存在と偽装—超複製技術時代の芸術作品Ⅳ 〈〈貧しさ〉の表現としての女性表象②〉

文 / 服部洋介

三石友貴「ヌード」
2017年、写真
©Yuki Mitsuishi
Courtesy of the artist

 先ごろ、「LGBTには生産性がない」という趣旨のことを発言して物議を醸した国会議員がおられたが、このことは、現状、LGBTの人たちが社会の維持に必要とされる〈再生産〉(reproduction)、すなわち、子どもを作るということに与らない、ということに端を発している。人間の価値が生産性で云々されなくてはならないのは、私たちが、貧しく、限りある存在であることに起因する。「嫁して三年、子なきは去る」といわれたように、とりわけ女性は、資源の分配権を握る支配的なジェンダーである男性が作り上げた家父長制における価値観のもとで、再生産につながる繁殖能力の高さによって評価されてきた。収奪する側が女性に求めるのは「妻、母、娼婦」ばかりで、とどのつまり、そこから外れた女性表象に社会性が付与されることはない、と、笙野頼子は言った(*1)。男女の繁殖戦略をめぐる攻防の中で、権力を握った男性が最適手として編み出したのが、この家父長制であった。こうして、富める男性が、女性側を一方的に表象し、これを受動的な存在として定立した結果、男性視線の女性表象に社会性が付与されることとなり、今やそれが、女性たちの攻撃の的となっているのである。
 ダラ・コスタは『愛の労働』の中で、19世紀後半以降の先進資本主義国における妻の役割を「新しい労働力を生み出すため(…)、男を性的に慰めて、肉体的、精神的に再生産するためのもの」と規定した。「女が結婚の内外において大衆的にこうむっている肉体的暴力のもっとも明白的な性的特徴は、結婚の中で女が置かれている地位に基づいている。この性的労働に関して資本が非常に厳格な規律を強要するのは、明らかに資本がこの労働によって労働力の再生産の確保をしなければならなかったからである」(*2)。「女は家族全体を再生産するかぎりにおいて、自分の生存だけは確保することができる。女は自分の生存のみと引き換えに働かされているのに、それは労働者の家族というものが形成されたおよそ19世紀後半以後、先進資本主義諸国において、ロマン主義的愛のイデオロギーと定義すべきある特殊な「愛」のイデオロギーによって神秘化されてきた」(*3)。「このイデオロギーを統括的に「愛の労働」としての家事労働イデオロギーとして定義することができるだろう」(*4)。このようにして、夫の必要を満たすことが「愛」だと考えられるようになり、資本の要請に従って、無償労働としての家事労働を正当化することが可能になった、とダラ・コスタは考える。結婚において課せられる第一のものは、表向きは「愛」であって労働ではない。この偽装によって、男は女の労働力を獲得するのである。「だから資本主義の下では、愛は「素晴らしいこと」であるどころか、労働関係を覆い隠す神秘化の中でもっとも重大な神秘化にほかならない。賃金も支払われることなく家事労働を供給するような女を駆り立てているのは、この「愛」なのである」(*5)。
 なるほど、と言いたいところだが、女性の権利については語っても、子どもをもつことについてどう考えるかについてさほど頓着しなかった旧来のフェミニズムは、当の女性たちに今一つウケが悪かったと見え、〈産む/産まない〉の自己決定をめぐっては、女性たちの間に、いまだ根深い心情的対立があるように思われる。産まない女性は現世で楽をしているため、来世では労苦に苛まれるという考え方がかつての日本にもあったが、そもそも、哺乳類全体において、女性の方が繁殖にかかる初期コストが高いという生物学的な特質と、男性側が生産手段と資源を独占するという、ヒト社会における文明的な特質が、子をもつということについての女性側の労苦、すなわち〈貧しさ〉を作り出したといえるだろう。つまり、子を産み育てるということは、一つの〈労働〉であったのだ。
 世界が文句なく豊かであれば、「産む/産まない」をめぐって、それほど目くじら立てて議論がなされるといったこともないであろう。生産性云々というのは〈労働〉をめぐる議論にほかならない。それは〈労働〉が消滅した世界で問題になるような事柄ではない。反対に、人的資源の増強が必要となる戦時下のような極度に〈貧しい〉状況においては、「産めよ増やせよ」(*6)の早婚・多産が、国家集団のために奨励されることとなり、勢い独身者に課税してそのインセンティヴで結婚を促そうという政策が立案されるようになる(*7)。
 一方、ヒトが農耕牧畜を始めて以来、適応度(ここでは「生物個体が、ある特定の環境のもとで、生存し、繁殖する性質」と定義する(*8))を高めるために採ってきた戦術というものは、〈貧しさ〉の解消とともに急激に変化しつつあるように見える。18世紀以降の近代工業社会では、人々は次第に子をもとうとはしなくなり、社会は少子化の傾向を辿るようになる。これは人間行動生態学上の謎とされており、今もって進化的な適応なのか、不適応の産物なのか、結論は出ていない(Borgerhoff Mulder, 1988)(*9)。現在の進化学では「種の保存」という考えは、利己的遺伝子との利害関係においてほとんど意味をなさないものであるから、これらのことが人類全体の人口調整のための進化的適応であるとは考えにくい。適応であるとすれば、何か別の説明が考えられなくてはならない。すなわち、多くの子をもたないことが、かえって個体の適応度を上昇させるという数理的な証明が得られるならば、これらの現象は進化的な適応であるということができるのである。
 もっとも、ヒトほど賢くなれば、何人の子どもをもつことが、個人や家族における人生の質を最適なものとするか、その採算点を見極めようとするのは至極当然のことのように思われる。社会学は、先進諸国における少子化を次のように捉えている。まず、近代社会における少子化自体は、そもそも不思議なことではない。低出生率と乳幼児死亡率の低さは比例関係にある(高出生率と乳幼児死亡率の高さはセットになっており、2016年の乳幼児死亡率が0.20%であるのに対し、1889年が15.38%であった)。すなわち、栄養事情に優れ、保健衛生の行き届いた〈豊かな〉社会では、多産である必要がない。また、子どもを労働力の一部と見なす必要もないため、早婚・多産が奨励されることもない。子どもを重要な労働力とする伝統社会では、小家族ほど多く養子を迎えることが統計的に知られているが(Silk, 1980)(*10)、このことは先進諸国の少子化と裏返しの関係にある。

三石友貴「愛してる」
2017年、写真
©Yuki Mitsuishi
Courtesy of the artist

 次の点。先進諸国における〈非常に低い低出生率〉(very low fertility、女性1人あたりの出生児数が長期にわたって1.5人未満である状態)という予期せぬ事態の背景について、マクドナルドは、社会的リベラリズム、経済的リストラという、大きな二つの変化を挙げている。すなわち、「家庭の外で活躍する機会が女性にも開かれたことによってジェンダーの公平・公正(gender equity)が現実化」したこと、「労働市場における競争が激化する状況下で、男女を問わず若い人々のリスク回避傾向が鮮明に」なったことが、その主要な要因である、とする(McDonald, 2006a)(*11)。低出生は、若い人々の出生意欲にかかわらず、主として不安定化する労働市場におけるリスク回避の動機から、家族へと向けられる利他的な努力よりも、自らの人的資本(教育及び職業経験)を蓄積することが優先され、家族形成が先送りされることによって惹き起こされる(*12)。「とりわけ問題なのは、家族形成にともなうリスクが、男性よりも女性にとって大きいことである。したがって、女性は、家庭と自分たちに開かれたそれ以外の機会、特に雇用により得られる機会とを両立できるという確信が得られない場合、結婚及び出生に踏み切ることに慎重になる」(*13)。これは、極端な低出生が、ある種の〈貧しさ〉の指標であることを意味している。この議論に限って言えば、それはとりわけ、女性における〈貧しさ〉のあらわれである。
 これらの人間行動を繁殖成功度の視点から動機づけようとする進化学の立場からすれば、フェミニズムとは、女性側の繁殖コストを男性並みに引き下げつつ、自身の適応度を最大化しようとする女性側の戦略の一つとして基礎づけることができるであろう。人間行動を生物学的な原則に還元することが可能であるか否かについては答えるすべもないが、目下のところ女性が支払わされている多種多様な社会的コストの根源である家父長制のメカニズムについて考える際、進化学はユニークな視点をわれわれに提供してくれる。とりわけ興味深いのは、男性が多数の女性と配偶することで繁殖成功度を上昇させることができるのに対し、女性が多数の男性と配偶しても繁殖成功度が変化することがないという、一見当たり前だが、よくよく考えると意味深長な事実である(Dorjahn, 1958. Smith & Kunz, 1976)(*14)。このことが意味するのは、男性における繁殖コストが安価である一方、妊娠・出産する当の女性におけるコストが高くつくこと、その結果として男女の実効性比に偏りが生じ、コストの小さな性(男)において競争が生じる、という事実である。アウストラロピテクス・アファレンシスに比べ、ホモ・サピエンス(ヒト)において推定される性的二型の差は小さく、雌獲得のための雄間競争を勝ち抜くために雄だけが発達させる特別な形質というものは見られない。このことはむしろ、ヒトにおける雄間競争のおだやかなことを意味している。しかし、資本の蓄積が、ヒトの男性においても、ランクの高い個体の適応度を極端に上昇させ、動物の雄並みの格差を創り出すことを可能にした。じつは、この男性間格差、男性内部における不平等の現出こそが、家父長制ないし男権社会の起源だといわれるのである(*15)。
 家父長制という配偶システムの特質については、すでに前稿で述べた。くりかえしになるが、このシステムの下で女性に求められるのは、貞節(処女性。性を知らないこと)と純潔(夫にのみ忠実であること)である。リーアン・アイスラーは、貞節と純潔を命より重いと見なす価値観は、家父長制社会に一般的なものである、と言った。若桑みどりは、アイスラー説をこう要約する。家父長制の根底にあるのは「女性が、生命を生み出す道具として有益な財産(子供を産むという再生産)だということ」「(女性の)生産管理を厳格にすることによってのみ、それが父の子供であるということが保障されるという事実」であり、「もし厳格に管理しなければ、世界はふたたび、かつてのような母系しか確認できない性的自由の世界にもどってしまうわけで、そのことは家父長制の崩壊を意味する」(*16)。進化学もこの見方に同意する。伝統社会において妻となる女性に期待されるのは、まず、若くて繁殖力のあること、処女であることである。家が生業の単位となっているところでは、血縁集団の力を強めるために多産であることが、そして、確実に夫の子だけを産むということが男性側の適応度を高める上で決定的に重要なのである(*17)。この理屈でいけば、富裕な男性は、たくさんの妻を迎えることで、適応度を飛躍的に上昇させることが可能となる。他の男性を排除し、女性の性行動をコントロールすることで、自らの適応度を上げるという繁殖戦略の有効性が、家父長制という装置を生み出したと進化学は考えるのだ(*18)。
 このことをもう少し詳しく見てみよう。そもそも、父性の確実さはなぜ問題とされるのか? このことが問題となるのは、とりわけ、雄がわが子に対して多大な投資を行なう配偶システムをもつ種においてである。ヒトの場合も、男性は、自分の所有する資源が確実に自分の子だけに使われるよう、配偶者防衛によって女性の性行動を管理しようとする(*19)。しかし、現代社会を見てもわかるように、平均的な男性が何人もの妻をもち、多数の子どもを養うということは、ほとんど不可能に近い。また、ヒトは淘汰の過程で雄間競争よりも男性同士の連合関係による協力によって適応度を上げる方向で進化を遂げたと考えられており、互いの配偶権を尊重する形で、極端な一夫多妻と乱婚から隔たるようになったと見られている。じっさい、一夫多妻制の社会でも、複数の妻をもてる男性は限られており、制度としての体を成してはいないのである。観察的事実からいえば、複数の妻をもつような富裕で高貴な階層の所有に帰する女性ほど、生産管理は厳しくなされ、かつての大奥のような場所に隔離され、表象不可能な状態に置かれるのが一般的であり、反対に、一夫多妻が不可能な社会、すなわち、富を蓄積することができない狩猟採集社会にあっては、女性による配偶者の〈選り好み〉が認められ、相手が気に入らなければ、結婚を破棄することもできるのである。このような社会では、男性による配偶者防衛の程度や、女性の従属度も低いことがわかっている(*20)。つまり、女性を支配することで男性が自身の適応度を上げることが可能となるのは、男性側に富の蓄積がある、不平等な社会においてのみということになる。これは結局、サル山のボスザルのようなもので、ほとんど先祖帰りに等しい現象ではあったが、ここ一万年ほどの歴史を規定してきた男性側の必勝戦略でもあったのだ。男性が権力欲を発達させたのは、それが繁殖成功度を上げるために寄与したからだと進化心理学は考える(*21)。
 ここで前稿に引き続き、三石友貴の一連の作品に目を向けてみよう。会場内に設営された密室で、不特定多数の男女と「ベッドイン」する彼女のパフォーマンス『わたしとあなたのベッドイン』(2017)については、すでに見た。来場者は、性的な表象で満たされた特別な個室の中で、三石と対峙し、一角にしつらえられたベッドの中で抱擁を交わす。それは「一般的ではない関係」「もっとも親密なコミュニケーション」の入口である。「もっとも親密なコミュニケーション」とは「sex」であると彼女は言う。「わたしはsexをする訳ではないけど、sexの前段階であるベッドインを通して、あなたと違う関係を築きます。おそらくそれには快感が伴うでしょう」「不特定多数の人にわたしを開いて擬似sexすることによって、(わたしは)わたしを知ることになる」(*22)。

三石友貴「すきなのです」
2017年、写真
©Yuki Mitsuishi
Courtesy of the artist


 

    ベッドインとは、共にベッドに入ることであり、その後には性行為の遂行を暗示します。つまりベッドインは擬似セックスを意味する行為だと考えます。性行為という最も親密なコミュニケーションの1つと言える行為の真似事です。そのような特殊な体験をすることで私は他者を介して自分の様々な一面を見出すことを目的としています。また、他者である「あなた」には特殊な体験をプレゼントします。(三石友貴「ご挨拶に代えて自己紹介とパフォーマンスご案内」『わたしとあなたのベッドイン』より)(*23)

    今回のパフォーマンスではベッドインは擬似セックスを指します。最も親密なコミュニケーションのひとつと言えるセックスの擬似体験をすることでわたしは新たなわたしを体験できると仮定しています。また参加者にはベッドインという非日常の体験をプレゼントします。なぜセックスというある種タブーなものを持ち出すのか疑問や不快感を持たれる方もあるかと思いますが、わたしにとってセックスは日常に埋没した自己を取り戻したり開放したりできる大切なもののひとつです。(三石『ご挨拶にかえて自己紹介とわたしのコンセプトについて』より)(*24)

 当初、想定されていたパフォーマンスの内容は「ベッドインの時間は最大5分間」「ベッドインの方法は自由」「ハグと唇以外の身体へのキスは可能」というものであったが、展示の性質上、ハグのみに限定されたようである(「ベッドインの仕方は自由です。リードしていただいても受身でも、手をつなぎながらでも乱暴に押し倒してもかまいません。ベッドインですので、スキンシップはハグまでとします」と変更された(*25)。なお、このパフォーマンスは「社会問題やジェンダー問題を提起するものでは」なく、「制作者であるわたしのために行」うと規定されている(*26)。「アートは恥ずかしいことを恥ずかしくなくできる媒体の1つ」「演劇もまた然り」(*27)と三石は言う。それは、禁止されたものを実演化するための一つの避難装置としての役割を果たす。現実の諸条件において妨げられた理念を十全に表現するもの、それがアートであるという考え方は、アリストテレスの『詩学』に由来する。その基盤において、アートは偶有的な現実を超越する。現に実現しない虚構であるがゆえに現実に優越するという真理観の転倒がもたらされるのである(*28)。三石にとってそれは、表現することを妨げられてきた自らの身体をさらけ出すとともに、他者の体験を通じて自己を逆規定しようとする脱自的〔ekstatisch〕な試みであった。このことは、二重の禁止にさらされている。自らを男女問わず不特定多数の他者の前に投げ出すことは、一つには家父長制に基づくヘテロセクシズムの倫理綱領に反する卑しむべき行為である。さらには、多数の男性と親密になることは、他の女性の配偶権を侵犯し、それら女性たちとの間に男性側の投資をめぐって競争が生じさせることになるであろう。しかし、すでに見た通り、これは男性間格差の大きな不平等な社会、同時に、男性が女性の性行動をコントロールすることで適応度を高めることが可能な社会における配偶システムの特質なのである。逆に女性が生計を握った場合、彼女は何人の男性と配偶しようが、生まれてくる子は自分の子であることに変わりはないため、男性側の投資に頼ることなく、自身の適応度を高めることが可能となる。したがって、従来型の〈労働〉が終焉した豊かな世界においては、女性が男性の投資に依存する必要も、男性同士が連合関係を結んで〈労働〉にあたる必要もないため、互いの配偶権を尊重する必要性自体が消滅し、結果として、女性の〈選り好み〉の自由度が高まるのではないか、と想像することもできるであろう。それに対し、男性側がどんな繁殖戦術を取りうるのかは定かでないが(富を独占できない以上、身体的、人格的に女性の選好に自身を適応させるほかないであろう)、もはや、父性の所在を確定させるために、ある女性を特定の男性のもとに生涯にわたって縛りつけるなどという独占的な人間関係が、国家の法によって特別に保護されてしかるべきか否か、私には甚だもって疑わしい。西欧の一部の国では、このような考え方がすでに廃れつつあるように思われる。子をなしたからといって、必ずしも夫婦とはならないという男女関係の在り方は、男女のペアが持続するために不可欠な要件が、相互の選好の一致にあることを示している。日本のように「子は鎹」とはならない代わりに、夫婦とは「忍の一字」ということもまたないのである。
 

三石友貴「わたし(ベッド)」
2017年、写真
©Yuki Mitsuishi
Courtesy of the artist

かといって、ヒトがある特定の異性(同性ということもありうるであろう)との間に形成する強い絆(ペア・ボンド)について、私は否定しようとは思わない。ただ、特定の異性が一人でなくてはならないとは必ずしも思われないし、それが同性であってはならないという考えにも必然性を覚えない。しかし、ヒトが生来、無軌道な乱婚的パートナーシップに適応し、どんな相手とも親密になれるようにできているとは、まして到底思われない。そこで「愛する相手の数は自分の意志で決めるべき」であるとする〈複数愛〉(ポリアモリー、polyamory)という考え方が登場する。「〈一対一〉の愛だけが正しいわけではない」「愛は社会規範が保証するわけではない」とポリアモリストは主張する(*29)。より厳密には、ポリアモリーは「自分と親密な関係にある全ての人に交際状況をオープンにし、合意の上で同時に複数のパートナーと誠実な関係を築く」という愛の様態として規定される。三石は、「ベッドイン」体験を通じて、従来からのポリアモラスな志向をよりはっきりと確認したように見える。疑似セックスとしての「ベッドイン」から、実際のセックスまでの隔たりは、究極的には、あるようでないようなものだと三石は述べている(*30)。じっさい、当時の彼女は、一対一で交際するパートナーがいながらも、複数の男性とセックスしてみたいという欲望を率直に表明している(*31)。この時点での彼女は、彼女一人に二人の性愛パートナーがいるヴィー(Vee)と呼ばれる三者関係を想定していたが、それぞれが合意したにもかかわらず、実現はしなかった。上に見たような進化学上の所見から、ヒトの恋愛心理には、ポリアモリーの成就を躊躇させる様々な適応上の性質が残存しており、一般的な傾向として、パートナーが他の異性と性的接触をもつことについては、特に男性側に強い苦悩が生じるようである(父性の混乱を回避しようとする防衛的な心理であると考えられている)(Buss et al., 1992, 1999)(*32)。ポリアモリストにおいても、嫉妬の克服ということは困難な課題の一つなのである。
ポリアモリストたちは、協力や絆、誠実さを自己の表象とする。だが、私にはむしろ、そのような旧来の理念に過度に固執することは、ポリアモリー自体を困難なものにするようにも思える。それらはむしろ単婚制において強調されてきた事柄であるからだ。子に対する夫婦の投資量が限られる貧しい社会においては、単婚制は有効な配偶システムであったといえるであろう。一方、〈労働〉終焉後の豊かな世界においては、貧しい社会においては不可欠のものであった人々の協力関係や、絆、あるいは自己を犠牲にして家族や包括的血縁集団のために尽くすといった崇高な利他精神といったものを、人々の間に見出すことはもはやできないであろう。しかし、そのような崇高な犠牲なくして人々が幸福になれるのならば、なおよいと考えることもできる。そのような基盤の上に、セックスとしての〈ベッドイン〉を軽やかに体験すること、そのもっともシンプルな欲望をそのままに肯定することこそが、より単純に、より際立って根源的に〈ベッドイン〉を〈ベッドイン〉させるのである(*33)。そこに社会問題もジェンダー問題も存在しないという三石の言葉は、未だ到来しない未来における愛のかたちを贅沢に先取りしたものにほかならないが、その気になれば、それはいつでも私たちの前に開かれている、ということを実演してみせたものであるとも言いうるであろう。

〈Ⅴへと続く〉

(*1)笙野頼子「「フェミニズム」から遠く離れて」(北原みのり編『日本のフェミニズム since 1886 性の戦い編』所収)、河出書房新書、2017年、109頁。
(*2)ジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタ『愛の労働』、伊田久美子訳、インパクト出版会、1991年、56頁。
(*3)ダラ・コスタ、同書、22~23頁。
(*4)ダラ・コスタ、同書、24頁。
(*5)ダラ・コスタ、同書、24~25頁。
(*6)内閣情報局編「結婚十訓」(「これからの結婚はこのやうに」『写真週報』昭和17年4月29日号所収)、1942年。
(*7)「獨身者の負擔を加重する等租税政策に就き人口政策との關係を考慮すること」(昭和16年1月22日閣議決定『人口政策確立要綱』、1941年)。
(*8)ジェフリー・F・ミラー『恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化』、長谷川眞理子訳、岩波書店、2002年、150頁。
(*9)長谷川寿一・長谷川眞理子『進化と人間行動』、東京大学出版会、2000年、226~227頁。
(*10)長谷川、同書、130頁。
(*11)ピーター・マクドナルド「非常に低い出生率:その結果、原因、及び政策アプローチ」(『人口問題研究』(J. of Population Problems)64-2(2008. 6)所収)、佐々井司訳、国立社会保障・人口問題研究所、2008年、48頁。
(*12)マクドナルド、同書、49頁。
(*13)マクドナルド、同書、48頁。
(*14)マクドナルド、同書、48頁。
(*15)長谷川、前掲書、210頁。
(*16)若桑みどり『象徴としての女性像──ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』筑摩書房、2000年、275~281頁。もとの出典はMarina Warner, Monuments & Madiens : The Allegories of the Female Form, New York, 1985, p.343.。
(*17)長谷川、前掲書、231~232頁。
(*18)長谷川、前掲書、251~252頁。
(*19)長谷川、前掲書、247頁。
(*20)長谷川、前掲書、233~234頁。
(*21)長谷川、前掲書、215頁。
(*22)三石友貴、メッセンジャー、2017年11月26日。
(*23)三石、メッセンジャー、2017年12月9日。
(*24)三石、メール、2017年12月13日。
(*25)三石「ご挨拶にかえて自己紹介とわたしのコンセプトについて」、メール、2017年12月13日)
(*26)三石、同上。
(*27)三石、メッセンジャー、2017年11月28日。
(*28)アリストテレスは歴史と詩作(芸術)を比較し、「なにかおこったことをかたるのが詩人の仕事ではなく、おこりえたかもしれぬこと、すなわち真実らしさあるいは必然性にしたがってありえたことをかたること(…)。両者のことなるのは、一方がおこったことをかたり、一方がおこりえたかもしれぬことをかたるという点である。それだから、詩作は歴史よりももっと哲学的であれ、より厳粛なものである。というのは詩作はどちらかといえば普遍的なことをかたり、歴史は個々のことがらをかたるのである」と言う(アリストテレス「詩学」(『世界第思想全集 哲学・文芸思想篇21』所収)北条元一・戸張智雄訳、河出書房新社、1960年、11~12頁)。この言葉は種々に拡大解釈されてきたが、ここでは詳しくは述べない。
(*29)深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』〈平凡社新書777〉、平凡社、2015年、13頁。
(*30)三石、インタビュー、2017年12月23日。
(*31)三石、メッセンジャー、2017年12月24日。
(*32)長谷川、前掲書、245~246頁。
(*33)服部洋介「存在と偽装~超複製技術時代の芸術作品Ⅲ 〈〈貧しさ〉の表現としての女性表象①〉」(『ブランチング25』所収)、2018年(Web版/http://branching.jp/?p=4439)。

なお、作品写真掲載の許可をいただいた三石氏にこの場をかりて御礼を申し上げたい。

服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14