女性性について、あるいは中年についての考察・3 「エロモンの前に語らなければならない、いろんな幻想の話」

文 / 松下 幸

チャイニーズニューイヤーが明けたら乾季がやってくる。
そう聞いていたけど、相変わらず暑くなくて雨が多くて風も吹いていて快晴はめったにないシンガポールである。
わりと過ごしやすい。ここはわりと住みやすい国だ。
汚いけど。
特に私のように、庶民の街として名高い地域に住んでいると、シンガポーリアンの衛生感覚がいかにルーズか日々身を持って知ることになる。
今日もバス停でバーに(こちらは椅子じゃなくて尻をひっかけるバーがある)腰掛けていたら、遠くからやたらいがらっぽい感じのおっさんが歩いてくるのが分かった。げへっごほっうええっと言いながら歩いてくるので、見なくてもわかる。サンダルを擦る音が、痰を切る音とともに近づいてくる。ジワジワと距離が詰まって、ああ、いよいよ「カーッ」が聞こえた!吐くぞ!「ペッ」てやるぞ!痰が掛かりませんように!と身を固くしたが締めの音がしない。おっさん、痰を飲んだな。十分気持ち悪いけど、レアケースである。法律を守る人がいた。
シンガポールがゴミひとつ落ちてない清潔な国で、それはゴミをポイ捨てすると罰金を取られるから、なんてのは幻想である。やる人が多いから取り締まらなくてはいけないのである。だから、トイレを流さなかったら罰金という話を聞いたら、「ああトイレ流してないんだな」と理解するのがいい。そもそもこちらのトイレは水流が弱く、しっかりボタンを押し続けないと(レバーではなくふたつに割れた丸いボタンを押す)(硬くて押しにくい)ブツが流れていかない。だからトイレに入ればペーパーは便器に残っているものである。
街中は取締が厳しいらしいし(見たことはないけど)、常に掃除の人もいるので、さすがに日中は汚くはないが、私のようにローカル丸出しのところに住んでいると、ゴミ箱からはゴミが溢れて周りに散乱しており、草地があれば花をあしらうように転々と鼻紙やら袋やらが落ちていて、歩いて5分以内に3つもある果物屋からは下痢みたいなドリアンの臭いが華麗に空を舞ってきて、向こうから歩いてくる人は歩きタバコで、足元を注意してないとゴキブリの死骸を踏みかねなくて、たまには公団の窓からゴミ箱をひっくり返して外に放る牧歌的なシーンも見られる。そして、おっさんは痰を吐く生き物と思ったほうがいい。中国本土ほどじゃないけど、まあ、よく痰が絡むらしい。たまに痰を切りながら手鼻を噛んでその辺にビームみたいに撒き散らすおっさんもいる。風邪引いてたのかな。おっさんなんかこの世からいなくなればいいのに。
朝外に出ると、果物と生ゴミの臭いがする。それがローカルエリアの基本臭なのかもしれない。しかし、それが朝の爽やかな空気と思えるようになり、あそこのピザの宅配の男の子って可愛い、なんて舐め回すように見る余裕もすぐに出てくる。慣れの力とは、かくも凄いものなり。

私の4才になる娘は、そんな混沌としたローカルエリアから車で10分ほど離れたところにあるインターナショナル幼稚園に通っている。超高級エリアである。シンガポールで最も華やかかつお高いエリアにあり、園児の大半は自家用車または徒歩で通園する。この国は家賃がめちゃくちゃ高いので、臭くて汚い我が家ですら東京でいったら渋谷区に住めるぐらいの家賃は払っているのだが、娘の幼稚園の周りは最低でもその3倍はする。そしてこれも有名な話だが、車の価格は日本の倍。フェラーリやランボルギーニみたいな品のない車じゃなくて、もっとコンサバな欧州車が駐車場に溢れかえる。さぞや親御さんもお高く止まった感じだろうと思うだろうが、これが皆気さくで見た目もこざっぱりしている。ブランドづくめなんて品のない格好はしない。本当のお金持ちは、必要以上に着飾ったりしないのだ。子ども思いの、いい親御さんばかりだ。金持ちが気取っていけ好かないというのもやはり幻想だ。
なんでそんなお高い幼稚園に娘を通わせているのかというのには、色々事情があるのだが、それはさておき、アホみたいに高い学費のかわりに娘は可愛らしい制服を着せてもらって温かい先生たちに見守られて毎日慣れない英語環境のなかで頑張っている。
そう、私は一児の母である。エロモンだなんだと大騒ぎして、他所の男に色目を使って隙あらば性的関係に持ち込もうと意気込んでいる、尻軽40女であるが、餅をこねて茹でたようなかわいい娘がいる。

夫と結婚してから、この秋で10年になる。10年もあれば、様々な波風があって当たりまえだ。と思う。この前振りの通り、まあ、うまくいってないのだが、それには「きっかけ」がある。今エロモンだなんだと大騒ぎしていても罪悪感を感じないのはその「きっかけ」のせいだ。私たちは、男女関係としては完全に終わってしまった。
終わりが決定的になったのは、1年前のことだ。別に浮気どうこうという話ではなかった。いや、もっとひどいことが起こった。有り体に言えば子育てについて揉めたのだが、親しい仲だから腹を割って話せば分かり合えるというのは幻想で、親しい仲だからこそ絶対言ってはいけないことまで踏み込んでしまった結果、二度と元には戻れないくらい破壊してしまうことってあるでしょ?我が家のそれは、たとえば殺人事件の被害者家族と加害者の関係の修復の難しさが10だとしたら、7ぐらいの深刻な溝を生んだ。
それでも離婚せずにこうして形だけでも夫婦でいるのは、半分は経済的な事情で、もう半分は娘のことがあるからだ。子どもには両親揃っていたほうがいいという話ではない。私と夫どちらとも、娘を手放したくないからだ。娘も私と夫二人ともと一緒にいたがっている。私達が仲がいいとは言えないことを薄々感じているのだろう。不憫な話だが、これはもうどうしようもない。そんなこんなで今、私たちは3人家族だ。
子どもがいるから私達はまだ形だけでも夫婦なのだが、難しいところは、子どもがいるからその「きっかけ」が生まれたということだ。いや、そもそも夫婦としての内容がすでになかったから、子どもができたぐらいのストレスで関係が壊れたのかもしれない。
私と夫には子どもが生まれる前すでに、性的な関係がほとんどなかった。せいぜい年に3回ぐらいで、それには夫側にも妻である私にも問題があったのだが、最初は私のほうから遠ざかったのだった。結婚した時すでに、セックスしたい相手ではなくなっていた。
特に理由はない。いつもそうなのである。同じ相手に1年を超えて欲情することがない。だからといって他の相手をすぐ探すわけでもない。多分、淡白なのだろう。何故「多分」なのかというと、セックスに興味がないという自覚もないからである。でもしたくてしたくてたまらないという感覚もよく分からない。性欲はあるけど、それは男性と肉体的にぶつかりあいたいという気持ちとはまた別のものだ。ふつふつと湧き上がるエロモンと直面する以前は、私は色気とも煩悩ともほぼ無縁の30代を生きていた。

この中途半端な性欲は、実はオーガズムの深さにも関係しているのかもしれないと最近思い至った。
主に下ねたで繋がっている女友達Aと、クリトリスと膣のどちらでオーガズムを迎えるか話し合った結果、二人共はっきりとクリトリス派で、それも一度しかいかないということが分かった。そして彼女もやっぱり私と同じく、同じ相手とずっと続くというのはあまりない。つまり、セックスから受ける快感と男性との付き合いの長さが、私と彼女ではすごく似ている。
また別の、やはりあけすけにあらゆる話をする友達Bは、一度もオーガズムを感じたことがないという。
これには正直驚いた。だって、クリトリスでいくのはそう難しいことではない。しかも彼女は美人であって、男性経験も豊富であるのに、オーガズムなくしてどうしてそんなにセックスしてこられたのか。あれがなければ正直楽しいどころか苦痛ですらある。私は彼女にセックスが気持ちいいか聞いてみたが、いいと言う。一方で彼女は、同じ相手と継続して関係を結ぶのが苦手な人でもある。男を追い掛け回してもセックスすると直ちに覚めて逃げ出すものだから、悪女の名をほしいままにしたこともあった。余談だが彼女の夫は(彼女は既婚者である)過去出会ったなかでたった四人しかいなかった「一~ニ度で終わらなかった」相手のうちの一人だ。しかしここもうまく行っていない。夫婦が生涯お互いを愛し続けるなんて、これも幻想だ!
いかない彼女は常に、演技する。それを知ったときは本当に驚いて、友達A(これも既婚者である)(不倫中である)と演技について議論したぐらいだったが、そこではたと気づいた。
オーガズムを感じる私と友達Aは、一年ぐらいは関係が続く。しかし演技派の友達Bは、同じ相手と関係を持たない。ということは、オーガズムのある性交であれば彼女の関係ももっと長続きしたかもしれない。というより、純粋な欲情が1年という私の長さは、そんなに短くはないのかもしれない。
とはいえ、こんなイレギュラー選手もいる。
私のまわりで最も性的に奔放である友達Cは、多い時は一週間七日別の男と関係を持つぐらいセックス漬けの毎日を送っている。彼女は独身だが、相手の男はほぼ漏れなく既婚者だ。彼女もクリトリス派であり、しかし私と友達Aのように、ある形が整えばほぼ必ずイケるというタイプではない。彼女の快感には、自分がいくかどうかはあまり関係ない。相手に「こんなに体の相性がいい相手は初めてだ」と思わせることが重要なのである。なので、毎回演技する。オーガズムだけでなく徹頭徹尾、演技だ。そして、彼女の関係は、男が求める限り続く。彼女の周りには10年選手の不倫相手がゴロゴロといて、またこれが既婚者にのみ異様にモテる女なもんだから、新しい相手が年に数人加わって、微妙にローテーションしながらも現役選手が常に3人はいる感じで推移している。

女の快感というのは多様なものなのだな。セックスというのは女にとって、かなりメンタルの占める割合が高いらしい。自分を振り返ってもそう思う。欲情している相手とのセックスは大体気持ちがいいものだが、それが失せてくると気持ちよさも半減する。待てよ、欲情ってなんだ?感情なのか?分からなくなってきたが、1年ぐらいすると、まず自分が相手に奉仕しようと思う気持ちがなくなる。するとセックスの質が落ちる。ますます興味がなくなる。で、友達みたいな関係になる。
夫との間も、結婚した頃には友達みたいになってしまっていた。それでも私は相手が好きでいられるのだが、夫はそうではなかったのだろうか?つまり性的な関係が続いていれば、夫との関係がここまで悪化することはなかったのではないか?しかしセックスレス状態には、夫の側にも問題がある。私の夫は勃起不全の傾向があるのだ。これは夫に限ったことではなく、最近そういう男性が年齢問わず増えているとも聞く。
それでも私達が結婚できたのは、私が本番メインでいくタイプではなかったからで、いや、少なくとも本番メインでいく女なんて周りには一人もいないし、それは男の作り上げた幻想で、AVの悪影響なんではないかと思っていた。バックで突きまくっていたら相手が泡を吹いて失神したとか、快感のあまりに小便を漏らしたとか、そういう逸話を男側から聞いても、たまたまそういう数少ない例を経験したラッキーな事例か、相手が演技していることに気づいてないかのどちらかだろうと思っていた。そんなに出し入れが重要な女ばかりだったら男も困るだろう、特にちゃんと勃たない場合は、とのんきに構えていた。

しかしそんな時、友達Aが「私達は不感症なのではないか疑惑」を持ち込んできた。彼女が他の女友だちと3人で飲んだとき、彼女以外の二人が「本番でいく」派だったというのだ。
女同士だから嘘をつくこともないだろう。さらに驚くことに、その膣オーガズム派の二人が言うには、「クリトリスよりも中でいくほうがずっと気持ちいい」と!
二人とも、一度のセックスで複数回いける派だった。クリ派の私と友達Aは一度しかいけない。しかし、中でいくと一度目がきっかけとなってどんどんイケるほうになるのだそうだ。まじで。
にわかには信じがたい話だった。
そんな時、先ほどの、最中に相手の女性が失禁したとか失神したとか言っていた男性が(同じ男なのである)、「通常サイズのコンドームが入らない」と言い始めた。
この男は、普通に考えると、巨根ということだ。
つまり、巨根を振り回したAVみたいなセックスが深いオーガズムを幾度も誘引するという幻想が、もしかしたら実話なのかもしれない可能性が出てきたのだ。
まさか、私の友人関係のなかでは一番感度がよさそうだった私と友達Aは、Aが言うとおり「不感症」なのだろうか?そもそも、不感症て何?オーガズムて、どんなメカニズムで何をやったら引き起こせるの?AV女優みたいに何度も潮を吹いてイケるようになりたいと思ったら今からでもなれるもんなの?
「セックスって、気持ちいいよ」と、前述の女二人が爽やかに言い放ったそうだ。
なんだか知らないけど、膣派、超かっこいい!!

こんな話ばかりにうつつを抜かしている女は、娘の「いい母親」であろうはずがない。こと娘という生き物は、母親の性的な一面を特に嫌うものである。私もいい母親でいたいと思うし、自分のこういう面については、今のところ家庭内では厳重に隠している。
だが、私が不感症ではなかったら、いやまだ不感症と決まったわけではないが、もしもっと一杯オーガズムを感じられる女だったら、セックスそのものに対する欲求がもっと強くて、一番身近にいる夫との間に継続して良好な性的関係が続き、結果娘にとって一番いい「夫婦円満な家庭」を与えられたかもしれないのだ。
セックスと性欲の問題というのは、不埒で背徳でありながら、同時に神聖で本質的なものだ。不惑にして、自分も周りも惑わせるエロモンについて没入してしまうのは、きっと私に本来性的な関係で繋がるべき相手がおり、その結果として生まれてきた娘がおり、その関係が破綻していて、しかし自分がまだ性的な人間であることときっと、大いに関係している。

よい母親は淫乱なのか。ダメな母親は不感症なのか。巨根が家庭不和を払拭し得るのか。その考察については次号に続く。
(これらの話は、幼稚園のママ友さんにだけは、絶対に知られてはならない)

松下 幸 MATSUSHITA KOH ※ペンネームです
1972年福岡市生まれ シンガポール在住 コピーライターのようなもの
略歴(概略)大学中退➝フリーター➝主婦➝フリーター➝会社員➝フリーランス