文 / 中尾太一
東日本大震災が起きて数日後、一種の動揺に落ち着きを与えるためだったのか、あるいはそうしたときに無償に誰かに会いたくなるからなのか、年長の友人二人に誘われて福生駅からほど近いところにあるカフェで落ち合うことになった。そのときなぜ電車が動いていたのかと時おり不思議に思い返すのだが、東京の震度の具合が当時暮らしていた街を走る路線に与えた影響を考えれば妥当なものだったと、心象とはかけ離れた理解の結果に都度釈然としないまま、今日までやり過ごしている。ともあれ、日ごろから自分が親愛の感情を抱いている詩人で映画誌などの編集者であるIや、同じく詩人でドイツ文学者のSと会うのは楽しいことだった。互いの存在をそれとなく見遣ることでその場に生まれた静かな空気の中、彼らが発する個人的な「つぶやき」は、状況を見る、状況に暮らすということに関して多くのことを示唆していた。そんなふうにカフェで時間を過ごした後、日本中いたるところで見かける某うどんチェーン店に入り、そこでてんぷらうどんをすすりながら、当時の官房長官の言語選択能力についてSが話すのを黙って聞いていた。ところで当時大阪に住んでいた新聞社に勤める友人が、仕事柄(放射線量に関する)情報が入りやすかったのかどうか、東京に住む自分たちを心配して、彼のマンションに避難しないかという提案をしてくれた。それを彼の情熱的な人間性を確認する多くの機会の内の一つとして捉えたものの、提案自体には自分自身の「今ここ」での生活、あるいは東京で詩を書いていることのどうしようもない現在性があったから、彼の切迫した好意に対して無言のままでいるほかどんな方法も存在しなかった。震災後どのタイミングで始まったのか覚えていないが、IやSを含む、親交のあった詩人数名で交し合ったメールの中で誰かが書いた、「我々」は避難したほうがいい→非難しなければいけない、といった意識=認識の語尾変化を普遍化することは到底できないよ、という当たり前といえば当たり前のことにみずみずしさを感じたのはそうしたことがあったからだと思う。むろん新聞社の友人の情熱的で誠実な膂力は意識=認識のすり替えを好む人たちの愚かさを根本的に破壊するものだったのだが。にしても東京多摩地方でも行われた計画停電の暗闇の中で灯す蝋燭の輝きはきれいだった。僕と奥さん、そして彼女が拾った猫が住んでいたマンションのベランダからは多摩川がよく見渡せたが、そのせせらぎが、川面から無数に放たれる光の粒子それ自体の音のように聴こえもしたし、その部屋で生きている者のぬくもりが三つ、ぼんやりとだが確かに見えるようでもあった。こんなことを経験として絶対化させるつもりはまったくないが、死者に対する不謹慎のさ中、それが多くの人間が知らず触れていたかけがえのない時間だったということは、いつまでも覚えておきたい。
中尾太一 Taichi Nakao
1978年鳥取生まれ
詩人
現代詩新人賞受賞後、『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』(思潮社 2007)
『a note of faith』(思潮社 2014)他を刊行。
spallows@rhythm.ocn.ne.jp
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