「芸術学大全」 第⑭講 答えていわなければならない。芸術は宗教である。

文・画像 / 服部洋介

 2014年の10月、ムサビを出て活躍されている人の絵を1枚買って家人に見せたところ、「これ、子どもが描いた絵?」と言われてしまった。「いや、これは、画家が上野の櫻木画廊で個展を開いた時に、数ある作品の中からムサビの水上泰財教授が唯一誉めた絵なんだよ」と説明しても、まったく理解されなかった。1年経った今年の春、エリック・ギンズバーグのナメたタッチの「笑ってる犬」の絵を買ったところ、「なんだ、これなら買わなくてもうちの孫でも描けるぞ」と言われてしまった。そこで「いや、これはニューユーク・タイムズに著名な美術評論家ロバータ・スミスが論評を寄せる程度には知られた作家の絵だぞ」と〈権威による論証〉に走ったわけですが、フランク・ジューエット・マザー賞を受賞した現代美術批評の第一人者の名声をもってしても、うちの父は説得できなかった。問題である。
 トマス=アクィナスは、その『神学大全』第一部第一問第八項の異論②において、ボエティウスを引いて「権威からの引用は論証力がきわめて薄弱」(1)であると言っている。だが、その主文において「人間理性にもとづく権威からの引用はきわめて薄弱であるにしても、神の啓示にもとづく権威からの引用はきわめて有力なもの」(2)であるといっている。〈啓示〉によって与えられた原理に基づいて、何が正しくて何が間違っているかの論証できるというのである。ちなみに、前回も述べた通り、〈啓示〉によって示された原理自体は絶対的な真であり、人間理性による論証の対象とはなりえない。理性で考えたところで、その真偽は判別できないのである。したがって、これは〈信仰〉と呼ばれる。
〈アート〉が〈啓示〉に基づく〈第二の学〉であることは、すでに述べた。万人において経験的に是認されている事柄とは異なり、〈アート〉の感じ方は人それぞれ、むしろ、権威による価値観の押しつけが通用しないのは健全なことであり、〈啓示〉の指示するところも一つとは限らないのである。ところが、デュシャンの〈便器〉はレプリカでも4億円、これを破損したら「いや、ただの便器でしょ?」では通らない。ハーストの作品を〈画廊のゴミ〉だと思って棄てたら怒られる。そしたら、うちの車だってぶつけられたら「アートですから10億円です」って言えばよさそうなものだが、もちろん、私の言い分は通らないだろう。美術館や画廊の言い分が通るのは、それは彼らが〈神〉になりかわっているからにほかならない。「「神在り」は自明か」という問いに答えて、トマスは言う。「述語と主語とについてその「何であるか」が万人に知られている場合には、その命題は万人にとって自明であろう。(…)これに反し、述語と主語とについてその「何であるか」が或る人々には知られていないという場合には、その命題はたとえそれ自体としては自明であるとしても、命題の述語と主語とを知らない人にとっては自明ではない」(3)と。〈アート〉は〈啓示〉によって明かされる。それが「何であるか」を一般化することはできない。「デュシャンの〈便器〉は〈アート〉である」は自明である。なぜなら、デュシャンはアーティストであり、その作品はアートだからである。美術の教科書にそう書いてある。なるほど、主語〈便器〉は述語〈アート〉の外延ゆえ、その包摂関係に疑いの余地はない。ただし、そのことを万人が承服していればの話だが。
 しかし、多くの人が理解不能であるにもかかわらず、〈便器〉が勝手に美術館に鎮座しているとは何事であろうか。20世紀で最も有名な作品が理解不能ならば、「〈アート〉とは何であるか」も理解不能に違いない。トマスの時代、〈神〉もまた「その何であるか」を知ることのできない不可知の存在だった。「神が在る」という命題は、トマスによれば論証可能である。しかし、〈神〉が何かもわからないのに、どうやって論証が可能だというのであろうか。トマスは言う。「「神が在る」という命題は、それ自体としては自明である。なぜならこの命題の述語は主語と同じものだからである。じっさい、(…)神はその存在そのものなのである。しかしわれわれは神の「何であるか」を知らないから、この命題はわれわれにとっては自明ではなく、論証を必要とする。その論証は、本性的には知られる度合いが少ないがしかしわれわれにとってはよく知られているもの、すなわち神の結果によって行われるのである」(4)。ここでトマスはアリストテレスの『分析論後書』にしたがって、〈事実による論証〉(demonstratio quid)に走る。ある結果がある原因よりも明らかな場合には、われわれは結果を通して原因の認識へと進む。いかなる結果から出発するにしても、その結果の固有原因が「存在する」ということは論証されうるし、結果は原因に依存するので、結果があれば原因は先在する。つまり、すべてのものの第一原因である〈神〉の存在は、すでに知られている結果によって論証さるべきというのである。つまり、「美術館が存在する以上、〈アート〉もまた存在する」という論法である。「美術の教科書に『デュシャンはアーティストだ』と書いてあるから、その原因として、デュシャンはアーティストであった」でもよい。
 〈現実〉は〈起源〉に先立つ――村上隆もまた、このデリダ的な論法で西欧式〈ART〉を説明する。2009年、村上は、ある評論家から「他国民を騙しているエセアーティスト」として叩かれる。村上曰く、彼は「トレンドに乗って何が楽しいの、それは本質論じゃないでしょう」という理由で嫌われているのだという。「トレンドの中にも芸術の本当に大切なものを見つけることは可能だ」と村上は言う。だが、一方でこんなことも言っている。「現在では、このトレンドに関わるのがマーケットであり、マーケットに絡んで美術館がある。美術館は今やアートシーンの権威そのもの。権威であり、ゴールでもある。いわば、権威+墓場です。ここに入れば安眠できる。それを無視して本質論がどうというのなら実証してくれるのでなければと説得力がありません」(5)。まったくその通りで、一貫した〈アート〉の〈本質〉または〈起源〉など最初から存在してはいないのである。それは〈信仰〉であり、理性では論証不可能なシロモノ、到底、万人に通用する公理などではない。それを理解しろというのは、その人たちの言い分であって、それに適応できないと、権力的に劣ったわれわれは根絶されてしまうに違いないわけだが、そうした恫喝も、それはそれでもっともなことではある。バートランド・ラッセルは言った。動物に対し、人間の諸価値が認められうるのは、人間が動物を容易に滅ぼしうるからにすぎず、われわれが芸術や科学や文学の価値を認めうるのは、単にそれが人間の得意分野だからにすぎない、と。曰く「われわれが彼ら〔動物〕の言い分を誤りと認定しうるのは、恣意的権力の行使によってのみである。すべての倫理体系は結局、戦闘用の武器に依存している」(6)。これでは〈アート〉も戦争と変わらない。ゆえに、生き残りたかったら戦いに勝って、ルールを変えなくてはならない、それが「日本芸術界の悲願」(7)なのだ。それを私は、大川周明になぞらえてアート版〈東西対抗史観〉と名づけた(8)。悲願達成のためには、「芸術は自由だ」とかやわなこと言ってないで、ちゃんとアングロサクソン資本主義と〈ART〉のルールを守って、ただ実践あるのみだ。前回のくりかえしになるが、論理に倫理はない。理性的であるということは、ラッセルによれば、「それはわれわれが達成したいと思うある目的に対して正しい手段を選ぶこと」である(9)。したがって、競争に勝つために、人の自由を抑圧して苦痛を強いる過程があったとしても、〈アート〉における〈アングロサクソン世界幕府〉(大川)を倒し、スーパーフラット〈一揆〉(村上)によって日本が〈アート〉の主導権を握るために妥当であるならば、村上の方策はきわめて理性的といえるのである。「いや、〈ART〉はいいから、もっと多様性とか人権感覚を尊重する〈アート〉を広めましょうよ。そんなに人を追い詰めるのはやめましょうよ」という方向性を優先する人からすれば、ちょっと論点が異なってくる。「成功への技倆を持たぬ人々にも、彼らの権利がある。そしてこの種の技倆の持主のみが成功を収める環境で、彼らがこの自分の権利をいかに確保するかは、難しい問題である。自由競争が社会正義の実現の手段である、という信念を放棄する以外にこの解決策はない」(ラッセル)(10)。グローバル資本主義のバトルフィールドで闘争して勝ちを収めるのが村上の〈信〉ならば、ラッセルの〈信〉は競争社会の廃絶による「万人の(経済的)安泰」である。これは善悪ではない。どちらの世界に住みたいかは、各人の〈信〉に委ねられている。そして、目的達成のための理性的な手段を確保するならば、その言明は自己成就するであろうし、他者の仮説を予言破りで粉砕することもできよう。人文社会における仮説の検証は、およそ静的な理想状態において行い得ないぐちゃぐちゃなものなのである。
 ところで、ラッセルの議論はしばしば雄大だが、その独自の可能世界論と結びついており、「これこれは論理的には起こりうる」的な議論が実に多い。「じゃあ、どーやって実現するの?」までは担保していないことがしばしばなのである。現実世界で実現している〈端的な真理〉について語るためには、経験による事実確認が必要なので、論理学は「仮定がいかなる場合に検証され、あるいは検証されないかは、他の科学に委ねてしまうのである」(11)。そこは現場に明るい専門家の出番だ。リチャード・ファインマンに言わせると、可能世界の可能性はいくらでも認めてよいが、問題はそれが今起こっているかどうかであって、たとえばUFOが存在する可能性はいくらでもあるだろうが、それを否定できない事実を何度くりかえしても無意味で、経験からそれが実際に起こりそうなことなのかを判断しなくてはならないというのである。起こる可能性のあることは多様すぎて、本当とは思えないことがほとんどだというわけだ(12)。一方の村上は実践家であって、ARTに関する自身の仮説を立証するために渡米してデータを集め、仮説が真であるとの(彼なりの)確証を得たわけである。もちろん、個別の真理を安易に一般化してしまうと〈神〉化が起きてしまうわけだが、人文的価値に関するほとんどすべては〈信仰〉であり、〈アート〉だのという語の内包的定義は、個々人の志向性に委ねられた妄想にすぎないことはすでに見た通りであって、次の問題は「ではどういった妄想的価値を実現したいか」ということである。村上は自身の妄想実現の必要性を感じたからこそ、「ARTのルールは俺が変える」と汗水流して努力したということなのであろう。もちろん、彼が個別的妄想を実現する過程で、他者にどんな影響を与えるかは別の問題である。けしからんことに、現状、ARTのルールは一方的である。もちろん、論理的には別のルールが存在しても差し支えない。たぶん、ルールがなくなったらARTは消滅するのだろう。めでたし、と言いたいところだが、あくまでも芸術の主導権を握るにはルールがなくてはならないわけで、村上としては、こうしたありようの〈アート〉に対し、それが存することへの倫理的な疑いを差し挟むものではないのである。「未来を創造するには実践しかない。だから、行動するしかないのです。ぼくら芸術家は言葉なんか待っていられない」(13)。〈アート〉のルールを支配するためにはね。いや、支配した後に、アート的植民地を一気に解放してくれるのかもわからないが。
 行動せずに「曖昧に物事を放置しすることで可能性を保持」(14)しつづける文明批評的なのはイカンと村上はいう。確かに、それでは物事は容易に変わらないだろう。では、ラッセルから経験的事実の確認を丸投げされた科学者たちはどうか。ファインマンは「わからんものはわからん」と言う。「中立主義は一種の技というべきもので、これを通すのは何か一つの方向に猪突するよりずっと困難だが、非常に大切であること。塀のうえから傍観するより、行動を起こすほうがよっぽどましだ、とあなたは言うかもしれないが、めっそうもない。進むべき方向を知らないで行動を起こすなど、とんでもないことです」(15)。なんでこうなるのか? 論理と同じで「しょせん科学は直接善悪を教えるものではない」(16)ので、科学者に「社会に責任をもて」といわれても、実は核開発の是非にしても、重大な論題になるどころか「科学者があまりよく知らない領域」(17)だとファインマンはゲロってしまったのだ。ノーベル物理学賞の受賞者でさえこのていたらく、これじゃあ、ARTが社会に何をもたらすかなど、アートの専門家だとてわかるはずもない。「わからんものはわからんから判断もできない」と正直に告白することは単なる事実であって恥ずべきことではない。理性的な人たちが判断を下すために必要な情報をすべて公開することが「真の正直」さであるとファインマンは言っている(18)。なるほど、事実確認的である。もっとも、話をラッセルに戻せば、彼自身、論理学者のくせに反戦と反核のかどで二度投獄された行動の人だったわけで、世界の破滅を前に拱手傍観などとは言語道断という〈信仰〉の人でもあったのだ。彼自身の言う〈理性〉は、純粋な論理から、後に歴史分析的な考察から導き出される倫理学へと変化していくのであるが、それが彼の論理実証主義とどう整合するのか、微妙といえば微妙である。
 さて、〈アート〉が社会にもたらすものは、競争か、それとも平和だろうか。平和的競争という折衷案もあるわけだが、流血戦争も経済戦争も命がけには違いないので、平和的にやるとしたら趣味しかない。趣味の絵でも「俺の方がうまい」とか、そういう口論くらいは起こるに違いないが、できればそれも宗教戦争と同じ原理なのでやめてほしいものだ。だが、〈平和〉が実現したからといって、それが幸福な事態かどうかは、ファインマン同様、何とも確信がもてないのである。世間には競争大好き、スリル大好き、リスク大好きという方もおられるであろう。「黒ひげ危機一発」くらいでは満足できない人々にとって、欲望を充足させるためのエキサイティングな活動とは何であろうか? 〈平和〉な経済的安定のもとでは、人に抜きんでるのはよいが、金も権力も手に入らない。あらゆる軍隊的で人々を疲弊させるような活動は、〈平和〉においては「別の手段で社会の進歩を考えて下さい」ってことで是認されえないであろう。今日においてさえ、ブラックな手口で得られた利益や効率というものは、それを企業の成果とは見なさないのが社会の決まりである。もちろん、これは唯一の価値ではないので、もうけるためには従業員に嫌われようが、何人辞めようが関係ないというダン・ケネディ流マネジメントの信奉者は、ISO26000から逸脱しない範囲で社員を締めつけるがよろしかろう。そんなことを言ってるから、企業経営者は凶悪犯よりサイコパス度が高いなんて研究も出てしまうわけだが、これは人の多様性のあらわれであるから、安易に文句をつけるのはよくない。しかし、パンピーからすると、こんなすごい人たちとどうやって仕事すればいいんだって話で、精神がもたないわけである。世の中、サイコ度の高い人ばかりではないからである。かといって、サイコな人たちにもそこそこの楽しみを担保してやらないことには、またぞろ競争を始めてしまうであろうあたりが悩みどころである。論理的には、それは、生き死にのかかった経済活動とは異なった領域、すなわち余暇の中で解決されるべき問題ではないかと考えられるが、話はまた「黒ひげ」のあたりに戻ってしまう。残念ながら、努力と根性で人を出し抜いて成果を挙げるのは、相当に楽しい。『下町ロケット』も、佃が大企業をコテンパンにするから面白いのであって、もし帝国重工の藤間社長がわけのわからんポリシーに拘泥せず、協調によってバルブシステムの調達を図る平和な人であったなら、あのドラマは成立しない。時間もカネもあり、ゆとりをもってロケット開発できるような宇宙産業ではドラマは生まれない。とすると、他人事なのをいいことに、われわれは地獄の見世物を楽しんでいるということになるのだが、自分が地獄に巻き込まれる論理的可能性については忘れがちだ。
 さて、話はサイコに戻るが、当該研究を行なったオックスフォード大学のケヴィン・ダットン博士は、サイコにおける、情け容赦なく、精神的にタフで、行動力抜群、リスクテイキングな性格が、企業経営や法廷闘争、外科手術、テレビなどの現場では、きわめて有効な力を発揮すると報告している。誤解のないように申し添えておくが、博士は、精神病質の専門家として、その肯定的な側面を述べているのであって、何もその特性を邪悪視しているわけではない。これらの心的能力は、彼らの成功を支える大きな要因だというのである(19)。確かサイコパス診断リストを作ったロバート・ヘアは「身近な人にこの診断表を使ってサイコのレッテルを貼ってはならない」とどこかで書いていたような気がするが、ダットンはそれを臆面もなく自身のホムペで公開し、「グッドなサイコになろう」という大胆なパラダイムを展開している。この手の研究はラッセルの頃にはなかったので、ラッセルが描く競争社会の支配者たちは、ひたすら悪のサイコパスである。「自由競争での勝者にほかならない現代社会の支配者たちは、冷酷無慈悲さをはじめ、競争での成功を実現するさまざまな行為や賞賛の価値を過大評価する」。これを防止するにはまたしても「現在の競争社会を廃絶」(20)するしかない(笑) そもそも自由競争は「才能への門戸開放」というナポレオン流の理想を実現したが、「不平等な才能にもとづく不正をそのまま放置」し、「神が活動的で抜け目ない者に作った人間は金持ちになり、他方その長所が自由競争に向かない人間は金を稼げなくなった」(21)というのである。英国生まれの彼がナポレオンを毛嫌いするのはわからんでもない(石原莞爾なら「ナポレオンを侮辱する英国などスエズ運河以西に叩き出してやる」と言うところだろう)。ただ、ナポレオンをかくも有害な人物に形作ったのは、その陸軍幼年学校時代の屈辱体験にあるとする説明の妥当性については措くとしても、ラッセルの言わんとするところを要約すれば、世間の厳しさや艱難辛苦を乗り越え、刻苦勉励して際立った業績をあげたとしても、その業績自体が有害に作用しては仕方がない、ということだ。「むしろ、そんなことをしなければ業績を上げられない不合理で反理性的な社会構造の方を変革したらどうですか」ということなのである。そうすれば「社会の厳しさ」なんてのは、死語になるというわけだ。もっとも、それを可能にする科学的な教育体制が樹立される見通しは、彼によると2、3世紀先のこと、あるかないか確証のない来世の生活をあたかも真実として語るキリスト教はイカンといいながら、300年先の空手形を切るラッセルも負けず劣らず宗教的である。否、彼自身、「確証はないが信じるしかない」と、ある著書の末尾で明言しているのである。
 そうしたわけで、記号論理学の大成者としては何の賞ももらえなかったが、平和と人道の唱道者として、ラッセルにはノーベル文学賞が授与された。ラッセルにおいて、論理学と宗教は相いれないものであった。にもかかわらず、〈平和〉とか〈人道〉といった人文的価値は、相当に宗教的なものである。ゆえに、文明間衝突の一方の旗印になりうるのである。ラッセル自身、その評伝において「理性の狂信者」と書かれたことを忘れてはならない。自分は神など信じていないからといって安心してはならない。全知全能の神が、理性において自明ならば宗教などいらない。その不在こそが〈宗教的なるもの〉を生み出す〈場〉(khôra)なのだ。その不在の玉座を埋めようとするあらゆる営為は、すべて宗教的といわざるをえない。われわれは部分情報しかもちえない。その空白を埋める〈信〉というものが、我有化の欲望、すなわち権力への意志と不可分の関係にあることを忘れてはならない。そのためにも、〈啓示〉の出所についてはよく吟味する必要があるだろう。すなわち「知らないにも関わらず、すでに知られているかのごとく喧伝されているもの」にはぜひとも疑いをもつべきだ。
 「アーティストは自分が何を作っているのかわからない馬鹿者だ」とデュシャンは言った。トマスもまた「人は神のなんたるかを知らない」と告白し、ファインマンもまた「核実験の是非などわからない」とぶちまけた。トマスは言った。ゆえに「人間の認識能力を超えることがらを、人間が理性によって詮索するのはたしかにまちがっている。しかし神によって啓示されたのならば、信仰をもってこれを受け容れなければならない」(22)と。答えていわなければならない。それが何であるか明らかに答えることのできるものは、理性によって知られ、信仰によって知られることがらではない。理性において自明ではないものを語るのが信仰であるとの定式に照らせば、〈アート〉も立派な宗教である。それが〈アート〉であると認定する美術史のテキストもまた宗教的〈正典〉である。良し悪しというより、われわれは人文的事物に向き合う時、ほとんど常に宗教的に思考せざるをえないのである。〈イスラム国〉的なものを狂信者と非難するのはよいが、この見落とされがちな事実について、われわれ自身、もっと自覚すべきであろうというのが、今回の結論である。

(*1) (*2) (*3) (*4) (*22)世界の名著 続5『トマス・アクィナス』Thomas Aquinas〔著〕,山田晶〔編〕,中央公論社,1975,p.102-103,104,81
(*5) (*7) (*13) (*14)『芸術闘争論』村上隆〔著〕,株式会社幻冬舎,2010,p.65-66,p.8,p.65,p.8
(*6) (*10) (*20) (*21)『人生についての断章』Bertrand Russell〔著〕,中野好之,太田喜一郎〔訳〕,株式会社みすず書房,1979,p.164,p.212,p.218,p.210
(*8)『越ちひろ ART、マネー、そして野良犬』(『越ちひろ展 強く儚き優しい絵』パンフレット所収),服部,2013
(*9)『ヒューマン・ソサエティ――倫理学から政治学へ』Bertrand Russell〔著〕,勝部真長,長谷川鑛平〔訳〕,玉川大学出版部,1981,p.2
(*11)世界の名著58『ラッセル・ヴィトゲンシュタイン・ホワイトヘッド』Bertrand Russell,Ludwig Wittgenstein,Alfred Whitehead〔著〕,山元一郎〔編〕,中央公論社,1971,p.157
(*12) (*15) (*16) (*17) (*18)『科学は不確かだ!』Richard Phillips Feynman〔著〕,大貫昌子〔訳〕,1989,p.96-97,p.126-127,p.43,p.9,p.134-135
(*19)『心と脳の白熱教室』第3回「あなたの中のサイコパス」NHK教育テレビ,2015年8月7日放送

服部 洋介 Yosuke Hattori 
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
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