てれび

文 / 納和也

 最近家で仕事をしているので合間にてれびを何気なく見ている。観ているとは言わない。政治のネタか震災のネタがほとんどである。それ以外はてれびショッピングばかりである。政治に対するメディアの閉塞感は恐ろしい。政権は1994年以降野党は消えてしまい殆ど我々と変わらない凡人がゆるく政治を行っている。てれびではその事実に触れない。だから時代劇を見ているような紋切型で紋所などないのにけりがついたような報道。
 で、ここで改めて云うわけでもなく田中角栄以降政治家は一人も居ないのと同じ体制で30年近く国内の政治的争いを反復している。何故田中角栄が政治家かと言うと元々土建会社の社長、それも20代で。では何故土建かと言えば国有地を民間に切り売りがGHQ撤退以後行われた。それにより土地がお金に、建物の建築もお金に、鉄道、高速道路もお金に。国家とは文化、民族とは一切無縁だと言える。経済の稼働があって国なのだ。経済以外で人間が生きてゆけるとしたら国家も消える。経済が無くなれば自分だけでジビエで生きられる。日本とは国家ではなく島である。今の社会問題は今始まったわけでなく変わらず昔からの習性に寄る。
 田中角栄氏の「日本列島改造」とは国有地(GHQ)が解放され日本国内で貨幣に変える環境が整った上での現代的なモダンな発想である。その方法で行けばすでに生活レベルが上がる算段であった。そういうシンプルなもの。終身雇用というドラマのもとで。現代権力を持ちたい人間が色々いい加減な事ばかりを言っている。どうでもいいな。しかしそのいいかげんな事も言ってはいけないかと言えばそうでは無い。フラットに受け入れて行くのが良いかと思っている。てれびを見ていると自称有識者が出る杭を攻撃し叩き潰す。てれびが世論だという勘違い。てれびの必要性は現代の問題をモノローグで整理するのではなくダイアローグに整理して放映するのが役目だと思うがそれは出来ないわけだ。
 国民の無責任な意見を新橋駅前できいても「だめだこりゃ」という映像を流す。それはおかしいよね。あんたらが選挙で票を入れて自分で選んだのだから反省の弁があって良いはずである。日本の問題は日本とアメリカだけで決めていくのは井戸端癒着。毎日毎日そういう針の孔のような閉じた番組は見ていると戦前を生んでしまう危険性を感じる。第二次大戦の日本の人間と今の日本の人間は全く変わっていない。戦時下の陸軍他兵隊、大本営などの工事は今でいえば仕事をして賃金をもらうという意識だったのでは?「お国の為」と思っていたのは当時子供だった人だけではないか?兵隊という労働、入札というからくりに騙されてそのまま兵隊にさせられてしまったのが事実じゃないかと思う。過去を論じる時に日本の人だけではなく世界中の情報をアーカイブ化し、必要とあらば世界規模の番組を作るのが良いと思う。しかし今のテレビは「出る杭は叩きのめす」事だけ。
 イライラしテレビ局に僕は電話をした。何かあると徹底して攻撃をてれびは行う。吊し上げ。戦争へ向かい憲法を変える議論をアメリカと国民だけで改造しようとするとかもはや呆れて何も言えない。日本の憲法についての議論は他者を大いに介入してもらい論じるべきである。すると変える必要が無いという結論が予想される。クオリティーの高い日本の憲法はひとつのモデルケースである。これこそグローバルだと思う。そのモデルケースを含めて日本人は生活をしている。モデルケースの意識の低さが変わらない日本。誰かが何かを言えばてれびは殺人的攻撃を行う。だからその度に僕は無力なクレームをテレビ局へ投げている。国家は民族ではなく経済のリミッターである。今、とても戦前の日本に近い空気である。てれびによってそれが瞬時に刷り込まれる。

納和也 Kazuya Osame クリエイター 1971年埼玉県熊谷市(旧妻沼町)生まれ