すこしだけ地に触れながら浮いている – 井上井月と私 –

文・写真 / 北澤一伯

the Far East20131201 「すこしだけ地に触れながら浮いている」レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクト

the Far East<極東>20131201 「すこしだけ地に触れながら浮いている」 
レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクト

露に實の入りて翻るる月夜かな  井月

 馬場家より私への結婚祝いとして私に贈るつもりだったと前置きされて、母の米寿祝いの席で、私は掲句の短冊をいただいた。今から五年ほど前のことである。
 平成十三年秋、造り酒屋を営んでいた駒ヶ根市東伊那塩田の屋号米屋(よねや)の九代目当主、馬場行恕(ゆきのり)が、自らの喜寿と妻松代との金婚祝いを期に自宅の庭に生月の句碑を建立した。同家を好んで訪れた井月との親交を、代々伝え残そうと考えたという。自然石の句碑は台座を含めて約四尺。表には同家に短冊として残る七句を、裏面には井月との親交を次のように刻んだ。 

『当家五代平五郎 六代伊三郎は共に俳諧を嗜み漂白の俳人井上井月(一八二二〜八七 行年六十六)と親交が深かった この縁によりて井月の真筆による短冊七句(表に模刻)が代々伝えられて現存する さらに当家に関わるものとして左記の句が詠まれている
馬場氏の酒造を寿ぎて
常に云う望みは足りて冬牡丹
平成十三年秋 記念金婚 九代行恕松代建立』

 その中の短冊一句を私は戴いたわけである。
 ちなみに、金婚を迎えた時の行恕の妻松代は六十八歳。伊那市東春近の造り酒屋だった屋号「酒屋」より馬場家に嫁いだ時はまだ十代だった。今年初夏に逝った私の母の妹。私の叔母である。
 句碑は、造り酒屋「米屋」の馬場家五代平五郎六代伊三郎は俳諧を嗜み、井月に好意的であったと伝えている。それは、馬場家に関わりを持つ人々が井月の優れた力量を感じとり尊敬の念が強かったということだろう。井月もまた、馬場家を俳句によって寿ぐという長期的な相互理解の関係を築いていた。
そして、馬場家で雇われて働きながら井月より俳諧の教えをうけ、井月に気に入られた竹風(竹松銭弥)の存在も馬場家との関わりから生まれたようだ。

  明け易き夜を日に継ぐや水車

 この句は井月が竹風に送った句とされている。
  竹風の生家は火山峠の北麓の伊那市富県南福地にある。竹風の母親は馬場家に生まれ、竹松家へ嫁いだ。その縁故で馬場家に働きにきていた竹風は、実直者で俳諧の道にすぐれていたという。造り酒屋の仕事は多い。そこで働く人に俳諧を学ぶ気持ちをおこさせ、成長をうながしたとしたら、井月のすぐれた指導者としての側面をうかがわせる。また竹風は、芭蕉の陶像一体,七部集一部、歳時記一部自著一部など井月の遺物を貰ったほどの深い関係にあった話が、井月研究誌に記録されている。誰が竹風にあたえたのかははっきりしないが、乞食と呼ばれた井月にも所有していたものがあり、その所有物を引き継ぐことに、誰もが異論がない関係だったということだろうか。
 竹風は、明治十九年、火山峠で行き倒れていた井月が名前を呼びつづけた人物といわれ、縁故の深い六波羅霞松の家を経て美篶大田窪の塩原家に運んだ本人とされている。これに関連して、現在の伊那市富県にある酒井医院の酒井医師の家には、曾祖父が当時南福地で開業していた際、火山峠より井月が運びこまれ、酒井宅でしばらく静養した後、美篶村へ送られたという言い伝えがあるようだ。いずれにせよ、南福地の人々と井月の交流は格別なものであったのだろう。
 私の現住所もここの集落にある。

「郷土読み物 井月さん」井上井月略年譜には、明治二年に井月が富県村日枝神社訪額揮毫したことと記されている。
日枝神社は南福地池(いけ)集落にあり、私は社寺係として新嘗祭や秋の例大祭に参列したこともある。神社の建物は本殿と舞台が向かい合い、本殿は山側の高所、舞台は見物場所の芝生をへだてて低く位置して、間口八間奥行五間、二階があって大きい。奉納額は縦一尺五寸横二間半。揮毫を依頼された井月の徳望の高さをうかがうことができる。
 昭和三十一年十月夕方、小説家・作家石川淳(一八九九〜一九八七)が、別冊文芸春秋へ連載中の「諸国畸人伝」の取材のために訪れたと、「俳人 井上井月(伊那路文庫)上伊那郷土研究会」に、当時市の助役をしていた埋橋粂人氏が「井月と南福地日枝神社の奉納額」と題して寄稿している。その「諸国畸人伝」の文中で、石川淳はその書を『私は奉献の二字をみただけで満足した。遠目ながらこの二字はよく書けていた』と書いている。実はこれまでに、石川淳について語る人と伊那で出会ったことはない。不思議なことである。
 富県南福地にある神社は諏訪社と日枝社の二社。毎年、風鎮祭という祭がある。六月下旬、お祓いを受けた氏子が玉串を地区の村境に立てて、集落全体に結界を張り、外部の「悪い風」を防御する神事である。悪い風とは台風や疫病だけではない。村落に損害をもたらすすべてである。茶や薬を売る人、馬喰、呉服商、流行、時代の思想などもまた、村境の結界を突破もしくは浸透した新しい風だったと考えられよう。石川淳が語られないのは、その出現が一過性の突風のようなものだったためだろうか。
 長岡に生まれ成人して幕末期の江戸に出て、しばらくの行動は不明。出生地に帰ることなく、過去を語らず。井月が伊那谷の村から村へと村境の結界を行き交うことができたのは、井月の俳句にある、祝賀の要素を持つ知的な営みとともに、定住しない精神の在り様が伊那地方の識者に重要視されたからではないかと私は思う。そして、三十年を伊那の地を移動し、旧家の養子となるも、臨終まで俳句を詠む生き方を生き遂げる。春風に身を任せ、秋風に心を委ねるところに徹して生きる風狂の風である。私はそこに今一番興味を持つ。
 上田秋成は、芭蕉の旅をやや否定的に次のように評している。
「・・所定めず住みなして、西行・宗祇の昔をとなえ、檜の木笠・竹の杖に世をうかれあるきし人なりとや」(『去年の枝折』)
 私は、長いこと伊那市富県南福地を住所とし、郷に入り郷に従う困難さを体験した。地団駄を踏まないと地に足はつかないというのが、実感である。農村に家を構えるということは、地に足をつけて暮らすということである。
 しかし、己を見つめ、制作をして発表していく過程には、土地に触れつつ、場所に根付かない質が確かに在ると感じることが、私には多い。つまり、言語や物質を素材として表現しようとする事とは、土地の定住者つまり村人に「世をうかれあるき」していく毎日を見せる生き方、地に触れつつ日常より浮いている精神を伝え続ける在り方であると、私は思う。そして、定住者は「世をうかれあるき」する風狂の末路を最後まで見届け遂げる重要な役割を背負うことで、己の現在を「世をうかれあるき」不可能な存在として自己否定的に確認するのである。私見であるが、伊那人に井月が重要視されつつも冷遇的でもあった眼差しのひとつであろう。
 芭蕉の旅をさら徹底させたような漂泊をする井月には、風流、風雅といった言葉の迷彩服を剥ぎ取った後の俳人の「俳」の彷徨がある。芭蕉から井月への接続点がこのあたりだとするなら、最晩年の井月にこそ、私は畏怖と畏敬の念以上の感覚を覚える。
私が、これから最後までやり遂げるべき美術を考える時、井月の営みは剛胆な魂の力技と感じてならない。

井上 井月(1822年頃~1887年)は、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた俳人。越後の長岡藩生まれと推測されている。別号に柳の家井月。 

 
北澤一伯(きたざわ かずのり)
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。94年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。
また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。その他「いばるな物語」連作、戦後の農村行政をモチーフにした「植林空間」など。現在継続しているプロジェクトに「池上晃事件補遺 刺客の風景」と『くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる「固有時と固有地」』(長野市松代大本営地下壕跡)がある。