文 / 松本直樹
結婚とは、すべての意見を共にし、しかしすべての男が意見を異にするところの、一つの主題である。——オスカー・ワイルド
いったい「結婚する」ということは、いかなることだろう?
このような突飛な問いに対し生真面目に応答するならば、具体的で個別な事例(=恋愛)という経験を、一般化されうる定式(=結婚)へと結びつける、その行為であると、とりあえずはいえよう。
それならもし仮に、この「恋愛から結婚へと至る」プロセスを真逆にし「結婚してから恋愛をはじめる」ということは、はたしてありえるのだろうか?
換言すれば、既存の定式を先取りし、特殊な事例を事後的に獲得できるか? というこの設問は、なるほど論理的には筋がとおるように思える。
けれども、この問答に符号するかにみえる「お見合い」という事例でさえも、おおよそ想像しうる男女(あるいは同性同士)の出会いとは異なるものの、特殊な事例から定式へと至るプロセスになんら変わりはない。なぜなら、お見合いは、恋愛と同じくデートをかさね、互いの相性をはかることが許され、だからこそ無慈悲にもお断りする(される)可能性さえも担保されている。ここにおいても恋愛と同様、破談や破局は確率論的に存在しているのだ(結婚にしても、それが「定式」ではなく「ある過程=経験」だと捉えれば、たとえば、離婚が存在する)。
そもそも、いくらその先に結婚という合意が約束されていようとも、あくまでも恋愛という、こうした確率を超えたある特殊性(事件性)が体験されえなければ、その合意が主体的に位置づけられることはまずありえない。このプロセスを経てこそ、はじめて、出会いが奇蹟や運命だったと感じ、信じられるのだ。
恋は最も変わりやすいと同時に最も破壊しにくい不思議な感情である。——アンリ・ド・レニエ
「結婚は定式である」という仮設においても、それが定式である以上、(二人以上の)社会的な共有を前提としている限り、こうしたプロセスを省くことなど不可能だといってよい。
たとえば、結婚式が承認の場であるというのはいうまでもなく、この場で取り仕切られる「誓いのキス」というパフォーマンスの存在にこそ、それは顕在化している。この行為は、当事者同士がそれぞれ帰属する集団に対し、ある出来事(事件)を再演することによって、(経験を共有させ)あらためて彼らを説き伏せるための、いわばプレゼンテーションなのだといえるだろう。
二人が結婚するということ——それがいくら事前の承認をともなっていたとしても、にもかかわらず、こうした抽象性が実感をともない了解されるためには、(集団を構成する)ひとりひとりへ、あくまでも個別な経験、「誓いのキス」として目撃され、体験しなおされる必要があることを示している(こうして社会は、事件に対する事後的な了解を求められるとともに、説得されざるをえない状態を保持することとなる。集団は、この二人(の事件)に牽制されるのだ)。
くりかえせば、定式は、その抽象性とは背反し、そのつど特殊な事例(説得材料)を要請することとなる。つまり、一般的であるという自明性や正統性は、論理的な構造に依拠するのではなく、むしろ、破局や離婚(あるいは、それらを超えた)という特殊性、今後、発生するであろう事件性を、積極的に組み込むことによって裏付されているのだ。いいかえれば、社会や集団は(いわゆる道徳によって規定されるのではなく)、こうした特異点 ——再来する「誓いのキス」—— においてこそ、いまここに、かろうじて繋ぎとめられている。
恋人同士の喧嘩は、恋の更新である。——プビリウス・テレンティウス・アフェル
もし仮に、あらかじめ措定された抽象的な定式が、一般に回収され了解できるという目的において、具体的な事例をも規定してしまうのであれば、実在的な根拠は指し示されることはない(まるで、枯れてしまった恋のように「誓いのキス」は再来しえない)。
しかしながらこのことは、逆説的に、恋愛攻略本が巷に溢れ、多くの恋愛メソッドが謳われ(つまり定石はないのである)、いまなお芸術という仮構において、具体的な(芸術)作品が制作=供給され続けている理由を表している。
さて、「恋は盲目」というけれど、作品をつくる上で、芸術家は自身の経験や感覚に対し、盲目であってはならない(この点で芸術家は勘違いされている)。
たとえば、画家が眼前に広がる光景をカンヴァスへと写そうとするとき、絵具をチューブから捻り出し、パレットの上で練りあわせ、絵筆やナイフでカンヴァスに擦り付ける。一見自然にみえるその身振りも、いいかえれば、光が網膜に投影されるという現象を、絵具やカンヴァスといった、より即物的な物質へと翻訳する行為なのだ。つまり「描く」ということは、暴力的にも、ある事象を抽象化し、別の事象へと変換するプロセスなのである。
このように、芸術家にとって制作し発表すること、つまりプレゼンテーションするということは、むしろ自己解体を意味し、いったん解体されて現れる別の自己を、再構築するために行われる必須のプロセスである。
オートマティカル(無意識にも光景を映し出してしまう眼のよう)に、無限に引き出される現象に、盲目的に身を委ねていては、眼前にひろがる世界を再構築することなど出来はしない。
自己の(感性の)中心性から抜け出してゆくこの経験は、盲目的ではないがゆえに、あらかじめ位置を確保されていない。そして、いかなる主体にも属さない(だからこそ作品は、他者によって「観られる」のである)。
それだから芸術(の経験)は、見慣れてしまった世界から、あらたな認識が曳き出され ——まるで運命の恋人を見出したときのように—— 自身が生まれかわれるその契機となりえる。この条件において「誓いのキス」は再来するのだ。
—
*本稿のタイトルは、『誓いのキスは突然に☆』という株式会社ボルテージによる「乙女ゲーム」から借用した。なおゲームの説明には「『1ヶ月だけ夫婦のフリをしてくれ』と突然頼まれたアナタ。最初はイヤだったニセの夫婦生活。けれど、毎日いっしょに過ごすうちに互いに惹かれあい!? 偽りから始まる本当の恋…」とある。
●本稿は、2013年11月にグレイスフル芸術館において行われた展示における筆者のステートメントへ加筆/修正したものである。
松本直樹 Naoki Matsumoto 美術家
1982年 長野県生まれ
2007年 東京芸術大学 第七研究室 修士課程 卒業
2004-2007年 近畿大学 国際人科学研究所 東京コミュニティ・カレッジ 四谷アート・ステュディウム 研究員
2013年4月 ~ 長野美術専門学校 講師
https://www.facebook.com/mtsmtnok
|