキリストとの両者のあいだに顕現する。一般的に、ルオーの作品において指摘される「聖性」や「宗教性」は、そこにこそ顕われる。そして、マゾヒストとルオーの作品、この両者の相似性、つまり転覆が許される条件とは、ともに原罪や欲望といった、本来的に抗することのできない「法」(法則)のもと、すでに罰せられている(受苦性の行使)という条件なのである。
「宗教的なもの」の核心こそ、語りえぬ聖なるものの体験である[8]とルードルフ・オットーはいう。いいかえれば、この「宗教的なもの」とは、理性的には受け入れ難いものを、感覚がすでに受け入れてしまっているという事実(予覚=直観)にこそ裏付けられている。こうした体験は、合理的に把握不可能であるかぎり、つねに受動的に非合理的な諸感覚へと開かれるしかない。
たとえば、感覚器官の中でも、舌は閉じることも、塞ぐことも出来ない(たとえ巻くことは出来きたとしても、舌はむき出しの器官として辛苦に触れ、どうしてもこれを味わってしまうのである)。
ドーミエの作品が、観察者の饒舌さをもつのであるならば、唖人ルオーの作品は、いわば絶句による饒舌の廃棄である(知ってのとおり「饒舌さ」とは、本来的に感覚器官としての舌の機能を表すことばではない)。
マルローの「ドーミエにとっては世界は一つしかない、人間の世界があるのみである」という皮肉は、ここにこそ向けられる[9]。ドーミエの風刺に描かれる(それが世相や風俗への風刺であったとしても、だからこそ)社会的な一般性(それは往々にして観察者のイメージの投影にすぎない)こそが形づくる人間の姿。
ドーミエの置換は、あらかじめ与えられた社会的な了解(法)にもとづき、それを構成している要素を操作しているにすぎないのに対し、ルオーの転覆は、法(法則)を酷使することにより、結果的に、その法が転覆してしまうのである。それは「聖性」といった、絵画史の中で連綿と受け継がれるテーマを、低俗でグロテスクな身体をとおし描くといった手法にあらわれているだけではなく、ステンドグラスのように、光から、かたちづくられるはずのイメージを、不透明で物質感のある絵具で、絵画自身の技法的ジレンマを、ことさら強調するように描くといった技法的側面からも伺い知ることが出来る。
つまりルオーは、画題における慣習法〈キリストの復活という奇蹟を描くためには、まずキリストの死体を描かなければならないように〉と、画材における用法〈光を描くとき、逆に、生々しい絵具の盛り上がりが出来てしまうように〉とを「厳密に適用」しているのだった。
そして、なにもよりも雄弁に語ることだけが、現実に対して贖うための手段ではないと、ルオーは教えてくれるのである(マティスにおける「色彩の優位」とピカソの「形態の優位」という、絵画史上の対立に組み込まれることのなかったルオー)。
たとえば、巻かれたこの舌が、なにゆえ噛み切られないのだろうか? それは味覚という知覚をつかさどるこの器官が、眼にも、耳にも、口にも、代え難いもの=置換不可能なものだからである(置換不可能なものは、いかなる力をもっても排除できない。それだから、政治性は、むしろルオーにこそある)。不定形に変形する肉塊としての感覚器官。口の中に鎮座するこの器官は、噛み切られることなく、ただ存在するのである。
—
[1]『アンドレ・マルロー「ルオーの新作についての覚書――絵画における悲劇的表現をめぐって」の翻訳と解題』堀田郷弘、城西人文研究、1986年
[2]講道館の創始者であり柔道家の嘉納治五郎は、「無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術」であると柔術を定義した。なお、剣術や合気道において重要なのは「足」であるとされる。それはつまり、相手との「位置関係」(間合い)である。
[3]そもそも権力という概念は、17世紀、古典力学の発展を背景として生み出されたといわれる。たとえば、権力の顕われでもある「遠近法」は、ある視点を定めることにより点在する事物に対し、階層順序、空間的序列を与える。これは逆説的に、点在する事物の階層順序、空間的序列が、ある視点へと見る者を誘導するということでもある。物体の位置エネルギーと運動エネルギーの和から力学的エネルギーが求められるように、この視点(あるいは視点を定める権力)も、事物の布置(階層順序、空間的序列の総体)から求められるのである。位置エネルギーと運動エネルギーの大きさが、力学的エネルギーの大きさと比例するように、複数の事物間における、階層順序、空間的序列の距離(落差)が、その眺めを担保する権力(視点)の大きさを物語る。無意識化された権力の存在は、こうした事物の布置を変えるとき、はじめて顕在するのである。
[4]「置換」という行為が「力学的エネルギー」の発露であるかぎり、その抽出は困難を極めることとなる。なぜなら置換後のイメージは、すでに「結果」でしかないのだから。E.H.ゴンブリッチは、その著書『芸術と幻影』の中で次のエピソードを述べる。「仏語の《ポワール(梨)》には「うすのろ」の意があり、フィリポンが主宰する諷刺新聞は国王を《ポワール》として絶えず笑いものにし続けたので、発行者である彼はついに出頭を命ぜられ、重い罰金刑が課せられるはめになった。有名なこの一続きの画面は、戯画化の過程を示した一種のスローモーションによる分解図であって、彼の主宰紙に釈明として発表されたもの。等価を口実にして連続画が構成されているわけで、一体どの段階でわたくしは罰せられるのか、と問いかけている。」
[5]ドーミエは、1835年、言論弾圧法(九月法)が発令されるまで、風刺雑誌『ラ・カリカチュール』や日刊紙『ル・シャリヴァリ』において、数多くの石版画(リトグラフ)を発表した。しかし同法発令により、逮捕・投獄される。ドーミエはこうした経緯から当時のパリの民衆の暮らしへと視点を移し、道化などといった風俗風刺画を描くこととなる。
[6]第二共和政よって言論/出版の自由が与えられると、200以上もの新聞が発刊された。
[7]それゆえ、マゾの語源となるザッヘル・マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』は、その中の登場人物が、その快楽をえる条件としての契約(法)を、相手と取りまとめることから始められる。ジル・ドゥルーズは『マゾッホとサド』という著作において、法を無化(拷問によって法に対する解を量産)し超克しようとするサドのイロニーと、法を厳密に遵守することによって(転じて)嘲弄するマゾッホのユーモアとを対比する。
[8]ルオーと同時代を生きたドイツの宗教哲学者であるルードルフ・オットーは著書『聖なるもの』の中で、この非合理的なものとしての聖性を「ヌミノーゼ」という概念のもと包摂した。この非合理的なものは、16世紀後半からプロテスタントにおいて、布教を目的とし敬虔感情だけを中心に合理化、理論化する中、「聖なるもの」から抑圧され排除されていった。「ヌミノーゼ」は「聖なるもの」という概念の使用において、倫理的、道徳的なニュアンスを分離し、聖なるものの本源的な次元をしるしづけるため、オットーによって、ラテン語「ヌーメン(numen)」(神霊)から導かれた造語である。
[9]さらにマルローは、ドーミエに対し、先の引用に続けてこう述べる「ドンキホーテからサンチョに至るまで、つまり神々の弱さを自らの夢によって償うものから自分自身によってそれを償うものに至るまで(裁判官やブルジョアはこの内に含まれる)そうした人間の世界をドーミエは描く」と。実際、ドーミエは「ドンキホーテ」を好んで描いた。「ドンキホーテ」の風刺のレトリックは、狂気をもって自らが中世的価値観の体現者(騎士道物語の主人公)として振る舞うことからもたらされる。キホーテが現実とかかわることにより、様々な不具合(解)が展開されていく。こうした主人公の振る舞いは無論イロニーと化す。
●ルオーの作品は、現在開催中の『モローとルオー[聖なるものの継承と変容]』(松本市美術館にて、2014年3月23日まで)で観ることができる。
—