アートと思考⑥ ハイパー・ポルノ社会の神話と構造

文・写真 / 服部洋介

『公共事業ポルノ』の一場面 2013

『公共事業ポルノ』の一場面 2013

 今年の2月、六本木のギャラリーhiromiyoshii roppongiにて開催されたレスキー・リーの写真展『FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE』において、男性器モロ写りのメイルヌード写真集を恥ずかしげもなく販売したかどで、オーナー兼ディレクターの吉井仁実さんといふ人ほか3人が、わいせつ図画頒布容疑でしょっぴかれるという事件があった。前稿『「10×10」~アートをめぐる学芸会論争史~』で書いたように、『Nagano Art File 2013 10×10』を開催したARTSPACE FLATFILE(長野市)のオーナー・モリヤコージさんも、不届きな作品の管理には苦慮され、おかげで私はブタ箱にぶちこまれずにすんだわけですが、吉井氏の場合、未成年者は入場禁止、女性客に対しては、刺激的な作品が展示されている旨を事前に説明することで、人様に迷惑をかけないよう配慮したにも関わらず、結局、留置所に泊められる羽目に陥った。
 で、警察の取り調べに「こっちがアートだと思っていても、国家の基準がわいせつだっていうんだから、ある程度しょうがない」という趣旨のことを話した吉井氏。「芸術とわいせつは同義語だと思うんです。芸術であるしわいせつである、わいせつであるし芸術である」(1)と言っている。その決定不能性のゆえに、人から「わいせつ」と言われればそれまでだという結論が導かれるのだが、同じものをとりあげて「これは芸術だ」と決定することもまた、一つの暴力である。デリダの文脈では、決定(すなわち「制度開始の瞬間」)とは、すべて暴力であり、ドゥルーズならば、それは無知の上にこそ成り立つ行為だということになるだろう。「自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのでないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、必ずや言うべきことがあると思える。(…)わたしたちの知とわたしたちの無知を分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な先端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然として書こうとするのである。無知を埋め合わせてしまえば、それは(…)書くことを不可能にすることだ」(2)。ちなみに、会田誠を扱っている三潴末雄(MIZUMA ART GALLERY)も 警察のご厄介になるのは、常に覚悟の上と言っているらしい(3)。確かに「天才でごめんなさい」というか、「変態でごめんなさい」だねえ。みんなは見たかい?(4)
 さて、こうした状況について、吉井氏は「アーティストに限ったことではないですが、別の方向で考えてみると、自分自身で考えて選択する、ということがうまくできなくなってしまっているのではない」かと仮定する。その中で、アーティスト自身「知恵を使って、探す、選ぶ、ということをやらなくなってしまった。社会が選択肢をなくすような環境を作っていて、自らも選択肢を与えられなくなっているのではないか」というわけだ。そこで彼は、教育の重要性を強調する。「芸術の見方、感じ方を教える事が重要だと思います。例えばアメリカやヨーロッパに行くと、鑑賞教育が7割ぐらいあるので、美術館に子供がたくさんいますよね。日本は鑑賞教育のプログラムが1、2割ぐらいしかないんです。だから、見て感じる想像力や、自分で選ぶ能力が欠如しているんじゃないかと思っている」。かつて、同じことをモリヤさんも言っていた。「日本はデッサンなどの受験教育が徹底しているのに比べ、向こうの人は絵を描く考え方や作る過程を小さい頃から勉強しています。もう教育が違うんですね。絵も描けない人も多いけど、それが何なのかは説明できる。だから作品に直面した時も、自分なりに解釈できる」(5)。
 かねて書いているように、批評も解釈もどこまでも主観的なものであり、その主観性にこそ言説の根拠があるのであって、客観的であるが故に正当なのではない。通約可能な「正義」は存在しない。「正義」は「法」への照会によって計算されるにすぎない。そして、「法」が「正義」を参照することで計算されるならば、ほとんど解釈学的循環に陥ることだろう。したがって、ハイデガーの言うように、もし全体が理解されるならば、先入見や前了解は、むしろ必須のものとなる。この通約不可能的状況の中で、ある言説が特権化され、規範あるいは制度としての地位を占めるには、現前不可能な先入見(たとえば神)が要請されるといった次第である。
 この先入見(前提)は、準拠集団(ある主体が帰属する集団)のもつ信念、や価値観に代表されるが、それと相反するような個人的な信条も原理的には先入見である。レスキー・リー写真集事件は、この準拠枠への応諾と抵抗によって図式化されよう。吉井氏は、世間様の規範に同調せず、同展の開催に踏み切った。「社会において常に選択肢があることを、認識していること自体が少なくなっている。アクションをおこしていかないと、特定の権力者の思うがままになってしまうのではないでしょうか」(6)と、吉井氏。構造構成主義的にいえば、規範や信念は関心相関性(意味や価値は主体の関心・欲望と相関して決定されるという原理)において捉えられるわけで、この絶対性や単一性の放棄、通約不可能性の甘受と、ユートピア的世界の複数性の構想を、吉井氏はアートにおけるビジョナビリティ(visionability)と呼んでいる(7)。
 「国家の基準」に対する同一化の要請について、吉井氏は一定の理解を示している。ところが、その価値は、彼において内在化されておらず、応諾は表面的なものにすぎない。こうした同一化の要請は、社会のあらゆる局面において見出される。家庭、学校、職場――そこでは、ほぼ例外なく、本心から同意したわけでもないのに、すでに公的に同意したということにされている暗黙の約束事が、規範として力をもっている。「規範」は、スタンレー・ミルグラムのいわゆる「アイヒマン実験」(1963)の結果、ある特定の状況下において、自立性を放棄させ、権威への服従を惹き起こす説得因子(8)の第一に挙げられている。逆に、これらの因子が働かない状況では、服従は起こりにくい。俗にナチスの幹部の名で呼ばれるこの実験は、被験者に命じて他者に電気ショックを与えさせるというもの。まず、ミルグラムは、被験者に協力の同意をとりつけ、実験者の監視下に置き、被験者に直接には手を下させず、科学の威光のもとに実験を行った。被験者は、実験に協力して報酬を受け取ることに同意を表明した手前、この拷問実験から下りることができなくなり、ずるずると続けてしまうことになる。以前に会った関西の経済ヤクザもこの手の説得手法で人を追い込んでいたが、厄介なのは見てわかる脅しよりも、恩(贈与,don)を売り、人情に訴えて人に 「負債」を背負わせる手法だ。哲学的には、ニーチェが提起し、デリダに引き継がれた問題意識に関わるのだろう。
 同意が明白なものであったとしても、本心からの同意とは限らない。しかし、人の本心などというのは形而上学的領域であって、もともと現前するものではないから、確認のしようがない。仕方がないので、書面にしてサインなどをするといった外形的行為によって、サイナーの本心に関わらず、その発言は行為拘束型の行為遂行的発言として機能することになる。実際のところ、これは政治的な発話であり、単に「サインをしたか、しなかったか」的な事実確認ではない。契約の背後には強制や抑圧が隠されている。契約に含まれる署名者の「不誠実」さを故意に無視する非現実的な解釈は、社会規範を盾にして、支配の口実として使われてきた。吉井氏に言わせれば「いまは思考能力をそぎ取られているようなものですからね。その閉塞感は感じていて、とりわけ近ごろのアーティストを見ても、概念や価値観、固定概念に縛られているように感じます」(9)。規範を参照し、規範から正義を計算しようとする限り、これは避けられない事態であり、ある意味、原理的ですらある。
 一般の意味で、規範や構造が嫌で仕方がないということになると、村上隆から「自由という名の野良犬」だと怒られるわけだが、彼の持論をブルーバッハ―の挙げるエッセンシャリズム教育の特徴と比較してみよう。自由よりも予備校的なカリキュラムでエッセンシャルズ(必須知識)を学び、歴史や古典といったレイヤーを多重的に串刺しにし、自己規律をもち、自由はその報酬として与えられる。そして、前世代で洗練され、普遍化された経験が、若者のそれに優先される(10)――もっとも、戦間期アメリカのエッセンシャリズムでは、当然のことながら、究極目標として神が措定されていた。カイカイキキに神はいないかも知れない。しいていえば、「ネ申」は宮﨑監督だろうね。
 それはともかくも、エッセンシャリズムは価値の実在論であるから、既存の構造や秩序、エチケットや価値観は、あくまで実在である。つまり、法的かつ一般的な公理であり、単なる関心相関的な現象ではない。すると、再び法への応諾の問題が立ち現れる。あらゆる言明は前件が省略された仮言命題である。「人を殺すのは悪である」の前には「人を殺すのが悪ならば」が隠されている。これではトートロジーだ。どうして悪なのかの説明はない。悪と決めたから悪なのであり、この暴力的な「制度の開始」(定義)なくして、話は前に進まない。いずれにしても、完全な応諾、つまり内在化を伴う同一化が、普遍的に成り立つことはないので、条件つきで提案されることになるだろう。「もし、うまい話に乗りたいなら、社会のルールは守れよ」(村上)というように。つまりは利得関数の問題だ。ルールが正しいかどうかは別問題だ。
 人々が前了解的に抱いている「社会とはこういうもの」「こうしなくてはならないもの」という先入見に、いちいち論理的なツッコミを入れると、大変に嫌がられる。決まっていることは決まっていることとして受け入れないと、それだけで社会性のない奴ということになるのですが、「社会とはこうしたもの」という現実自体、ある言説の特権化であり、「へえー、そうなんだ」と思い込んだら、それは「現実」になる。極端になると、ウォルフレンのいう「偽りの現実」(false reality)(11)のように、権力によるでたらめな説明が、人々の現実認識を形作ることもある。というより、全ての人は、原理的に現実の「全体」を参照することができず、部分情報しかもちえないため、客観的な現実を共有しえないのである。
 この「全体」は、形而上学であり、確認も検証もなしえない。厳密には、あらゆる言説は、この全体性に対する参照不能性のゆえに、発話の瞬間に、全体との関連において事実を歪曲し、あるいは限定せざるを得ない。そこで提起される「現実」は、話者によって特権化された政治的な見方にすぎないということだ。話は吉井氏に戻るが、氏はこう見えて、市原研太郎とともに9・11後の美術的潮流を「アフター・ザ・リアリティ」と名づけ、日本の美術評論を牽引してきた一人でもあって、リアリティ(現実)についても一家言をおもちだ。基本的なスタンスは、われわれが、同一かつ単一の現実を生きているという普遍的現実という仮構の放棄にある。現実は過剰なイメージの皮膜に包まれており、体験より先にイメージが物事の枠組みを作り上げてしまう。われわれは、先行するイメージを参照することで、われわれ自身のしていることの意味を了解する(12)。どういったイメージが幸福であり、どんなイメージが価値をあらわすか――も含めて。おおむね、そんな問題提起をしているが、基本的にはボードリヤールの『消費社会の神話と構造』の線上にある。
 大きくいうと、イメージや概念によって先取りされた「現実」は、自己成就予言(self-fulfiling prophecy)の一種で、国際流行色委員会があらかじめ定める流行色のようなものだ。同様に、アートについても、「これはアートだ」という言説による指示(「これはわいせつ物だ」という指示でもよい)が、モノを実際にアートにしてしまうことがある。それどころか、イヴ・クラインに至っては、1958年の『空虚』展で、なにもない空虚を展示し、おまけに売った。今日、モノはなくとも、コンセプチュアルな言説があればアートは成立する。言説なしでは空虚はただの空虚にすぎない。
 ここでは、アートは、実用を離れたシミュラクルとしてのアートとなっている。鑑賞物としての可視的な物体は存在しない。ここで、クラインの「空虚」を、何か別のもので置き換えてみよう。『公共事業ポルノ』(2013)では、鑑賞者を大仰にセッティングされた会場に招待し、そこで参加型アートを体験してもらった。が、参加者は頭から百貨店の紙袋をかぶせられ、結局、何も見ることができない。感想を聞くと「何が起こっているのかわからなかったけど、逆にそれが面白かった」「途中、少し寝ちゃいました」。まあ、実質、何も見てないんだから、感想ったってそんなもん。ところが、実際には参加者のすぐ間近では、マリーナ・アブラモヴィッチな状況が延々と展開されていた。そこまでやっときながら、参加者はただ袋の内側を見て終わり。見えないどころか、何が起きていたのかもわからないという意味では、アコンチの『苗床』(1971)を上回る最低のオナニー・ショー。アーティスト的には、超無駄な労働だな、これ。いらないでしょ?
 この無意味さがポトラッチだ。モノ余りの高度消費社会では、供給が需要を上回るので、仕事がない。だが、社会規範的ないし貨幣経済的には、何か仕事をしないといけないので、魚を釣って売るとしよう。魚は居酒屋で料理され、飲み会の席に供されるが、酔っ払い客は刺身には手をつけず、残飯として処分される。結局、魚は最初から不要なのだが、この手の浪費がなければ、もはや経済は回らない。北米先住民のポトラッチにおいては、贈与された財をその場で焼き捨てるなど、確信犯的な浪費が行われていた。なら最初から余剰を生産するなよ、という話になるわけですが、魚の例でわかるように、この状況では、魚はすでに実用的な意味をなさない形だけのシミュラクルだ。官僚の天下りも同じ原理で、そこには形式的な仕事のシミュラクルが用意されている。オリジナルはすでに飽和しているので、食べるためだけに魚を釣りまくったり、仕事をするためだけに官僚を役所に置いておいたら、稼ぎは暴落。食べないのに買ってくれる人がいて、仕事がないのに働いている人がいるからこそ、平和が訪れる(テカ、休めよ……)。この過剰化過程では、とにかく無駄な仕事を作りまくるのが大事。そして、消費しまくるわけです。もっとも、いくら無駄な仕事を作っても賃金がついてこないのが最近の問題なわけで、さらに、富の総額と負債の総額が金融的にイコールであるように、政府が公共事業でポトラッチしまくった金がなぜか国民の金融資産として貯蓄されてしまい、今度は国民と銀行がポトラッチしないから、政府が借金できなくなるという状況は、過剰化と過少化のサイクルが閉塞し、富の偏在が常態化することを意味している。クリントン政権の商務省副次官のD.ロスコフは、米国で流行した富裕層の慈善事業について「エリートたちが、いつか起きる大衆の反発に備えて、事前にダメージの軽減を図ろうとしている可能性」(13)を指摘、ポトラッチ的散財で大衆の怨恨を回避しようとしていると見る。勤勉・倹約・貯蓄という資本主義的美徳を口実に過剰化プロセスを進めすぎると、格差で共同体の同一性(成員間の応諾)が失われ、しまいには戦争やバブル崩壊という強制ポトラッチが起きるというのが、バタイユ的な仮定だ。
 今一つ、モノや器官の実用上の意味を超えたシミュラクル的な使用や消費、端的には「捨てる」ということをポトラッチ的な性質としよう。高度消費社会において、あらゆるものがポトラッチ的に消費されるのは、その持続のためには当然であり、アートにしても、むしろポトラッチ的、つまりは無意味でなくてはイカンということになる(ボードリヤールなら、無価値・無内容を商業的な戦略にするに至っては、無を価値に売り渡すことであり、じっさい無価値・無内容なNullだと怒るだろうね)(14)。
 かつて越ちひろは、「もっと、もっと意味のないもの。それによって、絵の中にいろんなものを閉じ込めることができる」(15)と言ったが、消費社会において、アートを鑑賞するという行為は、無意味なもの(生産的価値が見えない形而上学的対象)に対する浪費である。それは、ほとんど公共事業的ですらある。そのばらまきぶりは、過剰化過程におけるピューリタン的規範(貯蓄)に明らかに反するにも関わらず、社会の同一性確保のために一定の機能を果たすと仮定される。ここでは、同一性は内部に生じた差異によって支えられ、更新されてゆく。この禁止(規範、価値や意味)に対する侵犯(ポトラッチ、価値や意味のなさ)としての現代アートは、「資本主義経済を徹底させること」(16)で商業化され、無価値やポルノ、シミュラクルをスタイル化すること、つまり、すでにシミュラクルなものをさらにシミュラクルとして作品化すること(無価値化の無価値化)によって、価値へと反転する。YBA的なポストモダン的マーケティングの手法である。そうしたものは、それが何であるか了解可能な(と思い込ませる)規範、つまりは与えられたイメージとしての「現実」の一部なのだ。したがって『公共事業ポルノ』もまた、参加者に対し現前しなかったうちは無意味として機能したかもしれないが、こうして、写真などの形で作品として公表されてしまうと、もはやただの意味、つまり、スタイルになっちゃうわけだね。参加者は、世間(ボードリヤール的なポルノ氾濫社会、トランス・セックス)という審級において、当日、自分の身に何が起きていたのかを初めて知ることになる。オリジナルの体験(ポルノ)さえ、所与の「現実」(ハイパー・リアルとしてのハイパー・ポルノ)によってアイデンティファイされるわけだ。
 元来、ポルノは、生殖という実用面から乖離したシミュラクルな性欲の形態である。ポルノはその公共事業性、無価値性によって、むしろ現代アートと近縁関係にあった。ニューヨークでヒッピーを集めて乱交パフォーマンスを行い、権力粉砕を叫んでFBIに追われていた頃の草間彌生は、その当時の基準では、ポルノな公共事業家だった(そのあたりがポルノとハイパー・ポルノの境界だった)。彼女に言わせれば、過剰化の倫理によるセックス抑圧が、戦争を惹き起こすというわけだ。2006年以降、作品価格が億を超えてからの彼女のことは知らんけどね。

(*1) (*3) (*6) (*9)『webDICE』「レスリー・キー写真集販売での逮捕についてギャラリーhiromiyoshiiの吉井氏語る」,2013年3月16日記事
(*2) 『差異と反復』Gilles Deleuze〔著〕,財津理〔訳〕,河出書房新社、1992,p.16-17
(*4)『会田誠 天才でごめんなさい』展,森美術館(2012年11月17日-2013年3月31日)。なお、上田裕子いわく「アーティストなんてみんな変態」。
(*5) 『チャンネル』vol.7所収「画家越ちひろとギャラリーオーナー・額縁職人モリヤコウジ」,合同会社ch.,2012,p.18
(*7) (*12) 『現代アートバブル いま、何が起きているのか』吉井仁実〔著〕,株式会社光文社,2008,p.42-62
(*8) 「社会規範」(約束、同意)、「監視」、「バッファー」(間接性)、「イデオロギーの正当化」の4つ。
(*10) 『東京大学教育学部紀要31』所収「エッセンシャリズムにおける「教育の自由」の位置と構造:1930年代の進歩主義教育批判との関連」佐藤修司〔著〕,東京大学教育行政学研究室,1992,p.230
(*11)『人間を幸福にしない日本というシステム』Karel van Wolferen〔著〕,鈴木主税〔訳〕,株式会社新潮社,2000,p.31
(*13) 『超・階級 グローバル・パワー・エリートの実態』David Rothkopf〔著〕,河野純治〔編〕,株式会社光文社,2009,p.55
(*14)『芸術と陰謀 消費社会とアート』Jean Baudrillard〔著〕,塚原史〔訳〕,2011,p.11-13
(*15)2012年、筆者との対談。
(*16)『芸術闘争論』村上隆〔著〕,株式会社幻冬舎,2010,p.38

服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14