じいちゃん

文 / 山本正人

仕事をしていると、昼前に母から電話が鳴った。
「おじいちゃん、もうダメかも・・」
その日がじいちゃんの命日になった。

3週間程前、じいちゃんと私たち一族は、名古屋にいた。
私より一回り若い従妹が、名古屋人のところへ嫁ぐことになり、
地元長野から5時間以上かけて、結婚式に出向いていたのだ。

祖父は92歳ながら、自分でスタスタと歩き、
何でも自分でやり、人の手を借りることは無かった。
その結婚式で、こんなことがあった。

教会の入り口には、30センチ以上はある段差があった。
会場に入るには、その段差を乗り越えていかなければ入れない。
私は“やけにキツい段差だな”と、ふっと思ったが、それ以上気にしなかった。

挙式が終わって、会場の外で記念撮影があるという。
新郎新婦の後、出席者が会場を出る際、
式場のスタッフが、「段差がありますので、ご注意下さい」と出口で皆に声を掛けていた。
会場の外では、新郎と新婦が華やかにスタンバイしていて、私はそちらに気を取られていたが、
そう言われてハッと思い出し、足下を気にしながらその段差を降りた。

すると、私の少し後ろで、「ドタンッ」と音がした。
振り向くと、じいちゃんが床に倒れていた。
その瞬間、会場の作りにカーッと怒りが湧いてきたが、従妹の手前もあり何とか気持ちを落ち着けた。
じいちゃんは眉間のあたりを床に打ち、アザになったが、
「大丈夫、大丈夫」と応えていた。

考えてみれば、「段差がありますので、・・」などというのは、
その段差でつまづくような問題が今までにあったからだ。
声を掛けるよりもしなければならないことはあるだろうに。
その段差のある褐色の床は、
色調デザインへの配慮のつもりなのか、段差を分かりづらくしていた。
つくづく出来の悪いものだと感じた。

たぶん、教会のヴァージンロードがガラス張りで、下に照明や花の装飾をしてあったので、
そのセットの為に会場全体を30センチから底上げしているのだろう。
それにしても、入り口のあの大きな段差は、手抜き以外の何でもない。

私はどこか悶々としながらも、
披露宴の席に着いた。
淡々と宴が進む中、じいちゃんは徐に席を立ち、
式場のスタッフリーダーらしき男性に声を掛けた。

「さっき私が転んだ挙式会場の入り口の段差だが、私の不注意もあるけれど、構造に問題があるんじゃないですか。」

私はなぜか嬉しかった。

じいちゃんは、曲がったことが嫌いな頑固な人だった。
じいちゃんの弱音を、私は一度も聞いたことがなかった。
ばあちゃんは、じいちゃんの一歩後ろを歩くような人だった。
祖父母夫婦は、戦中戦後の頃の夫婦像そのままだった。
ばあちゃんは、ここ数年で痴呆が進み、
名古屋へは行かず、老人保健施設に泊まっていた。

名古屋からの帰り道、
マイクロバスに揺られながら、私たちはほとんどが、眠っていた。
夕方に名古屋から出たバスは、夜通し5時間から掛けて長野へと向かった。
前日からのちょっとした旅行で、みな少なからず疲れていた。
でもじいちゃんは一睡もせずに、バスの外の夜景をずっと眺めていた。
「じいちゃん、少し寝たら?」
「いや、いいんだ。」
高速から見える夜景をただ静かに眺めながら、そう答えた。

帰宅したその日の夜半、じいちゃんは体調を崩し、翌日病院に入院した。

肺炎だった。
翌日、入院したと聞いた私は、
正直、その診断を聞いて少しホッとしていた。
肺炎は、今ではそれほど大変な病気ではないと勝手に思っていた。

ついでに私の家族も名古屋から帰ってきて、
子供3人が順繰りに熱を出し、すぐに見舞いにいけず、
その週末に少しだけ病院に顔を出した。

病院では、私たちの他にも、幾人かの親族が見舞っていた。
それでもじいちゃんは、心配して集まる身内に「いいから、帰りなさい」と、促すのだ。
祖父の気の強い言葉に、皆和んだ。

ところが翌週、病状は悪化する。
肺炎の薬を処方しても改善せず、
肺に水が貯まり酸素吸引無しではいられなくなったという。
老化のため、肝臓と膵臓もあまり機能していないともいう。
そして、肺の力が無くなり、言葉が出せなくなっていった。
担当医からの説明はどんどん深刻になり、
「もう退院することはないだろう」とまで言われるようになっていた。

その週末も、家族を連れて病院へいった。
子供達は、周囲の心配つゆ知らず、ところ構わず騒ぎ立てて、
じいちゃんに「また来たのか」と言われるほど。
私たちが帰り際、じいちゃんは子供達に「バイバイ」と手を振ってくれた。
子供達も手を振って返した。
その言葉が、私が聞いた最後の言葉になった。

もう効果が期待出来ないから肺炎の薬を止めたそうだと嫁から聞いた日、
仕事帰りに病院にいくと、
親戚のおばさんが、
「じいちゃん、歌が好きだったから歌ってあげたいんだけどさ。。歌詞が分からないよ」
という。
私はとっさに閃き、スマートフォンを取り出して、
思いつく歌をじいちゃんの耳元で聴かせてあげた。
曲を流すと、ずっと目を瞑っていたじいちゃんが目を開けて歌に耳を傾け始めた。
そして聴きながら、涙を流すのだ。

これまで、じいちゃんの涙をほとんど見たことが無かった私は、
喜んでくれたことが嬉しくもあり、その弱々しさに切なくなりながら、
1950年頃の歌謡曲をいくつも流してあげた。
戦争を経験した祖父だったが、
戦後の歌の方が好きなのだと、そのとき叔母さんから初めて聞いた。

途中、じいちゃんは、
聴きたい曲があったのか、何か私に伝えようとしていたが、
もう言葉を発音する力はない。
それでも、力ない手を動かして、スマートフォンをより自分の耳元へと近づけて聴いていた。

この時ほど、携帯電話の進化に感謝したことはなかった。

約1時間半ほど歌を聴いた後、じいちゃんはまた目を瞑った。
「また明日、来るね。」
それに答えるように、じいちゃんは荒いため息のような返事をした。

その日、家に帰ってから、じいちゃんの好きそうな歌を録音してCDに焼き、
翌朝病院に行くお袋のテープルにラジカセと一緒に置いた。

翌日の夕方、病院でじいちゃんがまた何か言おうとしていたが、
発する音は昨日よりさらに弱くなっていた。
じいちゃんが言おうとしていたことが気になり、
その日の夜も、違う曲を集めてCDに焼いた。

その次の日、朝から看病していたお袋からの連絡で、仕事を早退して病院へ向かった。
夕方、じいちゃんは息を引き取った。

じいちゃんが入院している間、
痴呆のばあちゃんは、自分の家にいながら、
「あたし、うちへ帰りたい」と繰り返していた。
現実と想像の世界で、じいちゃんがいない家を
自分の家と思えなかったのかもしれない。

出棺のとき、
そんなばあちゃんは、すみれの花をじいちゃんの顔に添えながら、
「追いてかないで」と泣いた。

私は後悔した。
もっと早く、じいちゃんがまだ喋れるうちに、
聴きたい曲を聞いておけば良かった。

約一世紀近くにもなる長い人生の中で、
たかだか60曲ほどの曲の中に聴きたい曲はあったのかな。
今も手元にある、焼くことが出来なかった歌のリストに、
一番聴きたかった曲があったかもしれない。

寝ないででも、作って聴かせてあげれば良かった。

火葬場の煙突から、じいちゃんが天に昇っていく煙りを見ながら、
心とは裏腹に、その日はポカポカとした心地よい春の日だった。

山本正人 Masato Yamamoto 1976~
群馬大学教育学部卒 長野市在住 土木関連業務