文 / 北島由美
昨年カンパニーデラシネラの公演「カラマゾフの兄弟」を観るにあたり、学生の頃読んだドストエフスキー作の「カラマゾフの兄弟」上、中、下巻(新潮文庫)を読み直した。
細かいところは結構忘れていたけれど、何より驚いたのは、以前読んだとき自分が思っていた登場人物への感じ方が、全く別のものに感じたこと。
奔放な長男、無神論者で感情を持たない次男、神に仕える修道僧の三男、そしてずる賢いスメルジャコフ(腹違いの兄弟らしいという設定)。
たしか私は学生の頃、この小説を読んで、何と言ってもこの三男アレクセイの存在に惹かれ、三男の姿に自らを重ね、自分自身の身に色々なことが起こっても、アレクセイのようにありたい と思っていた。
そして、長男ドミートリーに至っては虫酸が這うくらい嫌い、次男イワンのような人間には近寄らない、そんなことを思っていたはずだった。
ところが!
3巻を読み終え、それぞれの人物に対して全く違う感情を持っている自分がいた。
小説が30年前と違っているわけではないから、読む私が全く別人になったのか‥‥
この読後感の違いは、一体何に起因するのか‥
読後、デラシネラの舞台を観て、今の私がカラマゾフの兄弟について思うことのほうが、素直(率直)な思いであろうと改めて思った。
(デラシネラの最近の舞台については、いずれゆっくり書いてみたい。)
最近ミステリー小説として「カラマゾフの妹」が出版され、江戸川乱歩賞を受賞した。
これは、ドストエフスキーがもし生きていたら、13年後「カラマゾフの兄弟」の続編というか、完結編を出すはずだったと言う設定で書かれている。
確かに、「カラマゾフの兄弟」本編を読み終えたとき、結局父親を殺したのは誰だったのだろう、という問いが残ったのは確かである。
そして小説中に幾度と出てくる『カラマゾフ的』『カラマゾフの血』はどういうことなのだろう、といった余韻をひきずる。
だから余計に、本来のドストエフスキーの小説の様々な場面をフラッシュバックさせながら、この「カラマゾフの妹」を読み進めることができた。
最初の1ページ目から、私に一つの予想というか、(ミステリー小説には必ず最後に犯人がでてくるけれど)確信があった。
それが、アレクセイだ。
本編中彼は、誰からも愛され、恵まれない子どもたちのところに行って面倒をみたり、足の悪い少女のために祈ったり、誰の悪口を言うこともなく、人のために祈る修行僧である。
だから過去の私はアレクセイに人間としての理想像を重ねたのだ。唯一『カラマゾフ的』でない人物だから。
でも、最近読み直したとき、私はアレクセイの中の人間としての弱さ、ずるさ、優柔不断さがむしろ胸くそ悪く感じ、二人の兄のほうがよっぽど自分に正直で、人間らしいと思った。
だから、自分は絶対はアレクセイにはなりたくない、うそはいやだと言う気持ちの方が強かったのだ。アレクセイの生き方に歪んだものを感じたのである。
「カラマゾフの妹」を読み始めると同時に思ったのが、父親を殺したのは本当はアレクセイだったのではないだろうか、と言うこと。
まあ早い話私の予想通りであったと同時に、予想以上の生い立ちがカラマゾフの兄弟たちにはあったと言うことになる。
ここで、また私は人の生育歴について考えないではいられなくなった。
今の社会、道徳について教えられることが希薄になっているせいで、諸問題が起こっているようなことを話題にする人が多い。
では道徳って一体なんだ?
私自身、小さい時からかなりものごとを理想論で考えることを当たり前として生きてきたから、そういう私だからこそ30年前にアレクセイをすばらしいと思ったのではないか。
ドミートリーやイワンを許せない30年前の自分こそが、人間として欠落していると、今の自分なら思える。
よくわからないけれど、社会一般で言う道徳が、アレクセイをよしとする考えのような気がして、なにか空恐ろしい。
そういう道徳を、もし当たり前のように大人が語りだしたら、と思うとぞっとする。
ドストエフスキーの小説そして「カラマゾフの妹」どうぞご一読を。
北島由美 yumi kitajima 1961年長野市生まれ
リトミック講師
中学音楽教師6年勤務後退職 専業主婦業10年後リトミックを学ぶ
養成校卒業後リトミック研究センター長野第一支局をたちあげ
現在同支局チーフ指導スタッフ
pata24@mx2.avis.ne.jp
こどものためのリトミックながの
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