女性性について、あるいは中年についての考察・4「この期に及んでお前、モテたいのか?それも新嘉坡で?」

文 / 松下幸

 子どもと二人でどこに行くでもなく家の中で腐っていた。
 その日たまたまシンガポールは祝日だった。ここは祝日が少ないことで有名な国である。正月休みを入れてもたった12日、うっかりすると日本の暮れ正月の休みで全て消費しそうな量である。そのせいか、祝日はどこも異様に混む。土日の倍は混む。当然だが外は暑い。蒸す。私は疲れている。子守(夫)は出張でいない。メイクしたくない。日焼け止めも嫌だ。なんなら寝間着すら脱ぎたくない。全てがめんどくさいので、止まったら死ぬ4歳児とともに、ずっと家に篭っていた。
 娘をずーっとポケモン漬けにしながらソファーに寝っ転がって、明日からダイエットするから今ドリトス食べてもいいかなあなんて性根が腐ったことを考えていたら、そのうちテレビに向かって話しだした娘を無視できなくなってきた。
 私はおもむろに立ち上がって、リコーダーを出してくると、ポケモンのオープニング曲を吹いた。
 
 あー あこがれのー ぽけもんますたーにー  
 なりたいなー ならなくちゃー

 我ながら、うまいな。悦に入った。元々音楽は得意な方だ。一番の自慢は美声だけど、リコーダーも悪くない。
 娘が乗ってきて、メロディーにあわせて歌い踊り出した。やっと母親としての役目を果たせつつあるという安堵と同時に、リコーダーを吹いていた少女の頃の、さらさらの黒髪をポニーテールにした自分に戻ったような気がした。奏でる音が一層軽やかになった。私は娘を従えて意気揚々と、ハメルーンの笛吹きのように行進し、しかし鏡の前にさしかかったとき急に「ひっ」と声が出た。
 鏡のなかにいたのは、経年劣化で艶を失いちょっと上のほうが薄くなった髪の、ずず黒い顔をした、目の下や口の両脇の皮膚がだらしなくたるんだ、妙に鼻の下が長い見慣れないおばちゃんだった。
 私はゆっくりと後ろを向くと、静かにリコーダーを娘に渡し、そろりそろりと歩き出した。慌てちゃいけない。うっかり大きな音を立てて寝た子を起こしてはいけないのだ。鏡の中のあれが誰か気付かないように、忍び足でその場から逃げるしかない。そして寝室に入り、布団をめくってベッドに潜り込んだ。後ろをついてきていた娘がリコーダーで布団の膨らみを叩いてもじっとしていた。娘は泣きだした。
 外は黒雲が低く垂れ込め、遠雷がうなっている。もうすぐお約束の土砂降りが来る。シンガポールの夕暮れに、茜色の空はない。
 (大体ポニーテールの少女って誰だ?いつもおかっぱ、床屋は父親だったじゃないか)

 ところでこちらには「服のブランド」というものが大変少ない。ブランドといってもプラダなどハイブランドの話ではない。逆にそれは売るほどある。
 たとえばシンガポールの銀座と呼ばれるオーチャード通りには化粧品売場も合わせるとDiorが最低3店舗ある。この通りを歩くだけでひと通り高いものは揃う。グローバルなファストファッションもそうだ。H&Mに始まりZARA、MANGO、Forever 21などなど、聞いたことのあるブランドは大体ある。それもオーチャードだけでも数店舗ずつ、オーチャードを離れてもそれぞれの街、それぞれのショッピングモールに転々とある。もちろん、ユニクロも無印もある。だから、日本でも簡単に買えるような服に関しては、値段と品揃えはさておき手に入るわけである。が、中間層、1万円から2万円くらいの服がない。ローカルブランドというのももちろんあるけど、なんかこう、ピラピラふわふわテローンとして、きれいだけど日本では着ていくところがない感じ。ノースリーブ膝上丈のワンピースとか。基本スカートはミニ。色は黒もしくは鮮やか系、生地は綿や麻じゃなくて化繊一本槍である。
 わたしは人生40年のうち30年、1年365日のうち350日は確実にジーンズを履いていて、足元はスニーカーかアウトドア系サンダル、トップスは天然繊維が常だった。夏でも冬でも色は紺茶青モスグリーンに灰色白。黒は着ない。とにかくこの鉄則は変わらない。私にはここで買う服がない。
 だからこちらでは、「服がないよねー」は「今日は暑いねー」と同じくらい無難な話だ。日本人ママが顔を合わせたらしていい話のなかのひとつ、それは「服は日本で買ってくる」だ。そんな話をなにげなく友達Dとのチャットのなかでしたら、

 「エロモンとか言ってるけど、色気出したいならまずそのダサい服やめなよ」

といきなりスパーンと言われた。ついでに「ノーメークもね」と。
 気づいていた。このままではいけないことは分かっていた。特にこちらに来てから、自分がいつもの格好でしかもセルフレームのでかいメガネを掛けて歩いている姿が何かに写っていると、「子供かよ!」と突っ込みをいれたくなる有様だ。日本にいた時、近所の奥さんが、私より3つぐらい上なんだけど、童顔だからいつも若いっていわれるのよーと私にいうのだが、確かに彼女は童顔だった。若いといわれればそう見えた。しかしそれは「大人に見えない」という意味での若いであって「若くてきれい」の若いでは決してなかった。髪は自分で切ったようなボブ、その辺のTシャツに七分丈のユニクロパンツを履いていて、足はスニーカーだった。すっかり暗くなってから犬の散歩をしていたら、同じく犬の散歩をしてるらしい男の子が向こうの公園の暗がりにいて、振り返ったらその彼女だったことがあって驚いた。これが彼女の「若い」である。
 私達アラフォーにとっての若いには二種類ある。ひとつは文字通り「若くてきれい/かわいい」。もうひとつは「時代に取り残された」である。後者は、自分が10代から20代の時に基本スタイルとしていた、飾り気のないシンプルなスタイルつまりそれでもモテた栄光のスタイルから離れられずに、今それがすごく自分を痛くしていることに気がついていない人々だ。そして、まさに私はその範疇にいる。しかしまずいことに、この年になると、変わり方が分からないのだ。なまじ童顔だとなおさら、変わる必要性に気づいた時には完全に手遅れなのである。おばさんが思いついたみたいに下手な化粧をぬったくるほど惨めなものはない。
 で、友達Dは「今なら間に合うから、メイクをして服装を変えろ」と私に言った。そして彼女はこんなことを言い放った。

 「我々結婚して子供までいるアラフォー女は、もうモテる必要はないわけだ。君も知ってると思うが、派手メイク&セクシー系というのは日本ではモテない。男はドン引きするばかりだ。けども、もうモテる必要はない。今こそ我々は、ランウェイのモデルばりにメイクして、ぐっと肌出して色気をさらすべきなのだ。我々の思うかっこいい女を好きなだけ目指していいのだ!」

 目から鱗が飛び出た。そうか、そういう「アンチエイジング」もあるわけだ。これは新鮮な驚きであり、男目線を気にする必要がないというのは、なんて素敵なんだ、ウーマンリブ!と思ったわけだ。
 そんな彼女の名言に感動して、帰国時にコスメ総本山と言われる新宿伊勢丹の化粧品コーナーへと行ってみた。そこで、BAさんにフルメイクというのを成り行きでしてもらった。
 鏡のなかの自分を見て驚いた。今までの変化しそびれた大人子供は姿を消して、急に「大人っぽいけど若い」私がそこにいたのである。なんだこれ…かっこいい!私は嬉しくなった。そこでまたもや彼女の薦めるまま、ネイルサロンに行き髪型を変え、ジーンズはスキニーに、靴はハイヒールにと変えることにし、一生買うことはないだろうと思っていた、アラフォー向けファッション誌に載ってるような服を買うようになった。で、目の周りはスモーキーアイで真っ黒ぐるぐる、ボブヘアーで胸がぐっと開いた、ヒールで身長170センチを超えるような、VERY的な日本のモテ系ミセス雑誌とも一線を画した自称セクシー系へと変貌したのだった。たまにパンクみたいになった。気分はケイト・モスである。乳首見えても平気!ぐらいの。いや実際困るけど。
 こういう格好にも利点はあって、私の場合特に上半身デブで、背中や腰の贅肉はひどいんだけど足にはあまり肉がつかない。なので、ブラで背中部分のあらゆる肉を無理やりあつめて巨乳に仕立て、体のラインが見えてると見せかけてブラの上下から出た段々肉や腰のドーナツ脂肪をうまく隠せる程度の偽ピタシャツを着て、足はスキニーにハイヒールでひたすら細長くし、目のメイクを派手にして顔の輪郭を髪で隠すことによってほうれい線や毛穴や肌のたるみを効果的に隠したわけだ。
 なるほど、色気開放路線というのはアンチエイジングでもあった。こちとらもう、「飾らない私をどこからでも見て!」みたいな、世の中舐め腐ったようなことを言ってる余裕はないのである。そんなことを許されるのは、原田知世とか石田ゆり子とか、限られた一部の女優だけであって、あの人達だって影じゃひたすら美容皮膚科に通って「偽のナチュラル感」を出してる美魔女かもしれない。美魔女はダメだ。平民は魔女にはなれない。私は平民なので、やっぱり一番かしこいやり方は「とっぽいセクシー」を目指すことなのだ。
 以来彼女とは毎日のように美容系の話ばかりしていて、紫とかもっと挑戦的な色をアイメイクに入れてランウェイばりに歌舞伎ってみればとか、爪はやっぱ血豆色がいいよねとか、夏むけにドラえもんカラーなんてどうとか、男が聞いたら改悪としか言いようがないような、でも私達からすれば「かっこいい系」へむけたような、そういう作戦会議ばかりして過ごすようになった。
 確かにそれまで私に好意的な態度をとっていてくれた男性陣(主に20代からの遺産)からは大不評であった。メイクとか露出とかそんな難易度の低い色気なんて男には響かないんだとか、その爪一体何、怖いからとか、そもそも色気出すなよ気持ち悪い!とか、もう散々ないわれようで、だれ一人「いいねえ」と言う人はいなかった。
 
 色気バリバリは日本人男性からは不評である。それは百も承知で選んだ道だから別によかったが、自分がちゃんとセクシーでかつ「とっぽい」かどうか、女から見た時にケバいじゃなくて「かっこいい」とうつるかどうか、これは大問題だった。しかもここは異国である。全住民の四分の三を占めるシンガポーリアンからの評価しか尺度がない。もちろんこちらにも日本人は多いけど、友だちが少ないのでサンプルの集めようがない。で、シンガポーリアン女子の視線はどうかな?と探ってみるけど、誰からも特に熱い視線を送られる気配はない。
 そこで、そもそもシンガポーリアン特に華人女子はどんなモテ系志向があるのかな?とよく観察してみた。すると、あっという間にシンプルな共通点が見つかった。

 ・黒髪さらさらロング
 ・露出多め
 ・痩せている
 ・超ナチュラルメイク
 ・足はフラットシューズたまに草履サンダル
 ・服はテロっとした化繊のミニワンピなど

 若い子だと服がTシャツミニスカとかになるが、だいたい皆こんな感じ。日本みたいにショートボーイッシュ目指してます!とかそういう差が一切ない。
 こちらの華人女子は華奢で背が高い子が多い。足は長くてまっすぐだ。なので、後ろから見てるとそういうモテ系美人だらけに見えるが、振り返ると驚くほどブスというパターンもまた多い。何その出っ歯メガネ!みたいな状況だ。けども稀に、顔が整った人だったときは、もう、女優。いきなり女優レベルだ。日本だったら素人ではいられないぐらいのレベルがぽーんと出てくる。明らかにモテそうな、露出過多の裕木奈江的な、いや違うか、うまく言えないけど男性がぽわーんと思い浮かべる「ちょっと快活な夏の美少女」みたいになる。これがきっと、シンガポール的モテの完成形なのだろう。
 なので私みたいなセクシー丸出し系はここではウケない。男にも女にもウケない。一人相撲みたいなもんである。と、思っていたが。
 唯一の例外は「外人」だ。主に白人。彼らは私を街路樹のように無視していたのに、急に「あれ?そこにいたの?」みたいに目を止めるようになった。友達の白人旦那は「ひゅ~!随分ファッショナブルだね!」と(セクシーではなくファッショナブルと)言った。スタバでお茶を飲んでいるだけで、きっかけを掴んで話しかけてくる白人男性とか、目があった途端に向こうが微笑むとか、今までの人生にはなかったことが起こり始めた。
 単純な気付き。「白人はお盛ん」という通説はウソじゃなかった。だからこっちで見る国際結婚してる日本人女性はみんなセクシー丸出し系なんだ。あいつら毎晩毎晩やってんだ。とにかく、通り過ぎざまに男が「美人だね!」とか言いおいて去るとか、そんなのは映画の話だと思ってたけど、ウソじゃなかったんだ。あまりの「自分の扱われよう」の代わりっぷりに、正直こっちがついていけない。
 というような話を、仲良くしている日本人男性にチャットでしたところ、「あいつらはバカだから」と一蹴して、いかに私のチャレンジが愚行であるかということについて滔々と説くのだった。
「君はそのままで十分美しいし、モテるんだから」「美しい人はいいよね。何をしようが結局はモテるっていう余裕がそういう暴挙に出させるんだ」とか。君は自分の魅力を制限してモテ度を下げようとしてるんだろう、モテなくなってもいいの?と聞かれてはて、本当にもうモテなくなってもいいんだろうか?と思った。友達と「モテを目指さなくてもいい」という話はした。でも「モテなくていい」とはニ人とも言ってない。やっぱりモテたいはモテたい。好き放題しててもやっぱりモテたいという、非常に我儘な状態であり、そういう我儘が押し通せるくらい、モテに貪欲にならなくてもいいという、そういう状態なのだ。

 もうお気づきかと思うが、この男性の話は何かおかしい。私の周りでそんなに私のことを「美しい」「完璧だ」「どうやったってモテる」なんていう男はいない。夫と元夫からもそんなことを言われた記憶はない。さらにその男は続ける。「20代の頃の君なんて興味はないね。母親になってからが本当に美しくなったと思う。母性が包容力を感じさせて、雰囲気が丸くなった。何より君は抜群に頭がいい。賢い母ほど美しいものはない」
「それでいて、移り気な猫のようだ。美しくてしなやかだけど、何を考えてるのかわからないところが魅力だ」
 これ、完全に口説かれている。やる気満々に見える。褒めて褒めて私をその気にさせようとしている。いつからこんな状態なんだっけ?と思い返したら、ちょうど私がシンガポールへ渡航する直前からだと気づいた。そう、何か得体のしれない臭気を辺りの男性へ振りまいたのか、突如降って湧いたかのように性的なアクシデントが頻発した時期だ。
 その時に始まっていた、エロモンアナザーストーリーなのだった。
 と気づいたときにはもう、毎日毎日この男とチャットせずにはいられなくなっていた。もっと褒め言葉が欲しくてつい話しかけてしまう。どこが猫なんだ、まるで犬じゃないか。常に自然体の母性を感じさせる美しい女性であるはずの私は、毎日娘をほったらかしにしてこの男とのチャットにうつつを抜かすようになっていた。前回はしたなくも中イキに関する話をした時に出てきた「最中に女性が失禁したとか失神したとか語る巨根」がまさにこの男で、気づいた時にはそんなエロ話をはしたなくも繰り広げるくらいの仲になっていた。
 つまりこれは、私もその男が好きだって話なのだろうか?いやいやちょっと待って。相手は非イケメンだ。 知り合って12年、10年前に一度口説かれて、その時は這々の体で逃げ出した。そんな相手に褒めちぎられたからといってすっかりなびいてしまっていいの?「巨根ってどんなだろう」なんて想像してるような状態でいいの?12才年上っていったらもうおっさんもおっさん、加齢臭とかしてるかもしれないよ?第一いままでそんな年上とお付き合いしたことなんかないじゃないの。あなた、本気なの?好きって口に出したらもうそこで、ただの不倫の話になっちゃうわよ??
 なんて自問自答している時点でもう決まったようなものだった。降参だ。私はこのおじさんがどうやら好きだ。その上で話を進めていこう。

 果たして女は、褒めて褒めて褒め倒してくれる男がいればそれでいいのだろうか?
 そして懸案の議題。「好き(性行為)によってボン・キュッ・ボンのナイスバディに変化するというのは本当か?」(次号へ続く)

松下幸 Koh Matsushita
1972年生まれ
福岡県福岡市出身 / シンガポール在住
コピーライターのようなもの
大学中退➝フリーター➝主婦➝フリーター➝会社員➝フリーランス