アートと思考⑩ 展翅された美術史

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文・画像 / 服部洋介

 今年1月、所用でタイを訪れ、法律、会計、メディア等の関係者と懇談する機会があった。クーデター前夜で、まだデモとかいってた頃だね。駅や公園で陸軍や国警が警戒にあたっていたが、銃はもっていなかった。そこで過去にいらんこと書いてタイの警察に捕まっちゃったN氏に会い、なんでかバンコクまで来て日本イスラエル同祖説の話で盛り上がってしまった。と書けば、現地駐在の人ならN氏が誰か丸わかりだろう(笑) タイの東大ことチュラロンコーン大学でも教えていた人物である。何を教えていたのかは謎だけどもね。
 さて、タイで高等教育を受けた人に会ったら、ぜひとも英語のアルファベットを発音してもらおう。A、B、C……はよいとして、Hで問題が発生する。日本人ならéɪtʃであるが、タイだとなんとhéʃである。フランス語のH(aʃ)からきているのかとも考えたが、不明である。前出N氏曰く「私がタイでパートナーとして信じられるのは、watchをウォッチと発音できる人」(笑) ほっとくとwashになっちゃうからね。世界で最も通約可能性の高い英語でさえ、国が変わればこのありさま。グローバル化したがために急速に同一性が拡散し、各地に特有のブロークンやピジンが生まれたのだろう。それでちゃっかり通じてるしね。アカデミー・フランセーズが作り上げたフランス語と、それを守ろうとするフランスの言語政策に象徴される同質性とは対照的だ。フランス語を優遇するツーボン法によって、公共の電波ではうっかり英語も使えない。フランス人は、自国文化へのプライドから英語をしゃべらないのではなく、そうこうしているうちにしゃべれなくなっちゃったのである。そういや彼らもイタリア人と同じで語頭のHが発音できず、heroがエロになってしまうのは、もはや笑い話、そんなんじゃ英語は発音できないぞ! なんせ「近頃は英語交じり(フラングレ)で話す若者が増えた」というだけで話題になってしまう国である。そんな国から中央集権的な教育行政を学んだ明治日本だが、各地の藩校を片っ端からつぶした時には、当のフランス人からも「そこまでやるか」とおどろかれた。
 じゃあ、アメリカはどうか。フェミニストのようなアンチ・フェミニストのような社会学者カミール・パーリアは「アメリカに脱構築は不要」と胸を張る。「アメリカは移民の国であり、人生、言語、行動に関する考え方も実に多様である。フランス人は気取り屋で、同質的なものを好み、アルジェリア人たちを抑圧している。だから、フランスに欠けているものが、アメリカには存在しているのである。ユダヤ系アルジェリア人のデリダが立ち上げた独自のプロジェクトは、アメリカで適用できるようなものではない。アメリカでは必要ないものなのである」(1)。そんなことレントシーキングで主導されたグローバルスタンダードとかいってる国に言われたかないよって話である。もっとも、アメリカも今やただの一地域であり、グローバル資本主義の主体ってのは、国や政府ではなく、アメリカ的手法を用いて拡大する多国籍企業である。アメリカにしてアメリカではない《アメリカ精神》というべきシミュラクルが独り歩きを始めたのである。かつてヴァレリーが「権力の次元において、また精密な認識の次元において、ヨーロッパは今日もなお、地球上の残りの部分よりもはるかに重みをもっている。いや、わたしは間違えた。優位に立っているのはヨーロッパではない。それは《ヨーロッパ精神》であり、アメリカはそれの怖るべき創造物なのだ」(2)と述べた事態が、今度はアメリカ自身の上に起こっているというわけだ。
 さて、話は英語に戻るが、仕事の関係で早大の客員研究員という人と何度か会ったことがある。考古学の国際学会で発表するということで、付け焼刃で英語のスピーチを練習していたのを引き留めて、塚掘り六兵衛について聞いたことがある。「塚掘り……ああ、考古学の世界では知られた存在ですよ。今度くわしい人を紹介しましょうか」と勧めてくれたいい人である。皆さんは知ってますか? 森将軍塚を盗掘したつわもの、北村六左衛門のことである。それはともかく、国際会議ではクイーンズを話せないと馬鹿にされるという権威主義的な考えが、長野あたりでもはびこっているのは事実だ。ネリエールなら英語はやめてグロービッシュにしないと国際ビジネスに適応できないと言い張るだろう。英語が苦手なフランス人らしい言い草である。日本人も堂々とジャパニングリッシュで話せばいいか知らんが、お役所の書類や学術論文までぐちゃぐちゃな英語だったらヤバイよな、きっと。
 英語ではないが、「言語」の問題については、私にも似たような経験がある。学部の卒業論文を書いた時、口頭試問で中世史の教授からえらく怒られた。理由「学術論文にあるまじきチャラい語を使用するとはなっとらん!」。当時の私はといえば、人様にケンカを売っとるようないでたちで、いたずらに先生の敵愾心を煽り立ててしまった感なきにしもあらずだが、他方、私の専攻はそもそも古代史で、ある意味、構造主義的な手法がウケたのか、ゼミの指導教授からはずいぶん評価され、「手法もしっかりしており、結果も出ている。院にはろくな論文がないから、君が行け」と博士前期の先輩を飛び越えて某学会の発表者に推挙された。「この差は何なのか」と遠吠えしたところで、村上隆にいわせれば、これは「自由という名の野良犬」というやつで、世の中のルールに従わない奴は偉くはなれない。エスタブリッシュされたフォーマットへの同一化を心掛けないと、よほどの理解者にでも恵まれない限り、パワーエリートにはなれないというわけだ。
 もとよりアカポスにつく計画もなかったので、進学など考えてもみなかったが、修士はまだしも、文系博士の悲惨な現状を見れば、「院なんて行かなくてよかったあ」ってことにもなるだろう。それじゃヤバイってんで、最近では博士課程教育リーディングプログラムなんてのもあるわけですが、ともあれ、基礎校費も削られている今、常に社会課題とリンクした研究をするか、そういう説明ができるようにしておくようにと、先般、母校の後輩にも講義した次第です。信州大学の中村八束名誉教授は問題を次のように指摘する。「どの研究をやれば就職に有利かということを学生も知らないし(大学も)悟らせないようにしている。一つには、(大学は)学生をもつほどに利益が出せるというのと、学生をもてば自分の研究領域をアピールできるということがあるんですよ。学生をただで人足として使えるので、企業の依頼研究も安く請けられたりするわけです」(3)。基礎研究をやるにも国の役に立つことをアピールしなきゃいかん時代、ただ好きなことを勉強するだけでは趣味と同じで、お国も企業もお金はくれない。勉強だけして褒められるのは高校までというわけだ。学問もジャンルごとに格差があるわけである。
 しかし、「院に進学していたならば、悲惨なことになっていた」という命題は、果たして何事かを語っているのであろうか。対偶をとれば「進学していなかったならば、悲惨なことになっていなかった」であるが、この命題の真理値は1/0/1/1ゆえ、「進学しなかった/悲惨」のみ偽であって、「進学した/悲惨」「進学した/悲惨にならない」はともに真である。つまり、進学していない以上、進学していた場合のことは、わからんのである。「偽なる命題からはあらゆる結論が引き出せる」と言ったのはラッセルだったかと思うが、たとえば、こんな例がある。NHKでやってた韓国ドラマ『イ・サン』で、一儒生ふぜいの丁若鏞が正祖に会って、それとは知らずに「あんたが王様ならば、私は領議政(正一品の高官)だ」なんてことを言ってしまう。もちろん、前件が偽というつもりで言っているのだが、後件もまた偽であり、したがって命題は真となる。
 さて、上に見た通り、現に起こった事態を拡張し、起こってもいない事態の結果までをも占拠しようとする言説は、「リアル」の支配を目論む発語媒介行為といえるわけだが、実際、「起こっていない事態」が「現に起きて」しまったなら、「リアル」の支配は確定できない。したがって、不都合な事態が「起こらないようにする」ことが、権力闘争の要諦である。権力ったって、お国とかメディアだけではない。私が主張するところの「リアル」といえど、「リアル」を主張する限りにおいて権力と変わるところはない。こうやって紙媒体やインターネットにテキストが載ることで、言説は「リアル化」され、そして「三面記事化」(4)する。メディア、写真などに切り取られた現実は、それ自体が三面記事であり、虚構なのだ。三面記事化のフィルタによって濾過された「現実」は、確認の過程を奪われ、見慣れた記事のフォーマットに同一化される。そこに我々は立ち会っていない。無害化された虚構を機械的に消費しているにすぎない。アートにおけるマルチカルチュラリズムが、実は西欧中心主義的なフォーマットに収められた虚構にすぎなかったのは、いわばアート自体が三面記事だからである。問題が安全化されて、なんとなくマルチな世界観を共有した気になって終わっちゃうわけだ。事故とか、ナントカ詐欺とか、社会面の小っちゃい記事にされちゃうと、それこそ被害にあった人以外にとっては毒にも薬にもならない「よくあるアレ」と化してしまうのである。記者の前とか、テレビカメラが回ってるところでは、事物は見事なまでに「よくあるアレ」と化すからね。私なんかも、去年「Mステ」の取材を受けた時には、ものの見事に誰もが言いそうな平均的なコメントを述べちゃったからね。真実のかけらもないね。
ンなことを言う輩が増えてきたせいで、アメリカではテレビよりネットニュースのほうが「リアル」だと考える人が増えているわけだが、それはわかったもんじゃない。しかし、そうした言説が力をもつことで、いつしかネットがテレビから「リアル」の独占権を奪取する日が現実のものとなるというのはありそうなことである。言ってるうちにそれがトレンドになり、最先端の言説にみんなで追従するという、いわゆるエディプス効果である。こうした「予言の自己成就」は、政治の世界でも起こりうる。フレッド・バーグステンが米中共同の世界経営を提唱したG2論を経て、2011年のイアン・ブレマーによるG0論が登場、「アメリカは割にあわない超大国の地位を放棄した」という言説が流行、絶大な影響力をもつCFRの論文にリチャード・ハースが無極化世界における世界新秩序論など載せるに至っては、みんな「そうなんだあ」と信じ込むだろうね。その予測をもとにして行動したら、実際そうなっちゃうというわけである。グローバル・エリートの思うつぼというわけである(5)。これは予測や分析というよりは、「こういう方向で行くよ」という行動計画書なんだね。それを信じるならば、日本も自国の安全保障を強化するいい口実になるわけで、実際、ブレマーなんかはそれを示唆している。まあ、私も偉い人に確かめたわけじゃないから知らんけどね。
 かくして、可能態としての「リアル」は、一つの「物語」として切り取られることで通約可能な「三面記事的リアル」として現前する。それに対抗する形であらわれたインプライベートのような「現実もどき」もまた「物語化された通約不可能性」にすぎないことは、前稿で述べた通りである。アートは三面記事的な展示物である。我々は、アートがアートとしてリアル化する以前、リアル未満の過程に立ち会うことを許されてはいない。「これはアートである」という言説とともに、私たちはアートの存在を知るのである。逆に言えば、何らかの手続きを経て現前した「制度=リアル」の領域以外に、アートは存立しえない。世に出なかった真のアーティストを、私たちは知るすべをもたない。
 そのような「世に出ない芸術家」、「世に出ない芸術作品」を、私たちは手にすることができるだろうか。この条件を厳密に満たすことは不可能だろう。イヴ・クラインや松澤宥のような不可視もどきのアート作品なら存在できようが、「これが作品です」と展示している限りは、所詮「リアル」と「アート」の押し付けにすぎない。私たちの主体的な判断はさほどの重みをもちえない。ところが、一度はそこからスタートしながらも、今現在、正真正銘の「確認不能アート」になってしまった作品が一つだけある。2010年、寄付金総額269,563円を計上した越ちひろ主催のチャリティ展覧会『IMAGINE ART FOR THE CHILDREN』に、上田裕子といふ作家が参加していた。で、会期中、謎なミクストメディアを並べたり、来場者とお茶したりと、かなり奔放に過ごしていたわけですが、そこに『体液』といふ、ちょっとルイーズ・ブルジョワを思わせる意味深な作品が出展されていた。というか、まだキャプションだけで、ブツはなかった。「これから作る」と本人談。で、私は当人不在の時に来場して、係の人に「これ下さい」と言って金だけ払って帰ってしまったのだが、その後、『体液』はどうなったかというと、今もって消息不明。さすがは上田ゆーこである(皮肉ではなく)。ハーストみたいな画廊のゴミ的ブツを作られても困ると判断した私は、ちょっと注文をつけた。どんな話だったかは割愛しますが、とにかく、むずかしいお願いをしたわけです。結果、今日までなしのつぶて。さあ、果たして、この「なしのつぶて」体験自体がもはや作品なのか、単に本人が怠けて何も作っていないだけなのか。私は未だ「これがリアルだ」という宣告を受けてはいない。私は事態の真っただ中にいる。ゆーこという人物が存在したという記憶を接点に、私はアートという語と共に語られる何事かをくりかえし体験する。それがアートなのかどうかもわからない。だが、「アートかどうかわからない」という言葉の中に「アート」なる語はすでに含まれているのである。この「アート」という閉ざされた「リアル」を開け放ち、「アートなる語」自体を指示することに成功した上田ゆーこというアーティストを、私は大いに「歓待」するところなのである。
 現代美術における「作品」は、「これはアートである」という言説や身振りによってアートとしての正統性を付与されてきた。今や必要なのは言説や身振り、制度ではない。「アートなる語」そのものである。「アートなる語」が使用される都度、そこにアートなる現象が呼び出されるのである。それは語と対応する作品のイメージではない。「アートなる語」そのもののイメージなのだ。言語はそれ自身のルールに従う。経済の言語である貨幣が、対応関係にあるとされる現実のモノの機能的価値とは無関係に増殖を繰り返すように。「アートなる語」もまた現実の擬似的な対応物に分有されることで「リアル」を現出させる。「芸術・家」「芸術・作品」「美術・館」――というように。だが、今や我々は、それら派生物ではなく、「アートなる語」そのものに向き合うべき時を迎えたのだ。それは「アートとは何か」などという周縁的な問いではない。問いも答えもない。それは現実に対応物をもたない、つまり概念の欠落した名辞であるからだ。我々はそこに標本として緻密に観察され、分析され、永遠に保存される考古的遺物としての作品も、その墓場としての美術館も要しない。「アートなる語」によって仄めかされる可能的場を作品によって埋め、永遠化する過程が「アート」である。いわば「アート」とは、「ナニモノか」についての不自然きわまりない存在証明なのだ。この連綿と続く永遠化の欲望、そのマニアックな記録こそが美術史なのである。

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 展翅台上のチョウに魅せられた蒐集家、そして標本商たちにとっての「ムシ」=「アート」――この「展翅された美術史」は、単なる比喩ではない。千葉大学で作物学を専攻し、虫の研究をライフワークとする、みんとも(1986-)の作品は、スーザン・ヒラーの『フロイト美術館』を虫に置き換えた「標本」である。虫から人文へ、その展翅と標本化の概念を拡張することへの恐れと不安について、みんともは語っている。次回。
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(*1)『90分でわかるデリダ』Paul Strathern〔著〕,浅見昇吾〔訳〕,株式会社青山出版社,2002,p.109-110
(*2)『他の岬 ヨーロッパと民主主義』Jacques Derrida〔著〕,高橋哲哉・鵜飼哲〔訳〕株式会社みすず書房,1993,原注p67-68(ヴァレリー『アメリカ――ヨーロッパ精神の投射』の引用とされるが、『ヴァリエテ』所収「覚書」の誤りか)
(*3) 2014年4月8日。筆者との対話。
(*4) 『消費社会の神話と構造』Jean Baudrillard〔著〕,今村仁司・塚原史〔訳〕株式会社紀伊國屋書店,1979,p.28
(*5) 『アメリカを支配するパワーエリート解体新書 大統領さえも操るネットワークのすべて』中田安彦〔著〕,PHP研究所,2009,p.336-337

fig.1 | RÖRSTRAND, THE BODY feat. MINTOMO , 2014
fig.2 | Coleoptera Specimens, MINTOMO , 2014
fig.3 | THE BODY feat. MARIA DI STELLA, 2014

服部洋介 Yosuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14