「残侠の家」/ 廃墟 / 解体

文 / 北澤一伯

 私は、1994年から2008年の暮れまで、安曇野にあった廃屋内部を私の心の内側に見立てて「残侠の家」とし、廃墟になってしまった己の心を修復して、美術によって生を意志するという表現を試み、その仕事現場を居としていた。
 森敦の小説「月山」には雪の寺の納戸に和紙で蚊帳を造って繭の中にいるように越冬し、夢からさめるように市井にもどる男がいる。私は、恢復の企てのため、越冬を14年間繰り返した。
遅い春の到来には、光と土の力に心身が動かされていく感覚があり、素描の線から言葉が生まれ、制作に慰謝がともなった。

 私の制作は、衣食住を確保する諸労働の延長にある仕事と似ている。しかし、労働とは切りはなされたあたりの、あいまいさをもちつつも、賃労働だけではうみだせない価値としての仕事量を顕わす空間の出現を、私はめざしてきた。
 しかし、そのような行為が正しいという確信があるわけではなく、したがって疑念は当然わきおこって、制作どころかマイナス思考に翻弄される事も多かった。そして、制作行為に過ちもまた含まれているという視点から、「間違っている私」が「間違っている状態」を突破していくプロセスにこそ、こころを再構築していく重要な内容が含まれていると気づいたのは最近のことである。

 当時私が住んでいたのは、不動産業の父親をもつ友人から紹介された物件で、自由に改装してよいという条件の廃屋だった。家賃は払わずともよいという親切に甘えた形で松本市内の繭蔵をアトリエとした住宅より転居したのは94年の秋。その前年より、開校当時から関わった美術学校の主要メンバーは、IT関連のデザインスクール設立にむけて舵をきっていた。まだ、80年代後半のバブリーな感覚がそこにはあった。しかし、私はそこで要求されたスキルの体得より、美術を持続することを己の心の中心にすえることを選んだのだった。それまで信頼していたすべてが破局していたことも、ボディブローのようにきいた。

 あれが「生」の大勝負だったのだと思って毎日をすごした。ターニングポイント以後には没落感がともなっていて、芸術という名前のついた骰子を振ってその日その日を隠棲する手負いの者という自己イメージが、私には強くあった。美術としての「残侠の家」の所以である。

 状況の中の個人はその内部にその状況を内在させているという。だからこそ、自己変革は世界の変容と結ばれなくてはならない。私にとって、世界とは、植物界、鉱物界と同列になるべき意味での美術界を意味していた。もし、周囲の空間を変えることができるならば、私は本来の「生」をよし!もう一度と意志できるのではないかという仮説を実行する仕事現場として、その廃屋はあった。
 こころに壁があるなら、その建物の壁を壊してしまう。そうした行為の彫刻的実践である。冬場はさすがに寒かった。しかし、春になると、北アルプスの地勢から湧く水量は豊富で、いつでも水の流れる音が聞こえた。

 『私は今や、私達の本質として、「死」或いは「壊れ易さ」に結びつけられた場所に於いて「建築」なるものを見ようとする。』
建築家を志しながら若干24歳で夭折した詩人立原道造の大学卒業論文「方法論(1936)」の中にある言葉である。美術雑誌で知って以来気にかかっていた。立原はみずからの論文に五葉の「廃墟」写真を添付した。短い生命の隠喩だったのだろうか。心に内在する崩壊感覚を場所に於いて見るという視点は、「はかなく」も「果敢(かかん)」な模索であり抒情的魅力で際立っていると私は思う。

 廃屋に住んで数年後のことだ。毎年春先は家のどこかで雨漏りがする。屋根に積もった雪の雪どけと凍結のくりかえしにともなって瓦が動くのだ。
その日は風呂鑵を置いてある場所の土間へ雨漏りがした。
私は、雨漏りをする天井を見て雫の落ちた土間を見た。どのように修繕するのか考えながら天井を診て、ふたたび土間観た。それを繰返していると雫の落ちて出来た水たまりでなにかが動く。そして、小さな蛙が顔を出す。私は天井を視て雫が土間の水たまりに落ちるのを観る。小さな蛙は凝った水のメタモルフォーゼのように動いている。雫の蛙がそこに在る。「ただたえまなくつづれいくためにつくられたもの」としての世界。
 心が、状況に囲いこまれ、状況のそのままながらに恢復が回帰してくる感覚は、生きるよろこびといえよう。啓蟄、蟇穴を出づ、という俳句の季語には力を回復していく春の実感とともに、慰謝をともなっていると思う。この世界で、この時期に、田螺はたしかに鳴く。山は笑う。鷹は化して鳩となるのである。

 毎朝、夢日記を書いてすごした。
積もりに積もった怒りとともに破壊した土壁に硝子窓を組み立ててはめ込むと、ある深夜、窓から月光がさしていた。
 
 2008年。その数年前より、廃屋を紹介してくれた友人から、彼の父親が高齢になり不動産の事務所を止めるかもしれないということで、事務的な問題が絡む前の転居をすすめられ、同意した私は小型トラックで建築材を新しい仕事場にはこぶ事になった。荷造りをしながら、日記に私が廃屋に住んだ日々の記録がほとんど記されていないことに奇妙に感心した。
夢日記のノートは100冊をこえていた。

 解体業者が到着したのは、転居を完了した20分後。
これもまた「生」なのだろうか。

 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎

北澤一伯 Kazunori Kitazawa 1949年長野県伊那市生れ
美術家
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。94年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。韓国、スペイン、ドイツ、スウェ-デン、ポーランド、アメリカ、で開催された展覧会企画に参加。
また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす・プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。