三面鏡

絵付け皿/1976

絵付け皿/1976

文・画像 / ごとうなみ

 壁に組み込まれた本棚のガラス戸を割れんばかりの音を立てて開き、激高した父が母の本を破きながら床に叩き付けた。こたつにあたっていた私たちは急いでこたつの中へ避難し布団を頭まですっぽりとかぶり落ちてくる本にあたらないように身を守る。怒鳴り散らす父の声とヒステリックに罵倒する母の声。こたつの中で私たち姉妹は互いの足が触れないように膝を折り畳んでじっと喧嘩の様子に聞き耳を立てていた。目前には姉の足があり動くと蹴飛ばされそうになる。電熱線で温まった空気は息苦しくて顔ばかり熱くなる。我慢できなくなるとそっと身体を翻してこたつ布団の裾に小さな空気孔をつくり新鮮な空気を吸う。向き直ると黒目をまん丸くして猫も入っていた。私は手を伸ばして猫の毛に触れる。赤いこたつの世界で猫は幻像みたいだった。すると「あんたたち早く逃げなさい!!!」と母の叫び声が布団超しに聞こえた。続けて母がまた何か大声で叫んでいる。隙をみて各自のタイミングで部屋へ駆け込み戸を閉める。私の部屋は丁度このリビングの真上にあったからその後も二人の怒鳴り声が下から響いてくる。枕につっぷしても涙が漏れる。兎に角早く終われと、そればかり思っていた。これは子どもの頃の私の日常だった。

 三人姉妹の末っ子だった私の物心がついた頃、二人の姉が幼稚園へ行っている間母は家事仕事の傍らに父の悪口や不満を日常的に私にこぼした。洗濯物を干す母の足元でベランダに立ち、手すりから見える階下の様子をぼんやり眺めながら母に身を寄せるしかできない幼い私は、毎日それを聞くたびに父は母をいじめる怖くて悪い人という印象を胸に刻んでいった。そのころ既に夫婦は喧嘩ばかりだったから、私が母の味方になることで母からの加護は得られた。でも子どもながらに少し父の味方をすれば「お前は父親に似ているから」と後になって凄まじい剣幕で父に似た私の人格を否定するように嫌みを言い、そうしてヒステリックに泣く母が私は哀れだった。私が父を嫌うこと、それが母の望みのように思えて、それから出来るだけ父には懐かないようにした。記憶が残っている四、五歳頃から私はこうして母の傍らに居た。
 小学校へ入ると学校が救いになった。小さいながらに私は自分の家族を恥じていたので、学校では一切家族の話をしなかった。学校生活は素晴らしく楽しく放課後は部活に励んだ。部活のない日は、家の前の道路でドッチボールをしたりこの新興住宅地に住む友達の自宅の庭までを範囲とした広いかくれんぼをしたり、女子だけの時はゴム跳びをして遊んだ。夕方、門限になって皆が帰って行くと私は一人近くの土手まで歩き、大きな川越しに夕焼けを見て過ごした。私が十歳になったころから母が働きだしたが、仕事帰りの母はだいたい機嫌が悪い。私が宿題を忘れると母は私の腕を掴み外に引きづり出し私のしゃくり上げた嗚咽が枯れるまで家には入れなかった。人知れず家の悩みが胸の底に停滞していて、私は一人になると途端に心が重くなった。一向に足が家へ向かないまま真っ暗になるまで土手で夕空を眺め、太陽が沈んでからようやく家路についた。
 大企業のサラリーマンだった父は平日の夜はほとんど家で食事を摂らない。代わりに父のいる休日はまるで葬式のようだった。五人家族のテーブルを挟んで母と長女、次女と私が座り、私の左隣りの誕生席に父が座る。当時私はご飯があまり好きではなかった。何故なら当時の炊飯ジャーは一日保温にしておくと上のほうが乾燥してかぴかぴになる。わたしはそれが苦手でいつも気付かれないようにそっとお味噌汁の中へ入れふやかして食べた。それでもどうしても食べられない時はお味噌汁に隠してそのまま残していた。普段洗いものをする母はそんな私を叱ったり見逃したりしていたが、隣に父がいると見つけざまにテーブルを叩き大声で怒鳴られた。そして食べ終わるまで見張られ涙を流しながら食事を摂った。母の手料理はいつも美味しくどれも美しかったけれど、緊張と沈黙、それが我が家の食卓だった。
 屋根裏に巣をつくった鳩が鳴く日曜日。父は朝からボリュームを上げクラシックレコードを聞く。母がどれだけ文句を言っても父は全く受け入れなかった。真上にある私の部屋は音が筒抜けだった。私は私の柔らかい耳ごと丸めて耳穴に詰め込んだり、人差し指を耳の穴に出し入れし摩擦音で音楽が聞こえないようにした。掌で耳全体を軽くスタッカートもした。でもそのどれもが二時間ほど続く大音量を避けることはできず結局小さなラジオを耳に押し当て他愛のないDJの話をただ無思考に聞くのが常だった。レコードをひと通り聞き終えた父は次に私たち姉妹を一人ひとりを呼び、ピアノのレッスンを始める。ブルグミュラーを弾く私が少しでも間違えると父は容赦なく私の手を叩いた。ミスが続くとその度に「何度言ったら分かるんだ!」と大声でなじられる。繰り返し繰り返し出来るまで同じフレーズを私は泣きながら弾いた。ピアノは好きだった。けれど父のレッスンは恐怖以外の何ものでもなかった。日曜日は何一ついいことがない。庭を挟んでぐるりと家が建ち並ぶこの住宅地は、窓からそれぞれの家庭の様子が伺える。道路向かいに住んでいる家族はいつも仲が良く日曜日になると車でどこかへ出かけて行った。私はそれを二階の窓から車が遠く曲がるまで見送った。向かい家の子どもに生まれたいと思った事もある。だがあんなに仲がいい家族に生まれても自分はきっとああは振るまえないだろうな、と思うとやるせなかった。どちらにしても、父が家にいる日曜日はいつも憂鬱だった。
 それでも和やかな空気が家の中を流れることもある。三姉妹でトランプをしたり、年子の姉とは色んなことをしてゲラゲラと笑った。母もそんな時は穏やかで私たち姉妹と楽しそうに話した。父のいい思い出もひとつだけある。それは耳かきで、母より力加減がちょうど良く優しく、普段味わえない父との接触が子ども心にとても嬉しかった。耳かきをした時に嗅いだ父の匂いを今もまだ覚えている。父の膝に寝ころんで耳をあずけ少しだけ甘えるように横になりながら見える世界をどこかほっとして眺めていたと思う。
 中学校へ入学し数ヶ月経ったころ我が家は遠くへ引っ越した。今まで住んでいた広い吹き抜けの開放的な家とは真逆の、小さくて陽のあたらない家。狭い階段を音を立てて登れば家全体が少し揺れる、そんな家だった。新しい学校にはすぐに慣れて友達も沢山できた。けれど家族の在り方は良くなるどころか険悪な時が増えていった。高校受験するにあたり三者面談で母が中学へ来た時、何かの理由で母が職員室で父と電話をしなければならない場面があり、そんな時でさえ母は電話口の父と言い争って先生方を困惑させた。面談が終わり後に担任に教室へ呼ばれ「いつもああなのか?」と聞かれ、はい。と答えた。学校では見せた事の無い私の内情に担任は無言のまま応え私は初めて学校で泣いた。それから思春期の私たち姉妹同士の喧嘩も即発するようになり家族の誰もが誰とも何も共有しようとしない数年間が過ぎた。このころが一番両親の争いが激しかったと思う。気付けば台所の冷蔵庫や電子レンジの扉、トイレや風呂の引き戸やリビングの壁、至る所に母の殴り書きの文字が付箋されている。コピー用紙をペーパーナイフで切り裂いたところへ油性の青いマジックで「こうしろ!」「ああしろ!」「これはするな!」「それはするな!」の母から父への指示が嫌みなほど事細かに書かれてある。その頃の我が家はすでに会話など皆無だったが、付箋の中の母のヒステリックな叫びだけが家中に響いているようだった。高校二年の時、同じ部活の親友の家へ遊びに行って私は家族の愚痴を時々漏らしていた。ある日その子の部屋で話しているとお父さんが帰って来て部屋まで来た。私は軽く会釈をしてお父さんも会釈を返してくれた。そのあと親友とも二、三言話を交わしてからお父さんは部屋を出て行った。私は親友とお父さんとのやり取りをみて驚き「いつもああなの?」と訊ねた。ほとんど自分と同じように皆が親を嫌っているものだと当前のように思っていたのに、親友は「これが普通なんだよ」と言う。自分の置かれた環境とまるで違い過ぎて私は仲のいい家族をいつのまにか気持ち悪いとさえ思うようになっていた。高校も終わる頃「下の子が二十歳になったら離婚します」と一段と大きく書かれた付箋が、家の中でもいっそう陽の差さない父の部屋の、沢山の学術書が平積みになった机の上の青い電気スタンドに貼られた。家にある唯一の三面鏡がこの部屋にしか無かったので、私は毎朝の数分間髪を整えるために入らなければならず、ある朝この付箋が目に飛び込んだ。私は心から歓喜しやっと解放されるのだと自分の高校生活を早送りにして今にもその時を迎えたかった。高校を卒業し、やがて私が二十歳になっても二人が別れることは無かった。
 国立美大の一次試験を通過したことで翌年度から研究所の特待生となり自分に掛かる学費の半分はバイトでまかなっていた十九歳の頃、私は母に「いつ離婚するのか」と聞いた事がある。この頃になると研究所やバイト先で過ごすことが多くなり、以前より私は客観的に家族を見つめることができていた。たとえ父母が離婚したとしてももうなんらショックはなかっただろう。逆に私の為に長年離婚を我慢してきた母に、自分の人生を大切に歩んで欲しいという気持ちでいた。その頃も依然夫婦間の争いはあったが私の問いに母は「自分に自活するだけの経済力がないから離婚が出来ない」と言った。多分この頃だと思う。母に対して疑問を持ちはじめたのは。この言葉から母の依存を悟ったように「自分は、こうはなるまい」と決心した。もし自分が結婚をして夫と喧嘩をするようになったら自分に経済力がなくても私はすぐに別れようと自分に誓った。気が遠くなるほどの間子どもに苦心を負わすことなどできない。自分の選択をまるで父のせいにして自ら行動しない母の甘えを私は許せなかった。それから数年後私は結婚しこの家から離れることができたが、子どもの出産を除けば結婚生活は重苦しいばかりだった。そしてこの時の決意通りに、私は十二年の結婚生活を自ら終わりにした。
 この長く淀んで停滞する生きづらさは何だろう。両親を見て育ち自分のパートナーシップをこうはさせまいと思っているのにどうしてこんな風に望んでいないほうへ進んでいってしまうのか。幼い子どもを抱えてそんなことを脳裏にいつも思い浮かべながら私はまるで現実から逃避するようにがむしゃらに働いて働いて生きた。精神の正常を保つ為にも制作から離れることは避けられなかった。だから仕事が忙しくても子どもが小さくてもどんなものでもいいからと自分への赦しを言い訳にして私は作品をつくり続けた。制作の時間は私に癒しを与え、それを原動力にどうにか日々を暮らしていけた。反面、子どもの頃に甘えることができず素直に愛情を求められなかった無自覚な不満は、私の恋愛観に大きな違和や罪悪となって関係を隔て横たわり続けた。これは私にとって生い立ちに負ける心痛以外になかった。

 私は描くことを通して世界を知ってきた。デッサンは見えたものが描かれていく。夫婦又は家庭についても観ているものが目前の現実として表れるなら、壊れた像しか知らない私のビジョンは幼い頃から枯渇しきっている。破壊から藝術が創造されるなら私はつくりたい。両親の負の連鎖を解読して私は私の夫婦像をつくりたい。
 昨年春に海外で暮らす姉夫婦が帰国してきた際には、母方の親戚が遠路実家まで来て十数年ぶりの大集合となった。宴会の解散後私たち姉妹だけで飲み直して久しぶりの再会を改めて祝った。それぞれの結婚を機に私たち姉妹はさらに仲が良くなり、両親に言えない悩みも共有してきた。その夜も、辛い幼少期をそれぞれに送ってきた私たちの個々の哀しみを互いにひろげて、三人で笑って消化した。父と母は未だ仲が悪い。だがそれも今では俯瞰して見守っている。時折実家へ連絡すると決まって父は「最近は喧嘩もしなくなったから安心しなさい」としきりに言う。そんな父に母が「何言ってんのよ」とやっかんでも父は笑っている。あの頃、母は父と気持ちを交わせたいのになかなかうまくいかないジレンマを、ベランダという一人の空間で、誰にともなく呟いていただけだったかも知れない。その母の呟きを、私の幼気で言葉通り真に受ける素直さが「母の味方になってあげなきゃ」と思い込み、元来の無邪気なままの自分に蓋をして自分の行動の軸足を母へ譲ってしまったのかもしれない。父にしてみれば、自分を毛嫌いし懐こうとしない子どもを苦手に思うのも当然のように思えてくる。父と母と私の胸にうまれた微かなジレンマがそれぞれの想いを解消する間のないまま日日と積み重なり、いつしかこの不満な状態を「日常」と私たちの脳内が判断してしまった。そしていつも日常(不満)でいる為に、脳は強い刺激を求め続け、それが結果として固い負の連鎖を育んで、だんだんと私たちの本心を自分でも分からない場所へ隠してしまったのだろうか。母はただ父に自分の気持ちを知ってもらいたかっただけかもしれない。それなのに伝える言葉を知らなかった。もしくは伝える勇気が出なかった。それなら私は言葉を知りたい。伝える勇気を持ちたい。そしてその前に自分を知っていたい。私の過去の劣等や不透明な現在そして未来への不安を受け止め、身体を張って現在を、私の目の前に体現してくれた人が示してくれる優しさを私は受け取るのが怖くて、希みから逃げるようなことばかり繰り返してきた。四歳の頃に自分を閉じて渡してしまった軸足を、今、私の足元へ置き直してようやく新しく自分を歩きだすときがきたのかも知れない。平均寿命の折り返し点を過ぎた私の海馬で、経験と感覚の、刷新と構築が可能なのか頭をよぎるけれども。己にいちいち問いかけながら、先ずは ‘私’ が好きなことをひとつひとつ確かめて集めていこうと思う。

ごとうなみ Nami Goto
1969年生まれ長野市在住
http://namigoto.com

ggごとう画室
http://goto-gashitsu.com

gg展2016年5月1日~22日 FlatFileslash