乞(こわん)奇譚

文 / 北澤一伯

 『作庭記』(平安時代後期)には、作庭の際、石組みの工夫を「その石の乞(こわん)にしたがひ立てる」のでなければならないとされている。つまり、石が庭師に乞い呼びかけるままに、石の心と声をきいて作庭しなければならないというのである。それは、「語りえぬものについては沈黙しなければならない(ウィトゲンシュタイン)」という言葉を知っているとしても、物質の方から語りかけてくる顕われを、無視しない眼差しの骨法をうながしてくれている。
 石からの呼びかけに耳を傾けるように観ることを、「乞(こわん)」という見方で見立てていくことは、私が制作中に土地と歴史の物事から「場所の力 地霊(ゲニウス・ロキ)」を感じていく思考と響きあっていると思う。

 2006年3月。岡田匡史氏(信州大学教育学部美術教育第2研究室)へ送信した通信文は、作品制作の時、場所の解体と再構築にともなって体験した「乞(こわん)」について書いたものだ。

岡田匡史様
 
 3月3日。辰野美術館では失礼しました。
「立ちあがる境界」(辰野美術館企画1994年)のために制作されたJR辰野駅前旧日本通運事務所2階内部の『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』は、2005年12月の事務所建造物の解体にともない辰野美術館内部にあらためて再制作することになりました。
3月1日。作品設置終了。3日。写真撮影を終了しました。「死んだ水うさぎ」と名付けた作品は、身体性をともなわないがために、生命あるものとは別の物質的プロセスと私の労働を経て復活したわけです。「水うさぎ」とは、私の「イメージ」のイメージ。もしくは「イメージの躍動性」に名付けたニックネーム。場所から狩り出される思想の動勢(ムーヴマン)のことです。
詳しくいいますと、『「丘」をめぐって~』連作は、「死」と「再生」を隠れたテーマとし、1994年、長野〜釜山の交流展「人間潮流’94」で長野市中御所の印刷工の空き家、「アートキャンプ白州 風の又三郎」では山梨県北杜市白州町横手にあった酪農開拓者の廃屋の内部を、自分の壊れてしまった心の内部に見立てて改修し建物内部を清浄に磨きあげることで、私自身の再生再誕を語ることができると考え、作品制作によって苦しみをのりこえることを意図したものでした。
「丘」とは苦しみの難問群の小山のことです。「丘」を越えるように、美術で自分の問題を克服し、労働力を注ぎ込んで造りとげることにより、美術にかかわる私の「生」の肯定的意味を実感できるプロジェクトとしての『「丘」をめぐって~』連作を、私は構想したのです。
 岡田さんが、私の営みを、信仰をもつ人々とは別の登山口から登ろうとしたと指摘されたことは、「丘」を形而上で超えようとしたことを言いあてていたため、私は強く心を動かされました。
 当時、私の考えた美術界とは、画壇という美術界ではなく、例えていえば、鉱物界、植物界 動物界と分類されるような意味をこめて想像した物質的美術界のことです。
 私は、『「丘」をめぐって〜』連作の「死「と「再生」が、自分の身体を通して何度でも実現され、形而上とはいえ「丘」を登りつづけ、私が生き延びなければ、「死んだ水うさぎ」は作品にはならない状況に立っていると自覚して制作してきました。
 その後,物質が変容し美術になっていくという意味での美術界と、情況としての美術界を区別していく立場と姿勢を往還しながら、『「丘」をめぐって〜』連作は、松川町、松本、辰野町にある廃家で展開されました。
 岡田さんが観たのは、2000年、辰野町商工会分館の『「丘」をめぐって<脱構築>』です。

 さらに2001年、高村光太郎の詩集「典型」が書かれた岩手県花巻市にある住居を観て、彼の独居7年の間に制作されたのは、囲炉裏の灰に埋められて焼成された「うさぎの頭部」ただ一つであったことを知ったことで、自己の「生」を見つめた彫刻家の生きかたと、私の穂高仕事場での独居がリンクして、物質が彫刻に変容していく過程は、場所と物質と「こころ」の詩的昇華として出現するのではないかという仮説に至りました。

 3月3日。作品の前に必要な物質を置き、最終的に制作完了と感じて写真撮影をしていると、岡田さんが展示場所に現れて、いくつか感想を語ってくれました。
私の心に響く言葉を注意深く語ってくれたのは、美術教育の研究者ではなく敬虔なクリスチャンである岡田さんの信仰の眼差しからのもので、制作をすることと物質が持つ隠れた意味との関係を示唆していただいたのです。それは、涙が止まらないほど私の情動が強く動く内容でした。
 実は、岡田さんが最初の観客であったことに意味があったと、私は考えています。それは、1994年5月、山梨県北杜市白州町(当時は北巨摩郡)で廃屋を探しからスタートし、夏期のみ5年間制作し続けた後、解体された『「丘」をめぐって <丘>の家』と、同年秋、辰野町で制作した『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』が再制作されたことの根底を貫いているにもかかわらず、伝えるための描写が困難な体験でもあるのです。

 1994年5月。白州町横手地区で制作場所の廃屋を探していた時のこと。自転車に乗って、ラベンダーの花畑脇の小道を進むと、はやる気持ちというのか、この道の先にかならず廃屋が在る、無ければ美術など嘘で無意味だという考えで自分自身が対処できない気分にかられたのです。
 そして、しばらく進むと、確かに廃屋はありました。道路脇の展示条件としては良い立地ではありませんでしたが、予感のような感覚の直後に探し当てたことでもあり決心して展覧会企画担当者に連絡すると、簡単な交渉で廃屋管理者から了承され制作場所として借りることができました。
 その2週間後。内部を片付け庭を掃除している時、廃屋の表札に目が止まったのです。その表札には<大久保丘郎>と書かれていました。・・・おおくぼおかろう。あらかじめ、『「丘」をめぐって~』というタイトルで仕事を始めた私は、「丘」という文字のある表札を、不思議な気持ちで見上げていました。
 「丘」だ。
 そして突然、制作現場の廃屋の、すでに故人となっていた世帯主の生前の名前は「大久保丘郎」といい、私は『丘』という文字にかかわる場所で制作を始めたのだ、ということを理解したのです。まるで警策で打据えられたようでした。
 その時私は、私の思考の「丘」と、酪農開拓者である大久保家の世帯主の「丘」との接点に立ち、「場所の力」としかいえないような、語ることのできないものから呼びかけられ結ばれたと感じ、その場所を発見する直前の、居ても立ってもいられない、なにかに憧れていくような気持ちを思い出しました。
 確かに、私は「丘」に呼ばれたといえます。

 『「丘」をめぐって~』連作の構想に、大久保家の戦時中の空襲被災と終戦後の開拓物語が働き、「死」と「再生」の仕事に<ふくらみ>を持ったと思えること。<ふくらみ>とは彫刻の造形要素である<量感>につながること。最初の制作年の仕事終了時に大久保家の娘さんが、「父ちゃんの記念碑ができた」と言ったこと。記念碑とは「死」に触れる彫刻の重要概念であること。亡くなった大久保丘郎さんの仕事が酪農であり、廃屋への入口が乳牛の飼われていた厩であったため、それが私の心の中では、星に従ってベツレヘムへ赴き、厩の飼葉桶の中で眠る御子の前に畏敬の念をもって立つ物語につながっていると想えたこと。
「立つ」ことの美しさは彫刻の定義であると考えていたこと。
 そうした出来事の重なりによって、解体されるまでの5年間、廃屋周辺の光景は『「丘」をめぐって <丘>の家』として、私に浄福の在り方を見せていたのです。

 3月3日。あの日、岡田さんが、制作完了後の最初の観客として作品の前に現れた事に特別な意味があるのではないかと書いたのは、前述の94年に<大久保丘郎>と書かれた表札を見て体験した警策に打たれた感覚が、岡田さんと別れた直後に回帰したからです。
 「丘」だ。
突然、「丘」という言葉が閃いたのです。真に強い印象が、私を打ちました。
 再び、確かに私は「丘」に呼ばれたといえます。
そして、「大久保丘郎」という『丘』という文字にかかわる場所で制作をし、さらに『「丘」をめぐって〜』連作の制作を続けた意味が、苗字に『おか』という表音を持っている岡田さんから語られたと、私には思えてならないのです。
 つまり、岡田匡史<おかだまさし>さんが、『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』における「死」と「再生」の循環的メカニズムを、物質的美術界の顕われとして私に観せたと想え、まるで、岡田さんが『「丘」だ。』さんとして、『「まさし」』く私の前に物質界内部から出現したかのように考えられる不思議を、私は感じたのです。
 そして、『「丘」だ。』さんとして顕れた「丘」が、岡田さんの身体を使って、「死」と「再生」をくり返す「丘」の言霊、もしくは物質と場所の美術の真言を語ったかのようなイメージが、私に宿ったのです。
 こうした、連想は、都合のよい語呂あわせのたぐいと、一笑にふされてしまうことかもしれません。しかし、いくつかの体験から私における<生きる意味>とは、<世界の意味を知りたい>という欲求を満たしていく時に出会う重要な出来事を、作品制作の行為をしつつ解読していくことだと考えるようになりました。
そのような意味で<生きる歓び>は美術行為にともなっています。
 このことから、写真撮影中の私の背後に岡田さんが現れ、写真撮影終了まで静かに佇んで待ち、作品を観た後、私に向い、物質と場所が醸しだす聖性について語るという一連の出来事は、制作という荒行に沿うことで触れていく私が知るべき世界だったと思えるのです。
1994年に書いた作品コメント『「丘」をめぐって』に、私は次のように書きました。

『・・・現在は未来に姿をあらわす。情況を微妙な方法ですり抜け、のりこえる術。美術。形而上の高原を歩いていくこと。自らの「生」の意味を思索し背後を深く体験し持続すること。至福への旅。「丘」をめぐって。』(1994年、「立ちあがる境界」(辰野美術館企画)カタログ)

 2006年の現在、コメントを再読してみると、少なくとも12年の長期にわたり、私の経過をみせるため、現実をとらえようとするため、傷の深さを語るため、「私」を癒し再建したいという祈りにも似た感情で物質に触れたことを知らせ、さらに一層よく、世界を観て世界の背後を体験するコメントに沿った「生」を、私はすごしたのだと思います。
 まるでコメントの内容が、水に似て、うさぎにも似て、長い年月をかけて動くべき行程を回遊し回帰したかのようです。今回の再制作は、全体をまだ理解できない物語に気づかせながら、その深さの中を、私は確かにひとりで歩いてきたのだと、私に感じさせます。
 「丘」をめぐって。私は、いけるところまでいく。至福への旅。

                          2006年 3月 北澤一伯

 この通信文を送信してから7年を経た1013年2月現在、作品『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』は、再び解体されて辰野美術館内部に在る。
 「たといこの生をすてて、まだのちの生にうまれざらんそのあいだ、中有ということあり(正法眼蔵道心)」にある中有の考えを肯(うけが)うならば、「死」と「再生」を隠れたテーマにしたこの作品は、何度でも解体され回遊し、何度でも構築されて、いわゆる再生を実現する在り方になっているということになるのだろう。

 物質には言葉の潜行があり、場所には沈黙と異なる話法があると、私は思う。
3・11後、綺麗な言葉の表面には裏があることが暴かれたにもかかわらず、その暴かれた裏面は、何事もなかったかのような沈黙の表面と化して綺麗な言葉になっていく。土も水も汚染されつづけたまま風化が語られる。
綺麗な言葉とは、3・11以前から主流に位置し、不都合な真実を、綺麗で何事もなかったことにしてしまう話法の語り手たちの語り口のことだった。

 そうした事態の否定として、「石には呼ぶものがある」という『作庭記』の観想は活きる。
「乞(こわん)」にしたがう。
美術は奇譚で語られる。

解体される「光の井戸」 2005年12月 JR辰野駅前旧日本通運事務所建造物内部に構築した『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』解体部分。

 解体される「光の井戸」
2005年12月
JR辰野駅前旧日本通運事務所建造物内部に構築した『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』解体部分。



北澤一伯 Kazunori Kitazawa 1949年長野県伊那市生れ。
発表歴:
1971年から作品発表。794年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。