灰に書く稗史のように

タイトル:段丘地の台座 素材:集合材 ガラス 鉄鋼材 砥石 薊 蜜蝋 サイズ:300x300x40cm 場所:アンフォルメル中川村美術館アトリエ棟 http://www.informelmuseum.com 長野県上伊那郡中川村

タイトル:段丘地の台座
素材:集合材 ガラス 鉄鋼材 砥石 薊 蜜蝋
サイズ:300x300x40cm
場所:アンフォルメル中川村美術館アトリエ棟
http://www.informelmuseum.com
長野県上伊那郡中川村


文・作品(写真) / 北澤一伯

 上伊那郡中川村の『中川村誌中巻(原始・古代史編/中世編/近世編)』は、中世編第二節で鎌倉幕府の滅亡から南北朝対立に関わる北条時行の幼名亀寿丸の隠遁地に、同村の四徳殿小屋の殿屋敷と鎌倉屋敷をコラムで示し、南北朝時代と中川村との関わりについて記録している。
 そこには、隠遁地の伝説として伊那市高遠や下伊那郡大鹿村とともに、伊那市富県福地時行屋敷をあげてある。場所の特定はできないが、私の出生地であり現住所である富県南福地と関係が強いと考えられる。『長野県上伊那郡誌歴史編』や2015年に編纂された『南福地ものがたり(南福地地名研究グループ)』にも、同様の記述を確認でき興味深い。
 天竜川水域の東岸に位置しているそれらの地形より、水源諏訪湖に繫がる地貌がある事を認識したことが、中川村と私が空間的なつながりを感じる発見だったと思う。
 同時に、栄枯盛衰を繰り返す伊那の豪族の地政の、天竜川の東岸と西岸に別れ、また合流し南北へと運動するダイナミズムを想定する時、美術という西洋の思考が、極東の島国の中央に位置する伊那谷へ浸透していく道筋を考察する興味に搦めとられてしまうようだ。
 日本近現代美術史を研究している北澤憲昭氏の『眼の神殿 美術出版社』によると美術という言葉自体が、日本の1873年ウィーン万博参加にあたり、その出品区分を訳出する時、ドイツ語のSchöne Kunstの訳語として「美術」と造語した物だと綿密に論証している。
 また、日本の絵画は「唐絵—倭絵」というように、中国の絵画との対比で存在してきたが、アメリカの美術研究家アーネスト・フェノロサ(1853~1908)の1882年に英語で行った講演と、同年出版した『美術真説』』をきっかけとして、「日本画」という言葉が生まれたという。北澤氏は講演の関係資料の中に「日本画」に対応する「Japanese Pictures 」という語を見つけ「日本画」とは英語からの翻訳語であったと類推している。
 つまり、「西洋画(油絵)」との対比で「日本画」という翻訳語が一般化されたわけだが、そのきっかけが翻訳語の使用だった事を重視して、明治以後の近代国家形成近代思想の展開、もしくは資本主義の形成とパラレルな関係で「日本的な美術」は形成されたと考えられるというのだ。
 折草峠に句碑のある井上井月に「灰に書く西洋文字や榾明かり」という俳句がある。囲炉裏の火箸でアルファベットを書いたのだろうか。伊那谷の山村生活に、文明開化の時流で西洋が進入してくる様子を活写して余るなにかを感じる。
稗史とは正史には書かれない歴史書のことだが、どこかで灰に書かれた物語を読むような連想を日本美術史の間隙に持つのは,西欧も極東も、私が依って立つ場所への眼差しよりも、高く浮いて流れて観えるためだ。
 亀寿丸隠遁の屋敷跡を探して迷い込んだ四徳川上流の平鈴。森林の起伏には耕作地であったことが認められる。
 昭和36年の三六災害における四徳川の氾濫は多くの事物を押し流した。現在、七百年の歴史をもつ落人集落といわれた四徳は無住の谷である。幾つかの跡地に残された石碑などを見るにつけ、いかなる失地にも粗末にできないものが残されていると思う。
 流動と流失の場所を内包する段丘地。立ち上がる地形と地質から眺望できる風景の前にたつ時の空間感覚は身震いするほどである。
中川村誌を手がかりに場所の記憶を稗史として把握し、自分自身の内面と共有できるインスタレーション/彫刻を組立てる。場所はアンフォルメル中川村美術館アトリエ棟。建築家・毛綱毅曠(1941〜2001)設計の建築物の内部である。
          

北澤一伯 Kazunori Kitazawa
1949年長野県伊那市生れ
発表歴
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。
80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。
94年以後2008年12月までの約14年間、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える
『「丘」をめぐって 死んだ水うさぎ』連作を制作。同期間、長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、
その家の内部を「こころの内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」〜』連作「残侠の家」を制作。
 その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作として
1998年下伊那郡高森町「本島甲子男邸36時間プロジェクト」がある。地域美術界に対する新解釈として「いばるな物語」連作。
戦後の都市近郊における農業事情を読む「植林空間」。
 また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、
95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、
03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。2009年9月第1回所沢ビエンナーレ美術展引込線(所沢)
4th街かど美術館2009アート@つちざわ土澤(岩手県花巻市)
2012年6月「池上晃事件補遺No5 刺客の風景」(長野県伊那北高校薫ヶ丘会館)
7月「くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる「固有時と固有地」 連作No7(長野市松代大本営地下壕跡)
2015年Nine Dragon Heads(韓国)のメンバー企画として第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて展示。
同年7月、Nine Dragon Headsに参加。韓国水原市にVoid house(なにもない家)を制作した。
2016年6月「いばるな物語」連作の現場制作。 伊那北高校薫ケ丘会館
同年7月 個展 「 段丘地 四徳 折草 平鈴」 アンフォルメル中川村美術館(長野県上伊那郡中川村)